2019年7月9日火曜日

「水野忠邦の江戸日記」

たまたま、新聞の都内版で「水野忠邦の自筆の書の展示会が首都大学東京で開催中」という記事を読みました。
ところが新聞に掲載されたその日が、開催最終日でした。
どんよりとした雨の予報の日でしたが、こういう展示には二度とお目にかかれないと思い、出かけてきました。


首都大学東京は、以前は都立大学という名前の大学で、目黒区にありました。
それが25年程前、南大沢に移転して、おまけに名前も石原慎太郎都知事のために変わってしまった大学です。
ちなみに2020年にはまた名称が「東京都立大学」に戻るそうです。

さて南大沢にはアウトレットモールがあるので、何回か行ったことはありますが、大学の中に足を踏み入れたのは初めてでした。
下の写真の右側に見える塔が大学で、左側はアウトレットモールです。


とても広い敷地で、校舎が飛び飛びになっていました。
授業から授業に移る時は、自転車が必要だな、と思ったくらいです。


広々とした公園のようなところで、近所の小さな子供がおじいさん、おばあさんと遊んでいました。

ところで、どうして首都大学で水野忠邦の展示かというと、以前のこちらの図書館長が、水野家のご子孫と仲が良かったからだそうです。
水野家では貴重な資料をたくさん残していて、それを大学に寄贈されたのでした。
会場の「牧野標本館」には、植物学者の牧野富太郎博士の標本が50万点ほど保管されているそうです。


水野忠邦という人はあまり良いイメージはない人ですね。
日本史の「江戸の三大改革」という単元で、必ず登場する人物ですが、倹約令を出したり、贅沢禁止令を出したというケチというか厳しい倹約家のイメージでした。
肖像画を見ていると、細面で、なんとなく神経質そうな人に思われました。

彼は寛政6年(1794年)の生まれで、水野家の側室の子供だったそうです。
母親はなんと上野の風月堂の初代・大住喜右衛門の姪っ子で、喜右衛門の養女となって大住家から水野家に奉公に上がり、側室になった女性・お惇です。
忠邦は、母の実家である風月堂を忘れることはなく、その後も、忠邦の引立てもあり、風月堂は江戸でも指折りの御用菓子商となったのです。
この話は、風月堂のHP▼にも書かれています。
その母親・宝蓮院の辞世の句も展示されていましたが、とても美しい文字でした。

忠邦は長兄が早世したため、幼くして水野家の跡取りとなりました。
そして唐津藩主となりました。
ただし唐津藩は長崎の警備をしなくてはならないため、老中にはなれなかったそうです。
その後、忠邦は浜松城に移りましたが、そのお城は私は2回も行っているのでなんだか親近感がわいてきました。

こちらは2017年に行った時の浜松城です。
忠邦さんもここに住んでいたとはね・・・。


その後、老中となった忠邦は、12代将軍・家慶の時に「天保の改革」を実施します。
農村復興のための人返し令、奢侈禁止、風俗粛清、株仲間の解散などを行いました。
ただしこの改革はあまりに厳しかったため、庶民からの反発を食いました。
その後、山形へ行くように命じられましたが、借金を残したままだったので、それがもとで一揆が起こったそうです。
なんだか彼の後半の人生は、さんざんだったような気がしました。
ちなみに、「遠山の金さん」として有名な遠山景元が活躍したのも、この時代です。

色々な資料と共に、年表がありましたが、この年表がとても面白かったです。
上下に分かれていて、上段は忠邦の歴史、下段は世の中の動きが書かれていました。
下段にはシーボルト事件とか、大塩平八郎の乱、など誰でも知っている事柄の他に、
「このころ、男子の間に日傘が流行した」とか
「千疋屋で初めて水菓子を売った」などという世間のことも書かれていて、分かりやすかったですね。
そしてまた、私が出かけた韮山の江川太郎左衛門さんのこと▼や、映画で見た二宮金次郎のこと▼品川の砲台▼の地図なども展示されていて、とても身近に感じることができました。

終わった後でアンケートを提出したら、こんなものをいただきました。


ポストイットですが、都鳥と水野忠邦の絵がデザインされています。
こういうところに都民のお金を使っているのですね。


大学の構内で音楽が聞こえてきたと思ったら、浴衣姿の学生が演奏をしていました。

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この日の装い。

最高気温が22度くらいの雨模様でしたので、初夏では暑苦しく感じるポリの着物にしました。
ちょうど体感的には、良かったです。


帯はたんすやさんの「はじめてさんの着物セット」という着物と帯がセットで1万円の組み合わせの、木綿の帯です。



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