2015年7月9日木曜日

最近、読んだ本 ~だから面白い~

このところ時代小説ばかり読んでいます。

先日、「シティマラソン」という現代短編小説集(三浦しをん、あさのあつこ、近藤史恵)を読んだのですが、現代のお話は、なんとなくぴったりときませんでした。


ということで、やはり時代小説に戻ってしまいました。

1冊は徳川家康の正妻の一生を描いたもの。
この人は悪妻の見本のように言われていますが、それをどのように描いたでしょうか。

もう1冊はご存じ忠臣蔵の四十七士に入らなかった武士のお話です。
へぇ、そんな人もいたのですね。

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「月を吐く」
諸田 玲子 (文春文庫 2003年)


静岡県駿河に「吐月報柴屋寺」という月の名刹があるそうですが、そのお寺に残る名言
「陽が落ちれば月が昇り、月が落ちれば陽が昇るように、世の中は常に移り変わる」
にちなみ、「月を吐く」というタイトルの時代小説です。

主人公は徳川家康の正室である築山殿。
彼女は悪妻として有名ですが、この小説では彼女の幼少期から死に至るまでが描かれています。

彼女は、今川義元の姪にあたるお姫様でした。
幼いころから恋い慕っていた男性がいたのですが、時代に翻弄され、もちろん好きな人に沿うことはできませんでした。激しい恋心を胸に秘めながら、今川家の人質だった家康に嫁ぐことになります。
しかし正室でありながら、岡崎城に住むことはできず、築山御殿というところに半ば幽閉状態にされました。

この小説では、家康の母親である於大との確執が、昼ドラマ風に描かれているところが、妙にリアルでした。
また家康も若い時には良き夫だったようですが、築山殿は、次第に彼に疎んじられるようになります。

築山殿は、最後には夫である家康に殺されてしまうのですが、夫婦でありながら、殺したり殺されたりしなくてはならない戦国の世の中の無情が伝わってきました。

彼女が恋い焦がれた人というのは、創作上の人物だと思われますが、とても乙女チックな女性として描かれていました。

歴史小説というのは、作者の視点によって、こうも話が変わってくるものなのかということでしょうか。

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「武士の尾」
森村 誠一 (幻冬舎 2011年)


赤穂浪士のお話はあまりに有名ですが、その陰に隠れて、貧乏くじを引かされた男のお話です。
といってしまっては、身も蓋もありませんが。

この男・高田郡兵衛は、「槍の郡兵衛」として有名な武士でしたが、何としても吉良を打倒したいと願う急進派でした。
ところが、彼は大石内蔵助から、四十七士の討ち入りが失敗に終わった時のための控え要員とさせられ、世を欺くために美しい妻をめとり、平和な暮らしを始めました。
その暮らしと、真の願いとの間を揺れ動く彼の心が非常に細かく描かれています。
ところが彼は、仇討ちから抜け出した裏切り者とみなされ、厳しい道を歩んだのでした。

この小説では、武士道はばかばかしいものと書かれています。
ご主人のためではなく、「お家」の存続だけのために生きなくてはならない武士とは何なのだろう、という自問自答に苦しむ姿が描かれています。

森村誠一の文章が非常にきびきびとしていて、討ち入りの場面では、映画の殺陣のシーンを見ているようでした。

世間によく知られている忠臣蔵のお話とは立場が違う主人公の話でしたが、こういう役割の武士もいたのか、と考えさせられました。

それにしても、何故、浅野内匠頭があんなドジなことをしたのかが、よく分かりませんね。

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この後に秋山香乃さんという人の「火の姫」というシリーズものを読みました。
茶々と信長、秀吉、家康との関係を描いたものです。


おいおい感想も書きたいと思いますが、この中で意外だったのは、秀頼(茶々と秀吉の間に生まれた息子)があまりにも立派で堂々とした男だったということです。
なんとなくマザコンの弱々しい息子というイメージがあったのですが、秀吉の後継ぎとして正道を歩んだ男性として描かれていました。

時代小説というのは、それまで一定の評価がある歴史的事実の裏側に潜む陰の部分をほぐしていくところが、読んでいて面白いですね。

とくに人物像に関しては、著者の思い入れによって、まるで違った人間のように見えるのが面白いところです。

「冷静な人だった」ということは、反対に「冷血だった」ともいえるわけですし、「誰にも愛される人だった」ということは「愛想を振りまいていた」という意味かもしれません。

小説を読む、あるいは小説を書くということは、人間のいろいろな側面を知る、ということかもしれませんね。
それだから、固定された評価や観念から外れたことを自由に描ける時代小説が面白いのかもしれません。




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