与野駅からまっすぐに伸びる道を往復しました。
ちなみに、与野というところは埼玉県の南部にありますが、以前は与野市という名前でしたが、2001年に大宮市、浦和市と合併して、現在はさいたま市中央区となっています。私にとってはなじみがない名称です。
Wikipediaによれば、「与野」という名称は鎌倉時代の絵巻に登場しているようです。
室町時代、江戸時代を通して、交通の便がよいところから栄えたようです。
ただし、現在の与野駅周辺は、高層マンションばかりで、歴史のかけらはほとんど見られないところになっています。
さて、こちら▼にも書きましたが、私たちは行きのパレードの最後尾について、一緒に歩いてきました。
往復とも歩くのは結構大変なので、帰り道は写真撮影に専念することにしました。
行列の先頭は、芸者さんと町の名士が人力車に乗って登場。
とてもきれいな芸者さんでしたよ。
その後ろは徒歩の舞妓さん。
だらりの帯がきれいでした。
洋装の人たち。
後ろがこんもりと盛り上がったスカートでした。
これって鹿鳴館スタイルじゃないのかしら、と思いましたが、大正時代にも流行ったのかしら。
とても日差しが強かったので、日傘はおしゃれというよりも、必需品でした。
こちらは庶民のスタイル。
女子学生と男子学生。
矢羽の着物に、袴スタイルが可愛い。
どうしてこのスタイルが女子学生の卒業式や謝恩会で着られるようになったのか、気になりますが。
カフェの女給さん。
ロングエプロンが可愛い。
秋葉原でもこういうエプロンをしているのかな?
海兵隊の行進。
陸軍の行進。
歩き方がちょっとイマイチでしたが。
早稲田大学の「ちんどん研究会」の人たち。
歩きながら演奏するのは難しいのでしょうが、とても軽やかなメロディーを奏でていました。
帰り道の様子。
着物姿もとても自然で、板についていた様子でした。
こんな外国人の方もいましたね。
こういう行列の後ろを、「埼玉きものジャック」に参加した私たちもついて行ったのでした。
大正時代といえば、近代化が進み、それに伴って人々の生活も豊かになった反面、大正デモクラシーや女性解放運動も台頭してきた時代でしょう。
1912年から1926年までのたった15年しかなかった大正時代ですが、文化も教育も一段と進歩した時代だと思います。
うちの両親は二人とも大正生まれでしたが、いつも「明治と昭和に挟まれて、両方から攻められてきた」とよく話していました。
このお祭りのパレードで、そのころの人々の服装は分かりましたが、町の様子はどんなだったのでしょうね。
今となっては、もう100年前のこととなりました。
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