2020年10月9日金曜日

「日本庭園」の魅力 ~茶庭・大名庭園・多摩の庭園~

先週の講義に続いて▼、今週も日本庭園について学んだので、ちょっとまとめてみました。

前回は戦国時代の頃までの話でしたが、今回は15世紀以降に広く流行した「茶の湯」に関する庭についてお話で始まりました。

茶の世界では、待合から茶室に入るまでの屋外空間を「茶庭(露地)」というそうです。露地という言葉は初めて聞きました。

外腰掛、砂雪隠、蹲(つくばい)、飛び石、竹垣、灯籠など、躙り口までにあるものをまとめて「茶庭」と呼ぶそうです。ちなみに飛び石は約50センチ間隔で置いてありますが、これは着物を着た時の歩幅に合わせて作られています。

その露地は「煩悩に満ちた浮世から、清浄無垢な茶室に至る際に、心を清め、緊張感を高めていくための空間」なのだそうです。なるほど。

また茶室に飾る花は、花がない常緑樹が中心で、それは心を鎮めるためにあるのだとか。

茶道もなかなか奥が深いのですね。

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その後は、「回遊式庭園」について学びました。

これは基本的には大きな池庭を中心にして、露地や枯山水の様式を総合した庭園のことです。池の周りには築山、茶室、四阿などがあります。

この庭園は、公家や武家、僧侶などが社交の場として使い、茶の湯の役割が大きいものでした。

そしてここには国内や中国の名所を縮小したもの(縮景)が取り入れられていました。園内にいながら、各地の名所を眺めて、旅行気分を味わえたわけです。今のバーチャル世界がこの頃からあった訳ですね。

そこでは社交や庭の鑑賞だけでなく、花見、鷹狩、乗馬、弓術などいろいろなことも行われました。

また江戸時代は、明暦の大火(1657年)で、江戸の町の大半が焼けてしまったので、大名の屋敷に庭園を造り、火除け地としての役割を持たせたそうです。

徳川家では庭造りの好きな将軍が多くいたそうで、小石川後楽園、六義園などが有名です。


(六義園 2018年)

このような江戸時代の遺産が、現在の私たちも庭園を楽しめる元になっているわけですね。

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明治時代には、小川治兵衛(1860~1933)という有名な植木屋が登場して、京都などに多くの名園を造園しました。近代日本庭園の先駆け者の作庭家です。

とくに琵琶湖疎水のある南禅寺周辺には、山形有朋の別荘(無鄰庵)▼を初め、数多くの別荘の庭を作りました。

こちらは並河靖之という七宝作家の庭▼です。

小川治兵衛は、琵琶湖疎水の水の流れや、東山の借景、雑木林などを配した庭園を多く作りましたが、最近ではその辺りはユニクロやニトリの持ち物になっているそうです。

またジョサイア・コンドルというイギリス人の手による旧古河庭園も紹介されました。ここは古河が鉱毒問題で社会的に批判されていた時に、三代目当主が建てた和洋折衷建築です。ここを癒しの空間としたかったのかもしれません。庭にも洋風庭園と日本庭園があります。

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その他、多摩の日立中央研究所、殿ヶ谷戸庭園、武者小路実篤庭園、静嘉堂文庫庭園などの説明もありました。どこも私には身近な庭園なので、親近感がありました。


(殿ヶ谷戸庭園 2009年)


(静嘉堂文庫庭園 2012年)

最後に、庭園の植栽についての話がありました。

樹木を選ぶ際には、その土地の地形や気候などの環境に適した樹木を選ぶのが一番大切ということでした。たとえば水の好きな樹木、乾燥の好きな樹木、傾斜地が好きな樹木、平地が好きな樹木など様々な特性があるので、そこを見極めるのが庭造りには重要ということでした。

先生は「日本庭園学会」▼の会員だそうで、そういう学会もあるとは初耳でした。

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これまで旅先などであちこちの庭園を見てきましたが、この話を聞いたので、これからは見方も少しは違ってくるかもしれません。

庭園にも、それぞれの時代背景や自然環境にあった特性というのがある、というのが印象的でした。

これから日本は、温暖化が進み、社会の状況も変わり、庭園の形も変わっていくかもしれませんが、人々の心を癒すような空間があることは望ましいですね。

そうそう、今年は彼岸花や、金木犀の咲く時期がいつもと違っていますね。これは7月の長い梅雨が影響した結果だそうです。自然の影響は大きいのですね。

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この日の装い。

雨模様でしたので、三河木綿にしました。出かける時は、この上に濡れても大丈夫な長羽織を着ていました。ちょっと初夏のような色合いですが。


その分、帯周りを落ち着いた深緑色にしてみました。

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「一日一句」

傘さして思い出辿る秋の庭


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