2013年12月10日火曜日

「日本の染織文化」 5

先週の「日本の染織文化」講座を簡単にまとめてみました。

会場のホールには、大きなクリスマスツリーが飾られていました。

 
今回は「着物」「小袖」「呉服」「和服」などの言葉の違いについて説明していただきました。
 
「日本人が着ているモノ」を表した歴史資料としては、戦国時代にイエズス会のポルトガル宣教師が日本に来た時の報告書に、現代人が思い浮かべるいわゆる着物と同じような服装をしていたという記述が残っているそうです。
 
その報告書には、当時の日本人が着ていたもののことを「クゥイルモノ」(ポルトガル語)と書かれていて、それが「着物」と呼ばれていた衣服を指すのではないか、というお話でした。
 
ちなみに「呉服」というのは飛鳥時代の名残りの用語のようです。「呉服」の「呉」は呉の国のことで、それが「中国」全体を表す意味になったようですが、いつ頃から呉服という言葉が使われたかはあまりはっきりした説はないようです。
 
また桃山時代には、着るものは、「着物」と「小袖」の両方の用語で呼ばれていました。
 
元々、「小袖」という言葉は、本来は「大袖」に対応する言葉でした。
つまり袖口の大きさによって、小さいものは「小袖」、大きいものは「大袖」と呼ばれていました。
それは所属する階級を表していて、労働しなくてよい貴族階級は、手が動かしにくい「大袖」を着て、労働しなくてはならない庶民階級は動きやすい「小袖」を着ていたということから「小袖」という言葉が使われました。
 
それが鎌倉時代になり、新勢力の武士階級が生まれると、それまで筒袖を着ていた彼らも支配者であることを表現するために着るものに変化をつけてきます。
男性は小袖に直垂をつけ、女性は小袖に打ち掛けをまとうというように、貴族階級の衣装を取り入れてきたのですね。
 
その後、桃山・江戸時代になると町民階級が出現してきます。
そして町人文化が栄えることにより、公家階級や武家の人々の着るものも、現在の着物の形に近づいて行きました。
 
ところが明治時代になり、「大袖」を着ていたような階級の人たちは洋装を着るようになりました。それにつれて「小袖」という言葉もなくなり、「着物」という言葉が残ったそうです。
 
 なお「和服」という言葉は、大正時代になり、「西洋服」に対応する言葉として「和服」という言葉が生まれたそうです。
 
ざっと用語の使い方をまとめてみましたが、言葉は歴史の移り変わりと身分の違いによって変わっていったことが分かりますね。
 
現在の日本では、(表面的には)それほど身分の違いによって着るものに制約はないようですが、戦争前は身分によって着るものが歴然としてあったわけです。
身分によって着るものが決まっていたのは、オシャレをしたい人には不満もあったでしょうが、そこには抜け道もあり、江戸時代には「見えないところ(奥や裏側)にオシャレをする」という文化も発達したわけですね。
 
毎回、ためになるお話をしていただいてありがたいのですが、先生のお話は、常に1分たりとも休憩がなくまるまる120分続くのです。
トイレ休憩もないので、大変。
大学の授業は普通は90分単位だと思うのですが、せめて途中に5分くらいの休憩を入れてほしいですね。

 
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この日の装い。
 
講座の時はとにかく地味路線です。
 
(半襟が浮いてしまい、すごく気分が悪かったのですが、時間がなかったので仕方なく写しました。)
 
黒の縞模様の紬。あちこちに朱色、紫、黄色などの刺繍が入っています。
神社の骨董市で3000円で買ったもの。
2010年の3月から着物を着るようになって、その後に初めて骨董市で買った着物です。
着物のことはまるで素人だったので(今もそうですが)、あまり気にせずに、洋服感覚で買ったシロモノです。



朱色の帯は二部式帯で、こちらは500円。
元の職場の近くのリサイクル着物屋さんで買ったのかしら。

黒の帯締めは八王子の着物グループに参加させていただいた時に、ビンゴで当たったモノ。

黄色の帯揚げは、可愛らしくBerry工房さん。これだけは若向きなのですが、ふわふわしていて気分を明るくしてくれる、お助けものです。



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