2025年10月14日火曜日

後期のゼミ開始

2025年10月も3週目に入り、ようやく大学のゼミも後半がスタートしました。

前回のゼミは7月14日でしたので、なんともう3ヶ月も経ってしまったのでした。

久しぶりでしたので、まずは全国各地のお菓子交換会となりました。

みんなの夏休みのお土産でした。

写真は撮り忘れましたが、ゼミの先生からはシンガポール土産もありました。

そして全員が夏休みの成果を一人ずつ発表。

○地元特産の草花を販売して地域活性化に役立ちたいという人。

○雲の発生方法を計算式やグラフで表わした人。

○お酒と米の生産の関係を考えて、今後は新しい組織を作りたいという人。

○子供の非行や引きこもりなどの解決方法を考えている人。

○南紀白浜について、パンダとの関係を考えている人。

○全国各地の朝市を巡っている人。

○米沢藩の上杉鷹山が提唱した「かてもの」について調べている人。

○老後の資産運営について提案している人。

こんなにみんなバラバラなのですが、ほんとうに自由なゼミです。

最後に先生も発表されましたが、先生は鉄道オタクでもあるので、珍しい鉄道遺産などを紹介されていました。

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ようやく少しは涼しくなりましたが、まだまだ蒸し暑かったので、この日は小千谷縮にしました。黒ではなくて、薄墨色のような着物です。





2025年10月10日金曜日

「源氏物語を楽しむ会」 87回報告 2025年10月

 今回の「楽しむ会」は「藤袴」の2回目でした。

その中に、どうしてこの巻が「藤袴」と呼ばれるのか、その理由となる和歌のやりとりがありました。

 (ウィキペディアより拝借)

それは夕霧(光源氏の実の息子)が、御簾の中にいる玉鬘(光源氏の娘ではなかった)に対して、藤袴(蘭の花)を差し入れて、

「あなたと同じ野の露に濡れてしおれている藤袴、蘭の花です。かわいそうだといってください」と、玉鬘の袖を引いたのです。

と玉鬘への秘めた恋心を伝えました。

ところが玉鬘は素知らぬ素振りをしました。

「私は元は遠く離れた野の露ですから、薄紫のゆかりとは言いがかりでしょう」と答える場面がありました。

ここからこの巻は「藤袴」と呼ばれるようになったのですね。

また、「裳」について調べてみました。

それは夕霧や玉鬘にとっては祖母に当たる大宮が亡くなったので、彼らは喪服を着ていました。そして裳が明けるとなると、河原に行き、禊ぎをするのでした。当時はそのような習慣があったようです。

とはいえ、彼らの場合は、本当に水浴びをするのではなく、形式的だったと想像しますが、どうでしょう?

        画像は「雅勒の散歩道」▼より引用

また貴族が乗る牛車についても、辞典で調べてみました。牛車には乗り方の決まりがあり、乗るときは後方から乗り、降りるときは前の方から降りたそうです。

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この日は、かなり涼しくて、単衣の着物でちょうどぴったりでした。



施設の玄関先で写しました。



2025年10月7日火曜日

「手づくり市」 から 「二宮金次郎」へ

この日は午前中は、ご近所の神社で開催されている「つくる市」に出かけてきました。

というのも、「きものファンファン」参加者のみなさんに、この「つくる市」をアナウンスしたところ、興味を持たれた方がいて、ご一緒したのです。

彼女は着付け教室でアシスタントをされているので、いろいろ着物の知識が豊富な方でした。

私が利用している「着物リメイク 弥弥」さん▼のお店の前で、写してもらいました。

その後は狛江まで出かけて、映画「二宮金次郎」▼を鑑賞。

こちらはfacebookでつながっている「さおり織」の方のご縁でした。

実は、私の今年の研究対象は江戸時代に飢饉に苦しむ農民を助けた人なのですが、その彼の50年後ほどの天明の頃に活躍したのが、二宮金次郎なのでした。

それにしても当時の武士と農民の格差はひどいものでした。映画なのでかなり誇張されていると思いますが、あのような身分差別の時代には戻って欲しくないと思いました。

多くの人が来場していました。

お土産に「二宮金次郎物語」という「すごろく」(?)をいただきました。

それによると、金次郎さんは1787年(天明7年)神奈川の栢山(かやま)村で生まれ、両親は早く亡くなってしまいます。弟たちとも離ればなれになり、その後、一人で荒れた土地を耕しました。

その後、小田原藩主から、下野国の桜町領(栃木県真岡市)の財政立直しを頼まれ、質素・倹約の方法を示して、借金返済をしました。この功績により幕府直属の役人になりました。

ところが小田原藩から派遣された侍は、百姓上がりの金次郎をいじめ抜きます。

そして成田山新勝寺にて21日間の断食。

その後、「尊徳先生」と呼ばれ、各地の600以上の農村で教えを説いて廻りました。

村人を救い、報徳思想を広め、69歳で亡くなりました。

という一生を送った方でした。

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映画の中では、成田山の貫主役をした田中泯が迫力ある演技をしていました。

この映画は自主開催ということで、今回は狛江市の上映実行委員会が主催していました。

映画会場の隣の広場では、「円縁マルシェ」という名前で、いろいろなお店が出ていました。

「ふろしき王子」から姓名判断、自然食品や自然化粧品、各種手作り品など20くらいのブースがありました。

みなさん、すごいパワーの持ち主ばかりで、熱気に溢れていました。

エコルマホールからバスで帰宅しました。


帰宅後、慌てて写真撮影。部屋がぐちゃぐちゃでお恥ずかしい。


白黒の東レシルックと、ベージュの千円帯(上野の着物おゆずりのイベントで見つけたもの)、帯締めは着物お譲り会でいただいたもの。


2025年10月6日月曜日

「源氏物語を楽しむ会」86回 2025年9月

 2025年9月に開催した「源氏物語を楽しむ会」の報告です。

この時は、会場の抽選の結果、23日の「秋分の日」開催となりました。

例によって、最初はおしゃべりにあれこれ花が咲きました。

というのも、私が松江に行った時に仕入れてきた「不昧公」の和菓子をいただきながらでしたので、おしゃべりも話題が尽きませんでした。

こちらは松江城と松江歴史館。

さて源氏物語ですが、今回からは「藤袴」の巻に入りました。

藤袴というのは、秋の七草のひとつだそうです。

ウィキペディアによれば「フジバカマ(藤袴、学名: Eupatorium japonicum)とはキク科ヒヨドリバナ属の多年生植物。秋の七草の1つで、秋に淡紅色の花を咲かせる」花だとか。

10月頃に咲くので、ちょうど今頃の季節の花でしょうか。

      
         (写真は金沢自然公園のサイトより拝借しました)

「藤袴」の主な登場人物

♥玉鬘 光源氏の元の彼女と、若かりし頃の内大臣との間に生まれた女性。
◆内大臣 光源氏の幼なじみでもあり、恋のライバル。玉鬘の実父。
◆宰相の中将 光源氏の息子(夕霧)、玉鬘は姉だと思っていた。

実は、なかなかややこしい関係なのです。

この日は、当時の男性の髪型や、かぶり物について、ちょっと調べてみました。
冠を被る文化は、唐から入ってきたそうですが、平安時代の男性はどんなときでも冠を被らないことはありませんでした。寝るときも着用していました。

こちらの絵は、非常に貴重なシーンです。清和天皇が、おつむをそのまま出しています。非常にリラックスしていたのでしょうね。


またこちらはその冠の後ろにたれている細長い布です。巻纓(けんえい)と垂纓(すいえい)があります。
2種類ありますが、武官が着用した巻纓(活動しやすく短い冠)と、文官が着用する垂纓(長く下に垂れている冠)がありました。


なにやら決まり事がたくさんあり、貴族は大変でしたね。

こちらは昨年の大河ドラマ「光る君へ」で若かりし頃の藤原道長が付けていた冠です。彼は当時は武官だったわけですね。


             「NHK大河ドラマ展」より

この日はとても爽やかな日でしたので、単衣着物がぴったりでした。


会場近くでは秋のお祭りが開催されて、おみこしが練り歩いていました。

2025年10月4日土曜日

中山道 板橋へ

先日、大学の仲間と一緒に、板橋区内を歩いてきました。

板橋区というと、大仏くらいしか思い浮かばなかったのですが、実際に足を踏み入れてみると、歴史とスポーツの魅力溢れる町でした。

まずは国立トレーニングセンターへ。

ここは大谷選手と奥さんが出会った場所としても有名なところです。

私は遅れて到着したので、中には入らなかったのですが、レベルの高いトレーニングができ、また障害者向けのスポーツもトライできるところのようでした。

みなさん、卓球や射撃も楽しんだようです。

ただしここはセキュリティが厳重で、選手の撮影も絶対に禁止されているところでした。

ランチはこのスポーツセンターの職員食堂でカレーをいただきましたが、強化選手の食事はまるで違うのだろうと思いました。

「味の素」という名前が付いていました。

この日は小雨が降ったりやんだりしていましたが、みんなで中山道を歩きました。

板橋には数多くの歴史的建物があり、貴重な地域だと思いました。

「縁切榎」を見物。これは悪縁を切りたいと願う人にはぴったりの所だそうです。男女の縁だけでなく、病気や酒、たばこなどにも効果があるそうです。

それに中山道沿いのお店は個人商店が多く、八百屋さんなどものすごく安くて、びっくりするほどでした。

中山道というとなんといっても皇女和宮がお泊まりになったことで有名ですね。

その当時の本陣も、今はみんなマンションになっていました。

石神井川には、「板橋」という橋が架かっていました。


こちらは本宿の次の「仲宿」です。

お次は植村直巳さんの記念館というところにも寄りました。

実物大の犬ぞりも展示されていましたが、とても大きなものでした。

最後は、私ひとりで近藤勇のお墓を見るため、JR板橋駅までバスで行ってみました。

駅前には大きな銅像が立っていました。

この日は知らない土地を、みんなでおしゃべりしながら歩きました。