「名古屋」はかつては「那古野(なごの)」と呼ばれていたそうです。
現在の那古野は、愛知県名古屋市の中村区、西区あたりになります。
駅名でいうと、地下鉄の国際センター駅を中心とした周辺が那古野というようです。
このあたりは、戦国時代から那古野と呼ばれていたそうですが、尾張徳川家が、人心一新のために「名古屋」に代えたのではないかという説があるようです。
現在の那古野は、名古屋の下町として知られていて、食堂や古いおうちなどが並んでいました。
足元の道路にはこんなタイルが貼られていましたが、これはどういう意味なのかしら?
ピンクのタイルは、名古屋の[N」なのかしら?
那古野の中でも、堀川という川の沿岸は、「四間道(しけみち)」と呼ばれて、今も江戸時代の雰囲気を伝えています。
ここは江戸時代初期の慶長年間に、名古屋城築城とともにできた商人の街だそうです。
その後、元禄時代に大火にあって、それから道幅を四間(今の7メートル)に広げたことから、四間道と呼ばれるようになったそうです。
そして、昭和61年には名古屋の町並み保存地区に指定されたそうです。
こちらのカフェは築100年以上の建物で、和と洋がミックスされたインテリアが素敵だそうですが、あいにくと営業時間には早すぎて中に入ることはできませんでした。
他にも私好みの建物が点在していました。
こちらは骨董品屋さんだったと思います。
こんなお店に入ったら、ワクワクしてしまいそうですね。
四間道にはこういう素敵な建物が残ってはいましたが、大きなトラクターが古いお蔵などを壊している場面にも遭遇しました。
せっかく残っている建物を取り壊してしまうのはもったいないとは思いましたが、大きな石垣などはそのままにしておくと危険性が高いのでしょうか。
工事現場のおじさんともおしゃべりをして、名古屋城のほうまで歩いて行くことにしました。
この時は随分歩きました。
いつもはお城に行くときは、市役所側の東門から入るのですが、この時は西側から行くことにしました。そちらのほうが正門なんだそうです。
お城の近くにすっきりとした美しい建物がありました。
名古屋能楽堂▼でした。
中も見学できるというので入ってみましたが、池があったりして、幽玄の美を感じさせる建物でした。
ホールの奥では、能楽のお稽古をしていていたようです。
そしてようやく名古屋城▼へ。
ここにはもう3回ほど訪れています。
入り口には加藤清正の像がありました。
この人は名古屋城築城に大いに貢献したので、立派な像が建てられたそうです。
ただし実際に城を建てたのは、家康の九男の徳川義直だそうです。
清正は、アイスクリームを持っているようにも見えますね。
那古野から名古屋城まで歩き続けて、さすがに疲れてしまいました。
直線で2キロ以上はあったと思います。
場内はあまり丁寧に見学はしませんでしたが、こちらの天守閣の陳列は素晴らしかったですね。
お馴染みの金のしゃちほこ。
熊本地震では、熊本城に乗っていたしゃちほこが落下してしまいましたが、熊本県民にとっては、さぞショックだったことでしょう。
前日、大須で100円で買った着物を着ています。
この着物を着ていたおかげで、入場料が100円引きになりました。
名古屋城は本丸御殿が6月には公開されるそうで、またお客さんが増えそうです。
(名古屋旅行記はもう少し続きます)
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