2016年1月30日土曜日

えがお筋トレーニング

先日、近所のカルチャースクールで、「えがお筋トレーニング」無料体験教室というのがあったので、参加してきました。

というのは、最近、年齢と共に顔の筋肉がゆるみ、ブルドッグ顔になってきて、これではやばい、と思ったからです。

先生は以前は看護婦さんをされていたという、すらりとした方でした。
「私は43歳でこのトレーニングに出会い、そして今は56歳です」とおっしゃっていましたが、笑顔がチャーミングで、50歳くらいにしか見えない方でした。

すぐに顔のマッサージでもするのかと思っていましたが、まずは理論から始まりました。


理論その1:意識することが大切。
人間の脳は視覚が一番なので、なりたい自分を意識的にイメージしたり、あこがれの女性(女優さんなど)の顔をよく見て、脳に焼き付けることが大切、ということでした。
私は樋口可南子さんのきりっとしていて、ソフトな感じが好きなのですが、ちょっとほど遠いかしら。

理論その2:そのイメージに向かっての行動と方法。
顔の筋肉は全体で29~35種類あるそうです。
どの筋肉を使っているかを意識しながら、筋肉を動かすことが大切。

理論その3:人間の顔の内部は、下部から頭蓋骨→筋肉→皮下組織→真皮→表皮という構造になっている。
これまでは上(外)から、化粧品を与えることによって手入れしていたが、これからは下(内)の筋肉からの手入れが必要。

理論その4:筋肉は収縮と弛緩を繰り返すことにより、血液循環がよくなる。
血液は酸素、栄養、ホルモンを細胞に運ぶので、循環することにより、身体全体が良くなる。

理論その5:笑顔には3つの効果がある。
1)美容効果
2)コミュニケーションの向上。
(笑顔の人は、周囲から安全であると認識される。これは太古の昔から人間に刷り込まれている。)
3)健康増進効果。がん細胞をやっつけるNK細胞が活性化して、免疫力がアップする。

と、こんな感じのレクチャーがありました。
けっこう科学的で、きちんとした説明でしたね。

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このようなお話を伺ってから、今度は実践編です。
顔の筋肉を動かすトレーニングを試してみました。

【エクササイズ1】
眼輪筋を使って、表情豊かで優しい目元を演出。
眼の下のたるみがとれるというトレーニングです。

【エクササイズ2】
口角挙筋を使って、口角がキリリと上がり意志的な笑顔に。
ほうれい線が薄くなるというトレーニングです。

【エクササイズ3】
顎舌骨筋を使って、フェイスラインを整え、すっきりスマイル。
二重あご解消というトレーニングです。


それぞれのトレーニングは、目を見開いたり、「あー」とか「おー」とか口を開けたりしぼめたり、上を向いたり下を向いたり、あれこれ大変で、他人が見たらなんという姿と思うでしょうけれど、これが難しかったですね。

「使っている筋肉を意識しましょう」と言われても、簡単にできるものではありませんでした。

それでも頑張ってトレーニングしたら、お隣に座っていらっしゃった奥様は、ほんの1時間の間にお顔がきれいに変化しましたよ。

やはり身体は、どこの部分でも使った方がよいのですね。

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この日の装い。

最近、黒っぽい着物ばかりだったので、久しぶりに明るい色の着物を着てみました。
明るい色の着物は柔らかものが多いのですが、これは紬です。
浅草の福服で安く買ったもの。


帯は着物交換会でいただいたもの。

オレンジ色の帯締めは、叔母が使っていた古い時代のもの。
模様が入っていて、可愛らしいのです。

こちらの黒のだんだら模様のモヘアコートも、叔母が着ていたコートです。


短めなので、気楽に羽織れるし、袖から外気が入らないので、暖かくて良いですね。



2016年1月29日金曜日

2016冬 奈良・京都一泊旅行 1 ~奈良へ~

ちょうど1週間前のことになりますが、奈良と京都に出かけてきました。

「奈良・京都」というと、大昔の修学旅行が思い出されますが、今回の目的地は、まさにその修学旅行で半世紀前に訪れた法隆寺でした。

あれは中学校の修学旅行だったのか、あるいは高校の時だったのか、今となってはさだかではありませんが、行ったことはたしかです。
夢殿を見学したことをなんとなく覚えています。

なぜ今、法隆寺なのかというと、昨年末、「仏教新発見」という週刊誌が発売されて、その創刊号が法隆寺特集だったのです。
この号は、通常580円のところ、サービス価格で280円でした。


またJR西日本の「うまし うるわし 奈良」▼のコマーシャルも良く見かけていて、特に新宿駅の地下道には大きなポスターが貼ってあったので、嫌でも目についてしまいました。


その法隆寺ですが、奈良市内からは意外と遠いのです。
今回はJRで行ったのですが、京都から「みやこ路快速」という電車で奈良まで行き、そこから「大和路快速」という電車で法隆寺駅まで行き、そしてバスに乗っていくのです。

法隆寺駅ではこんな幟がお出迎えをしてくれました。
「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
正岡子規の俳句ですね。


修学旅行の時は団体バスで行ったはずなので、法隆寺の位置がよく分かりませんでしたが、地図で確認すると、法隆寺は奈良市内からは南西の方角にあたるところにあります。

私は法隆寺駅からバスで行こうと思いましたが、バスはすでに出発してしまい、次のバスを待っているよりも歩いた方が早いというので、寒風の中を20から30分ほど歩いて行きました。

そしてこの松林の中を進むと、ようやく法隆寺が見えてきました。


1月下旬の平日なので、観光客はほとんどいませんでした。
シーンとしていて、身体がきりりと引き締まるような感覚でした。


さて、それでは法隆寺の中へ入っていくことにしましょう。

(この項、続きます)



2016年1月28日木曜日

叔母の残したもの

私の父は大正生まれで、7人か8人兄弟(ほとんど年子)の三男坊でしたが、大人になるまで成長したのは5人でした。
そのうち、男が4人で、女は妹が一人だけでした。

こちらの写真は今から75年ほど前でしょうか、戦前の昭和10年代だと思います。
左から二人目の丸メガネをかけた学生服が私の父でした。

もう全員、あの世に行ってしまいました。


そして右端に座っている矢羽の着物姿の女性が、私の叔母です。
はたちくらいでしょうか、髪の毛を巻き上げて、きれいなお嬢様ですね。

その叔母の娘、つまり私にとってのいとこから電話があり、叔母が残した着物や帯があるので、よかったら使ってほしいとのこと。

実は一昨年もそのようなことがあり、たくさんの着物や帯をいただいてきました。
その時のブログ▼です。

今回は、家の整理をして、最終的な処分をしたいということでした。
それならと、古い布を利用して帯を作るのが好きなSさんをお誘いして、一緒に出かけてきました。

挨拶もそこそこに、叔母の残していった着物や帯を畳の上に広げていきました。


大正生まれの叔母は、もともと着道楽だったのでしょう、そして和裁や手芸の趣味があり、自分で帯や小物(腰ひも、ねんねこ、巾着など)を山のように作って残していました。

おまけに部屋がかなり広く保管場所があり、引っ越しをしたことがないので、いろんなものが茶箱や行李、桐の箪笥にぎっしりと詰まっていました。

いとこと私、そしてSさんの3人でおしゃべりをしながら、まだ着物として着られるもの、リメイク用に使うもの、ちょっと保留のもの、孫に着せたいもの、フリマに出すもの、処分するものなどに分けていきましたが、やってもやっても終わらないほどたくさんの布がありました。

なんと、上の古い写真の矢羽の振袖を作り直した半纏まで残っていました。
叔母がこんなに和裁が好きだったとは知りませんでした。
作りかけの帯や、未使用の裏地もたくさん残っていて、なんとか利用できればと思いました。

お昼や3時のおやつの休憩をはさみ、長時間がんばりましたが、なかなか終わらないので、今回はとりあえず打ち切りとしました。

私が頂いていく着物、帯、コートなどはこちらのバッグにギューギューに詰めました。


どれも寸法がドンピシャなので、何も直さずに着られます。

この日は、前回いただいた黒地に水色とピンクの小さな模様が入ったお召を着て行ったのですが、なんとその着物を着た叔母の写真が見つかり、びっくり。
たぶん、85歳くらいの頃の写真ではないでしょうか。


白い半襟に黒の着物、茶色の帯という素敵な組み合わせです。
白髪によく似合っていると思いました。

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こちらは私の装い。

同じ黒い着物に、紅花で染めたピンクの半襟。
叔母が85歳までこの着物を着たというと、私もあと20年間は着られるのかな。


帯は、デパートの催事場で見つけた淡いベージュピンクの花織風のもの。

着物も帯も、どちらもちょっと古い昭和時代のモノなので、帯揚げだけは現代風なものにしてみました。
全身、古いものでまとめるよりも、どこかに新しいものを組み合わせるのがよいかもしれませんね。

ストライプとドットが左右半分ずつの柄です。
京都のHARUさん▼の人気商品です。

今度、この着物を着るときは、叔母のように茶系の帯を締めてみようかしらと思いました。






2016年1月27日水曜日

自然と歴史と基地の島 沖縄 11 ~平和への思い~

昨年末の沖縄旅行ですが、美しいサンゴ礁の海を見たり、リゾートホテルでのんびりとできましたが、やはり印象に残ったのは、ひめゆりの塔の慰霊碑参拝でした。

ひめゆりの塔は、沖縄南部の糸満市にあるのですが、その前に平和祈念公園▼に行き、平和の礎を見学しました。

たくさんの花が捧げられていました。
「平和の礎」は1995年に建てられたそうです。


沖縄戦では24万人の犠牲者があったそうです。

とくに最後の激戦場となった南部地域では、多くの人が犠牲になりました。
沖縄県民の4人に一人が命を奪われたという話でした。

平和記念公園の内部は沖縄風の造りになっていて、屋根にはシーサーもいました。


各県別に犠牲者の氏名が刻み込まれています。
沖縄出身者の氏名が一番多くありました。


後ろに見えるのは資料館です。


こちらは摩文仁の丘。
ここからたくさんの日本人が飛び込み、青い海が赤い血で染まってしまったほど、だということでした。
この青く美しい海が、かつては戦場だったとは思えませんでした。


その後、「ひめゆりの塔」のある「ひめゆり平和祈念資料館」▼へ。

「ひめゆり」というのは植物のひめゆりのことではありません。
沖縄師範学校女子部と、沖縄県立第一高等女学校のそれぞれの校友誌の名前が「おとひめ」と「白百合」でした。
その両校が併置されることによって校友誌もひとつになり、両方の名前の一部をとって「姫百合」となりました。
「ひめゆり」とひらがなで表記されるようになったのは、戦後のことだそうです。


この二つの学校は、戦争により、次第に軍事化されていきます。
1945年3月23日、米軍は沖縄上陸作戦を開始。
学校からも240名の女子学生が戦場へ動員され、看護要員として陸軍病院に配置されました。

4月1日には、米軍が沖縄本島中部西海岸に上陸。
多くの日本兵が死傷して病院に運び込まれ、女子学生たちは負傷兵の看護や死体埋葬などの仕事をすることになりました。

5月には女子学生たちは日本軍と共に陸軍病院を出て、本当南端部に向かいました。

そして米軍が間近に迫った6月18日夜、解散命令が出され、女子学生たちは絶望して、戦場を逃げまどい、殺されたり、自決したりして、100余名が死亡しました。



ここには沖縄戦で亡くなった女子学生と、教師の227名の遺影が掲げられています。
それぞれの氏名、特徴などがひとりひとり紹介されていて、短い人生を送ったうら若い女性として身近に感じられ、涙を誘います。


若い女性としての喜びも楽しみも味わうことなく、亡くなっていった人たちの思いを、強く受け止めなければいけませんね。

1945年8月15日の終戦後も、沖縄はアメリカ郡による統治となり、パスポートがなければ海を渡ることはできませんでした。
その後、沖縄の基地は朝鮮戦争やベトナム戦争などの発進基地、補給基地として、米軍が自由に使用できるところでした。

1972年5月15日、沖縄は27年ぶりに日本に復帰して「新生沖縄県」が発足しました。

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これからの沖縄はどうなるのでしょう。
宜野湾市長選挙では現職の市長が当選して、日本政府は国の方針が認められたとして、「世界一危険な基地」と言われる普天間飛行場の移転方針を進めるようですが、基地がそんなに簡単に移設できるとは思えません。

普天間→辺野古という選択は、沖縄の基地負担を軽減させる解決になるのでしょうか。


(那覇飛行場近くの海軍基地) 

日本の国土の0.6パーセントしか占めない小さな沖縄県に、米軍基地の75パーセントが集中しているそうです。


(普天間の米軍基地)

また沖縄振興開発政策として、巨額の資金が投入されていますが、問題はあると思います。
私が以前、仕事で出かけた沖縄の大学院も、振興策の一つだと思いますが、山を切り開き、たくさんの施設を作っていましたが、それがどれほど沖縄県民に良い影響を与えているかは、疑問でした。

こちらは、2011年に訪問した時の、大学院の工事の様子です。


今はもうこの建物は完成しているのでしょうか。
基地産業や、観光業だけに頼ることなく、学問や研究の場としての沖縄対策だと思いますが、巨額の税金を投入しただけの結果が分かるようにしていただきたいですね。


(沖縄中部の米軍施設)

琉球、そして沖縄の歴史的・地理的条件を考えると、今後、どのような立場で行けばよいのか、そしてその決定権は誰にあるのか、は難しいことだろうと思いました。

沖縄旅行で沖縄のいろいろな面に接するにつけ、独立して存続できない小さな島が、独自に生きていく困難を感じてしまいました。

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こちらは沖縄中部にある古宇利(こうり)大橋。
白浜の美しいところでした。


2015年12月28日から31日までの3泊4日の沖縄旅行記、これにて終了させていただきます。

お次は奈良・京都の一泊旅行が待っています。

2016年1月26日火曜日

スマホと眼鏡 変えました

昨日は、スマホの機種交換と、眼鏡の作成で一日がつぶれてしまいました。

まずはAUに出かけて、スマホの機種交換の手続き。
今まで使っていたスマホはかなり長いこと使用していたので、動きも重くなり、不具合も生じてしまっていました。

それで、今までと同じHTCというメーカー(台湾)の新しいバージョンのものと交換しました。


大きさや見かけはそれほど違いませんが、今度のはカメラが二つ付いていて、一眼レフのように対象によってレンズを変えられるのだとか。自撮りもきれいにできそうです。

それはよいのですが、またあれこれ設定をしなくてはならないし、操作方法もかなり違うので、ちょいと戸惑っています。
同じメーカーのものだといっても、一から始めるのと大して変わりありません。

おまけに私のスマホと同時に、夫の携帯やiPadも変えたので、手続きにずいぶんと時間がかかってしまいました。

昼ご飯は外食にして、こんどは眼鏡屋さんへ。

眼鏡を変えるのは私の趣味のようなものです。
これまで利用していたメガネ屋さんが、コンタクト専門店になってしまったので、今回初めて、格安店の「ゾフ」に行ってみました。

ゾフって、犬の名前なのでしょうか?
店員さんがこちらのハスキー犬のマークを付けた洋服を着ていました。


フレームもレンズもものすごく安かったですが、検査もちゃんとしてくれたし、店員さんも親切でしたよ。
ただし私の場合は遠近両用と乱視が入っているので、すぐにはできないのです。
近眼だけだったら、30分で出来上がるとか。

これでは普通のメガネ屋さんには脅威でしょうね。
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この日の装い。

銀行とか、電気屋さんとか、電話会社などに行くときは、ジーパンで行くよりも、着物で出かけた方が丁寧に説明してくれる確率が高いので、着物です。

「このおばさん、機械のことは何も分からないだろうから、丁寧に説明しないとダメだろうな」という印象を与えるようなので、それを裏手にとって、何も知らないふりをして、あれこれ質問しやすいのです。

ということで、黒の紬と、白の木綿の帯にしました。


帯揚げと帯締めはあまり考えずに、赤っぽいものにしました。

何せ、夫がいたので、選択に時間をかけられなかったのです。






2016年1月24日日曜日

自然と歴史と基地の島 沖縄 10 ~空港編~

旅行するときは荷物は極めて少なくして出かけるのですが、今回の沖縄旅行は3泊4日だったので、多少は着替えなどの荷物がありました。
それでも行きの羽田空港では機内に手荷物として持ち込むつもりだったのですが、満席だったので、小さなスーツケースも預けることにしました。

そこで驚いたのが、荷物預けが機械化されていたことでした。
カウンターは無人で、自分でスーツケースを台の上に乗せ、Qコードをかざすと、氏名や行先が表示されます。
そのうちに機械がスーツケースのサイズや重量を自動で機械で測ってくれて、しばらくすると「受け取りました。これで良いですか。良い時はボタンを押してください」のような表示が出て、OKすると、カウンターの脇からするすると受け取り票が出てきて、荷物はベルトコンベアに乗って、それぞれの行先に移動されました。

航空会社のお姉さんの仕事が、機械にとって代わったわけですね。

最近、荷物を預けたことがなかったので、ちょいと驚きました。

しかしこのシステムは行きの羽田空港だけで、那覇空港から戻るときは昔のようにお姉さんが重い荷物を受け取ってくれて、あれこれ口頭で質問をされて、そして受け取り票を貰ったのでした。


そのうち、全国的に無人システムになることでしょうが、ちゃんと荷物を乗せてくれるか、ちょっと心配でした。

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帰りの那覇空港でのこと。

予定していた帰りの便が、機材の準備不良ということで、なんと出発が2時間も遅れることになりました。
せっかく早めに帰宅して、おせち料理の準備でもしようかと思っていたのですが、仕方なく空港で時間をつぶすこととなりました。

飛行機会社からは1000円分のミールクーポンを受け取りました。
そのチケットを出せば、飲食店で1000円分の食事がただでできるというお詫びのクーポンでした。

それで1000円程度のものを探して、見つけたのがこちらのサンドイッチ。


なんと中身がゴーヤなのでした。
卵も入って、ボリュームたっぷり。

サンドイッチハウスで時間をつぶしましたが、それでもまだ時間がたんまりあったので、ワインの試飲をしたり、どうでもよい買い物をしたりしました。

でもこういう情報は事前に分かっていたと思うのですよね。
添乗員のチェック不足ではないか、と他の方と話しました。
羽田から乗り継いで帰る人もいたのですから、ちょっと残念な2時間ロスでした。

おかげで、紅白歌合戦は途中からしか見られませんでした。

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今回のツアーは最終日が大晦日というスケジュールだったのですが、その大晦日に、那覇市内にある「波上宮」というところにお参りに行きました。


といってもまだ準備ができていなくて、なんとも不思議な風景でした。
翌日の元旦には、このあたりも参拝客で行列ができたことでしょう。


沖縄の建物は一種独特な様式ですが、こちらは「紫芋タルト」という御菓子で有名なお店の建物です。神社もこちらも、どちらも赤い瓦で、似た感じがしますね。


ちなみにこちらは、そのお菓子会社の紫芋タルトの製造風景です。
ベルトコンベアに乗ってお芋がどんどん作られていました。
こんなにたくさん作ってしまって売れるのだろうか、という心配もちらりとしましたが。


今回のツアーではこちらのバスガイドさんにはとてもお世話になりました。
沖縄の歴史、言語、伝統工芸、植物、唄、衣食住、そして基地のことなど、多くのことを教えていただきました。

何よりもご自分の仕事に誇りをもっていらっしゃり、プロ意識に徹底された人だと思いました。

大型バスでしたが、参加者が少ないため、バスの中はこんなふうにガラガラで、好きな席に座ることができました。


ツアー会社としては採算が合わない旅行だったかもしれませんね。

でも、私の嫌いな団体旅行も、彼女のおかげで有意義な旅行となりました。


(この項、もうちょっとだけ続く予定です。)




2016年1月22日金曜日

聖徳太子に会いに行く

2015年末の沖縄旅行記がまだ終了していないのですが、ちょいと聖徳太子さんに会いに奈良まで出かけてきます。


関西も寒そうなので、びびっています。

ホカロン持ちましたよ。


2016年1月21日木曜日

自然と歴史と基地の島 沖縄 9 ~那覇市の買い物事情~

沖縄は観光地なので、行く先々に観光客相手のお店がひしめいています。

でも私はお土産物屋さんで買い物をするのはあまり興味がなく、それよりも普通の庶民が利用する商店に行く方が好きですね。

那覇では「第一牧志(まきし)公設市場」▼に行ってみました。
観光客相手の国際通りをちょっと入ったところにあります。


ちょうど年末でおせち料理の準備のためか、地元の奥さんたちが買い出しに出てきていて、大混雑でした。
豚のバラ肉がドーンと塊で売られていたり、見たこともないような魚もたくさんありました。

私が子供のころ、杉並区の荻窪にもこのような市場があり、親などは「闇市」と呼んでいましたが、そこを思い出しました。
足元がぐちゃぐちゃだったので、着物の裾をからげて歩きました。

市場の中はあまりの人ごみのため、さすがに写真を撮るのは躊躇しましたが、ちょっとだけ空いている魚屋さんがあったので、1枚だけ写させてもらいました。

でかい!


この市場は1階が生鮮食料品などの売り場で、2階は食堂になっています。
下で買った魚をさばいて調理してくれるところもあるそうです。

ここで丼物をいただきました。
海鮮丼と、トロと海ぶどう丼です。
海ぶどうがてんこ盛りで、真っ黒に見えますね。


お腹がいっぱいになった後は、市場の外の方にあるお店であれこれ見ながら、お腹をこなしました。

こちらは三線のお店。
「私は三味線をやっているので、触ってもいいかしら」と頼んで、ちょっと弾かせてもらいました。


こちらは泡盛の専門店。
夫があれこれ選んで買っていました。
ハブの焼酎などもありましたが、かなり良いお値段でしたよ。


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いわゆる観光客用のお店に行くだけでは面白くないので、現地の人が利用するというデパートや新しい施設にも行ってみました。

こちらは沖縄県庁前にある「りうぼう」▼というデパート。
ロゴマークなどの色がなんとなく西武系のデパートのような気がしましたが。


ちょっとおトイレを拝借するので入ってみただけですいません。

沖縄風なところはあまり前面には押し出していないようでしたが、どういうわけか、ミッフィーの展覧会がありました。

店内にはあまりお客さんはいないようでしたが、大丈夫かしら。

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米軍基地の跡地にできた「おもろまち」▼という新しい商業施設にも行ってみました。
モノレールの駅の近くです。

ここには夜、タクシーで行きましたが、沖縄はタクシー料金がとても安くて、初乗りが550円だったと思います。

映画館やレストラン、ショッピングセンター、免税店、ブランド品店などがありました。
巨大資本が出資しているという感じでしたね。


まるで東京と同じお店があって、年末のセールが繰り広げられていました。
夫はズボンのベルトとか、ごく普通の買い物をしていました。

そして記念に宝くじも買いましたが、さて、当たったものかどうか、まだ調べていません。


沖縄の人たちが新しい施設で、ショッピングを楽しめるようになったのは良いと思いますが、でもお店はほとんどが本土の資本によるものです。

現地の店のことを考えると、ちょっと寂しい気もしますが、これも仕方のないことなのでしょうか、と思いました。

(この項、もう少し続きます)


2016年1月20日水曜日

自然と歴史と基地の島 沖縄 8 ~首里城~

首里城の紹介をする前に、ひめゆりの塔のお土産屋さんで買った「修学旅行のための沖縄案内」▼やツアーのバスガイドさんから聞いた話を元に、沖縄の歴史をちょっと振り返ってみようと思います。


日本史で鎌倉時代と区分される頃、沖縄でも農耕社会が発達して、集落が海岸部から大地に移動して、グスク時代と呼ばれる時代になりました。
また中国や東南アジアの国々との交流も盛んで、アジア貿易の拠点として繁栄してきました。

13世紀の初めごろには、まだたくさんの小さな集落がありました。
その後、北山、中山、南山という3つの国ができて、中国の明との貿易を盛んに行っていました。
この時代を三山時代と呼びます。

そして、1429年、三山のうちの一つである中山の尚巴志によって、3つの国が統一され、ここに琉球王国という統一国家が成立しました。
日本の幕府や、天皇の支配をうけない、小さくとも独立した国家でした。

その中山の城跡が首里城です。


琉球王国は海洋王国として栄え、東アジアの国々の懸け橋となって、富と文化財をたくわえ、独特の王朝文化が開花しました。大交易時代と呼ばれています。

中国の皇帝へは漆器や螺鈿を献上していたそうです。
また琉球は、船で北国の産物を南国へ運び、また南国の産物を北国へ送る貿易の仲介基地となりました。


15世紀ごろ(日本史では室町時代後半から戦国時代のころ)が、琉球王国の黄金時代でした。


このように海に囲まれた利点のある国でしたが、江戸幕府になり、1609年、薩摩藩が琉球に侵攻してきました。
鉄砲を持たない琉球軍は、あっけなく薩摩藩に支配されてしまい、首里城は陥落しました。

そして琉球の王は、江戸幕府の将軍に使節を派遣する義務を負うようになりました。

しかし、薩摩藩は中国(清)との進貢貿易の利益を守るために、密貿易を行いました。
つまり琉球は薩摩藩の服属国となりましたが、清にも貢物を続けていました
また琉球は独立国家であることをアピールするために、独特の文化を育てる必要がありました。沖縄の舞踊などはその結果です。

琉球は薩摩藩、江戸幕府、そして中国という二重、三重の影響や支配を受け、周囲の利益のために、独自の立場をとるようになりました。


その後は山地改革や財政の立て直しもあり、甘蔗(サトウキビ)から黒糖を作る技術が確立されました。

幕末には、琉球には欧米各国の船が来港して、航海の中継点として利用するため、開国の要求を行うようになりました。
ペリーは日本本土に入る前に琉球を訪れ、国王にアメリカ大統領の親書を渡しました。

その後、江戸幕府が各地の港を海港したため、琉球の中継貿易は急速に衰え、また、中継貿易を支えた日清両属という琉球王国の体制も意義を失うようになりました。


明治時代になり、1879年、琉球処分官により、日本政府は首里城に乗り込み、首里城を明け渡すことになりました。武力で脅しながら廃藩置県を強行して、沖縄県としました。

沖縄県となったあとも、政府は近代的な政策を取りませんでした。
それは大正年間になるまで、本土並みとは言えない政策が続きました。

このように近代化が遅れた沖縄県は日本一貧しい県でしたが、1945年に沖縄が戦場となり、首里城は焼失してしまいました。

戦争後、1972年に沖縄は日本本土に復帰して、その後、首里城の復元工事が着手されることになりました。


2000年に首里城にてサミットが開催され、首里城跡が世界遺産となりました。

沖縄の歴史を振り返るとき、日本本土や中国、そしてアメリカの支配を受けながら、その地理的条件や文化の特殊性を思わざるを得ません。
小さな島国が独自性を保ちながら生きていくのは、なかなか難しいものだと思います。

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「守礼門」です。
「守禮之邦」と書かれていますが、これは「琉球は礼節を重んずる国である」という意味だそうです。
ここをくぐって中に入ります。
1555年ころ、建てられたそうです。


歓会門。
独特の石の組み方がしてありました。


この石門は、国王がお出ましするとき、道中の安泰をこの前で祈願したという門(原型)で、世界遺産となっています。


琉球の国王は、こちらの高台から、世間を眺めていたのでしょうか。
王朝最後の王様のことなど、知りたくなりました。


こちらは今回のツアーの皆さんと一緒に守礼門の前で写した記念写真です。
私は着物が乱れていますね。


沖縄は地図を見ると、周囲を海に囲まれた小さな島で、那覇⇔東京間よりも、那覇⇔台北間や中国本土、あるいはフィリピンの方が近くにある、ということに気づきます。

現代の沖縄の問題を考えるとき、15世紀から続いていた琉球王国という歴史的存在と、その立場を忘れてはならないと思いました。