先日、久しぶりに「和装の美」の講座に参加してきました。
こちらは会場の近くに咲いていたあじさいです。
この日の天気予報は雨だったので、出かける寸前まで洋服にしようか、それとも雨にも濡れてOKのポリエステルの初夏向き着物にしようか、迷いに迷って、着物を出したりしまったりしていました。
こういうお天気は本当に困りますよね。
私は雨コートというのが好きではなく、それよりも長くて似合わないし、暑そうなので余程のことでないと着たくないのです。
それでも「和装の美の講座なのでやはり着物にしよう」と思い、「雨で蒸し暑いのだけは避けたい」という気持ちだけで、先日、下北沢の駅近くにあるリサイクルきもの屋さん(すいませんが名前を忘れてしまいました。モールの中にあるお店です)で買ってまだ手を通していなかった「お父さんが着ていたような縮み」の着物にしてみました。
これは身丈が短いためか、汚れはほとんどないのに、3000円だったと思います。
(チビで良かったわ)
布に凸凹があり、肌に接する部分が少ないためか、涼しくてむしむしせずに、梅雨時にはちょうどよい着物でした。
帯はおなじみの骨董市のおじさんから、今年の正月に「これ、おまけに1000円であげるよ。夏になったら役立つよ」と半ば押しつけられ気味で買った、なでしこ柄の絽の帯にしてみました。
正月の骨董市では、内心、「夏の帯などまだ先なのに」と思いましたが、まぁ1000円ならいいかと、仕方なく買ったような帯でした。
それでも夏の帯はあまり持っていないので、「そうそう、おじさんから買った青い帯があったな」と思い出して締めたところ、軽くて涼しくて、色合いもよかったみたいでした。
おじさん、ありがと。
急いで締めたので、お太鼓の上のほうがぐちゃぐちゃです。
そんなこんなで慌てて着て出かけました。
幸い、雨は大ぶりにはならずに助かりました。
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これ以降は、着物にご興味のない方もいらっしゃると思いますので、ごく簡単に講義をご紹介し、それに加えて私の思いを綴ったものですので、着物の歴史などについては、きちんと裏付けした資料ではありません。ご了承くださいね。
講座の前半は、慶長小袖などの仕立て方に基づく着物の形態についてのお話でした。
私自身は着物を着始めてまだ2年の初心者なので、和裁の仕立てはちゃんと分かっていないのです。
和裁をよくご存じの方ならすっと入っていける話でしょうが、私が理解した限りのことでは、
・布の幅の変化により仕立て方も変化してきた。
・袖の部分と襟の部分を布のどこから切り取るかによって着物の作りも変化してきた。
・袖の全体の長さは変わらなくても、袖付けの位置が変わってきた。
・身幅が狭くなり、それによって着物が身体にぴったりとするになり、身体の線がはっきりと分かるようになってきた。
これは身幅が狭くなり、その分、裄に使う分量が変化してきたわけです。
・永禄のころは対丈であった。(おはしょりはなかった)
・立て褄がとても短かかった。(足の下のほうまで襟がついていた。)
などです。
この話を聞いた時、母の記憶がまだきちんとしていたときに、和裁のことを聞いていればよかったと後悔しました。
母は戦前に家政学部で家事一般の知識を学び、家庭科の先生にもなれるそうだったのですが、父のところにお嫁入りをしてからは家の中で洋裁や刺繍など手作りをして、私たち子供の衣類はすべて自力で制作して、また親戚の衣類もよく頼まれて作っていました。
ものが豊富にない時代だったといえばそれまでですが、私はいわゆるお店で売っているブラウスなどは高校生ころまでは着たことがなくて、手作りの服よりもセンスの良い既製品に憧れていたのでした。シンガーの足踏みミシンが大活躍していたころでした。
その後、昭和の後半あたり、つまり私たちが大きくなって自分の時間が取れるようになったころからは母は和裁を学び直して、そして仕立てで家計を補い、自分のお小遣いは稼ぐくらいにはなっていたようでした。
その頃、私は高校生くらいだったと思うのですが、母が家事の合間にどうやって和裁学校に通っていたのかは、まるで覚えていませんね。自分のことにしか関心がなかったのでしょう。
当時、母の部屋には仕立て台や小さい和裁用アイロンが置いてあり、色とりどりの糸があり、頼まれ仕事の着物がありました。
それでも当時の私は着物など大嫌いで、あんな面倒臭いもの、と思っていました。
家には明治生まれの祖母もいて、着物に関してはいろいろと聞いてはいたのですが、まるで無関心で過ごしていました。
今、昔の記憶をすべて失ってしまった母を見ていると、多少でも昔のことを思い出してもらえればと思い、母のいるホームに行く時はなるべく着物姿で行くようにしています。
私が仕事やスポーツ以外の外出時には着物で出かけるのが多くなった理由のひとつは、当時の若かった自分を少しは反省したいということの表れなのかもしれませんね。
話がそれてしまいましたが、この時の講義の内容は岡野和子さんという東京家政大学の先生が、昭和30年~34年にかけて発表された「小袖に関する考察」という論文の中にまとめられていたものです。
永禄9年(1566年)の辻が花小袖と、それから100年ほど経過した寛文小袖のサイズを測り、一覧表に作成されています。寸とセンチの両方の数字で説明されていますので分かりやすい資料でした。
講義の後半は辻が花のお話とスライドでした。
私は辻が花についてはほとんど知識がなく、久保田一竹さんの高価な辻が花というくらいの認識しかなかったのですが、昔の辻が花というのは主に戦国武将が着用していたものだったのですね。
室町時代後半からの戦乱の世の中で文化が開花して、そして秀吉が天下統一をして、家康が征夷大将軍として江戸に幕府を開く、そのころに発展したのが辻が花の技法でした。
辻が花は日本絵画の世界と影響をしながら、植物などの染め、絞り、ぼかし、箔などの技法が加わり、たいそう手の込んだものになりました。
島根県の石見銀山経営者の安原伝兵衛という方が、その功績のために家康から賜った1685年に着たという着物は、うこんと紅で染められて、絞りの美しい辻が花でした。
このときまたスライドをたくさん見せていただき、あれこれご紹介したいのですが、そのスライドを見て密かに嬉しく思ったことは、それまで私が自分の興味だけであちこちの美術館などに行ってきたのが、まんざら無駄ではなかったということでした。
私の旅行はいわゆる観光地にはあまり興味がなく、普通の旅行者は通り過ぎるような資料館や博物館に行くことが多いのですが、なんとなくピンと来て出かけた先が、実は着物の研究には重要なところだったと知って、とても嬉しくなりました。
たとえば長浜の国友鉄砲館▼。
こちらには家康より授けられた浅葱色の辻が花が保存されているそうです。
またこれまで出かけてきた
京都の細身美術館▼
名古屋の徳川美術館▼
世田谷の静嘉堂文庫▼
細川さんの永青文庫▼
新宿の文化服飾博物館▼
千葉佐倉の国立歴史民族博物館▼
千葉市の千葉市立美術館▼
などなど、いろいろな思い出がよみがえってきました。
やはり本物のある場所に足を運び、そして実物に接することができたのは、とてもよい経験でした。
その当時は着物のことはあまりよく知らずに、絵画や衣装などの展示を眺めていただけですが、先生のお話を聞いて、自分が実際に足を運んだ場所なので嬉しくもなり、またもっと前からお話を聞いていればと思ったのでした。
この年になって着物について初めて知る内容のことも多く、この講座を受講する前は、着物の文様を教えていただければそれでいいわ、と単純に考えていたのですが、日本の歴史や絵画の流れについても学ぶことが実に多い講義内容です。
何でも学んでみると、奥深いですね。
私は自分の知識のいい加減さを恥じるばかりですけれど、少しでも日本の文化の流れを学び、実物に接することは、きっと茶道や華道などをされる人も無駄ではないのかもしれませんね。
美しいものを作り出すのは、それを作る人はもちろん、それを支える権力者や豪商がいなくては成り立たず、それを単に支配者のものだと思ってしまえばそれだけでしょう。
でも現代の私たちも楽しませてくれるというのは、それを保存してきた人たちや受け継ごうとしてきた人たちがいたというのも思い出したいですね。
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