2014年1月14日火曜日

「日本の染織文化」 7 ~光琳模様~

前回の講座で、「友禅染というのは実は友禅さんと関係がなく、人気扇絵師の友禅さんが描いた友禅模様と、染めの技法が混同してしまったもの」というお話を聞きました。

今回も似たような例で、「光琳模様」についてお話を伺いました。

つまり光琳といえば江戸時代の代表的芸術家の尾形光琳のことですが、「光琳模様」というのはその光琳さんが作ったものではなく、光琳風の絵のある着物である、という内容でした。

光琳の実家はかりがね屋という老舗の呉服屋さんであったことも、その誤解の一因となっているそうです。

実際に光琳は着物に絵を描いたこともあります。
(冬木家の秋草紋様小袖)

しかし、それ以外は光琳風の雛形本というのが多く出廻って、つまり呉服屋さんが販売拡大を目的として、「光琳模様」というのを売り出したということでした。

光琳模様が最初に文献に登場したのは元禄年間(1699年)のことだそうです。
そしてその後の宝暦年間(1760年)までその用語が続いたということですから、ずいぶん長いブームだったわけですね。

ただし光琳の亡くなった後まで「光琳」と名付けるのは憚って、そのあとは「光林」と言い換えていたそうです。「光琳もどき」とでもいうのかもしれませんね。

こちらのテキストは、その光琳模様の雛形本の一部です。


これらの雛形は、今でいうファッションブックのようなもので、気に入った雛形を元にして、そこから色を決めたりして絵を染めたそうです。
お得意様は大名クラスの奥方などだったようです。

雛形が最初に登場したのは、今でいう女性向けの総合雑誌でしたが、その後に着物専用の雑誌になったそうです。
このことを先生は、「婦人画報」から出発した着物雑誌が「美しいキモノ」であり、「家庭画報」から出発した着物雑誌が「着物サロン」であるのと同じこと、と説明していました。
なるほど、いつの時代でも編集者はいろいろと考えて、読者対象を確定して購買力アップを目指していたのでしょうね。

また江戸時代の着物の注文方法というのも伺いました。

当時は武士階級と町人階級には歴然とした差があったので、お互いに口を聞くことができませんでした。

それで武家の男性が着物を注文するときは、御納戸係という人が呉服屋に発注していたそうです。
武家の女性の場合は、老女や呉服係という人が、呉服屋に発注していたそうですが、その数が半端ではなく、ものすごく大量の着物を発注していたそうです。というのも当時の着物はクリーニングができなかったので、何回か着るとそれは下の者に払い下げていたからだそうです。
彼らは絹の着物を着ていました。

また町人の男性が着物を注文するときは、家族が呉服屋を自宅に呼んで、そこで注文していたそうです。
町人の女性の場合は、本人が呉服屋に注文することができました。

そして庶民は紬か木綿しか着ることができず、自分で仕立てていた人も多くいました。

こんな内容のお話を伺いました。
ざっとまとめてみると、それほど難しい内容の講義ではないのですが、昔の文献(それも崩し文字)を追いながらなので、良く分からないこともたくさんありました。
単純に着物の講義と考えていましたが、歴史学や古典文学とも深いかかわりがある講義で、おまけに2時間ぶっ通しなので、かなり厳しい時間です。

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この日の装い。

市民カレッジに行くときは、きわめて地味な着物にしています。
というのも着物姿の人が私しかいないので、あまり浮かないようにしているのです。

ところが、この日はお正月だったせいか、もう一人、着物の人がいました。
結構、派手な光る着物でしたので、それなら私も他の着物でもよかったのに、と思ったほどでした。

黒とレンガ色の亀甲柄風の大島紬。
帯は花織風の名古屋帯。
どちらもデパートの「今昔着物市」で買った無難なリサイクル品です。


ほとんど主張がありませんね。

でも大島紬は素早く着られるし、安心できる組合せです。





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