夏休みを挟んで久しぶりの市民カレッジ。
講師はいつものように出光美術館の学芸部長さんです。
先生は、講義の初めに毎回、面白い話題を提供してくれます。
今回のお話は、床屋さんに行った時、「ばっさりやっちゃっていいですか」という若い床屋さんの口調が面白かったというお話でした。「やっちゃってください」と返事をしたそうですが。
この先生、美術以外にも、現代言語に対して一言ある方で、若者の言葉に非常に敏感な反応をされています。それをとつとつと話されるところが、おじさんぽくていいのです。
さて今回は江戸時代の琳派の創始者(とはご自分では思ってはいなかったでしょうが)の俵屋宗達と、彼より80年くらい後に生まれて、琳派を本格的に発展させた尾形光琳とのお話でした。
俵屋宗達という人は生年も没年も不明の方です。あまり文献も残っていなくて謎の人生を送ったようです。
それでも江戸時代のごく初期に生まれ、1614年には「俵屋」と名乗っていたそうです。
初めは扇を売り出して、それが当たって画家になったような方です。
こちらは宗達の絵としては一番有名な「風神雷神図屏風」ですが、これにはいわゆる署名も落款もないのですが、宗達の絵として認められています。
私は京都の建仁寺でこの絵を拝見しましたが、大きくて迫力がありましたね。
風神・雷神というのは、元々は奈良時代のお経に描かれていたもののようでした。
そして尾形光琳ですが、彼はかりがね屋という呉服屋さんのぼんぼんで、かなりの放蕩息子だったようです。
中年になってから絵画デビューをしましたが、最初は宗達の模写をして風神雷神図を描きました。
こちらが光琳の図。
それでも宗達の自由闊達な絵には及ばなかったようで、その後は独自の絵を描いていきます。
光琳は中村内蔵助という人と愛人関係にあったと言われています。
こちらが光琳が描いたその内蔵助さん。
内蔵助は光琳より10歳くらい年下でかなりの美青年ですね。
ところが、光琳は「おさん」という女性を愛人にしていて、そしてややこしいことに、おさんは内蔵助とも関係があったと言われています。
こちらは晩年の作の「紅白梅図屏風」ですが、この絵は小林太一郎先生という方の見方によると、紅白の図のうち、左側の白梅が老いた光琳、右の紅梅が若々しい内蔵助、そして真ん中の流水は「おさん」が裸で横たわった肉体である、という説をとなえているそうです。
ふーむ、一つの絵の見方もいろいろとあるものですね。
この講座も次回で最終回です。
最終回の内容は、与謝蕪村と池大雅という文人画のお二人の対比です。
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この日の装い。
9月も中旬だというのに30度以上もあったので、ためらうことなく夏服に。
帯だけちょっと秋っぽくしました。
半襟は浜松の若い染め師・高木法子さんの作品。
講座に参加していたおばあさま方からは「涼しそうでいいわね」と言われましたが、実は暑くてたまりませんでした。
帰宅したら、お腹のあたりにあせもができてしまっていました。
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