「大正の后」は、題名のとおり、大正天皇のお后さまの、子どもの頃から生涯を終えるまでのお話です。
非常に面白く、明治維新の頃から、明治、大正、昭和の時代を生き抜いた激動の人生と、天皇家を中心とした日本の近代史がよく分かります。
植松三十里さんの傑作の一つだと思います。
後に貞明皇后と呼ばれるようになった九条節子(さだこ)さんは、公家の姫とはいえ、当時では田舎だった高円寺村の農家に預けられて活発に育った活発な庶民派おじょうさんで、「九条の黒姫」と呼ばれていました。
その方が、明治天皇の東宮と結婚され、多くの苦労をされながら男の子を次々と生み、病弱な大正天皇の片腕となって、生き抜きぬいていくお話です。
大正天皇は、奇行がある方として伝えられていましたが、実情はだいぶ違ったようです。
平和を願い、そして漢詩をたしなむ文化的素養に溢れた方でした。
節子さんは、天皇と一緒に全国各地を行脚したいと願っていましたが、当時は夫婦とはいえ男女が連れ添って歩くなどということに対しては、宮内庁では大変強い偏見がありました。
つまり皇后は皇孫を育てるのが役目であるので、もし旅行中に何かあったら大変だということでした。
現代のように、天皇ご夫妻が手に手を取って散歩をする光景をニュースで見かける時代とは、まるで感覚が違ったのです。
また大正天皇も節子さんも、お二人とも心身が弱いもの、病んでいる者に対して、優しいお心持ちの方でした。
ライ病患者や、身体障碍者には非常に強い偏見がある時代でしたが、お手持ち金の中から寄付をされるなどして、そのような人たちを蔭からそっと助けていました。
また節子さんのバックボーンには、父・九条道隆が幕末の戊辰戦争を通して、会津の人たちに申し訳ないと思う気持ちが流れていました。
その結果、秩父宮には松平容保の孫である勢津子さんをお妃に迎えたのでした。ちなみに彼女の元の名前は節子でしたが、同じ名前(読み方)では恐れ多いというので、勢津子と改名されたそうです。
実は、私は以前、会津に旅行に行ったとき、資料館で家系図を見て、どうして会津のお姫様が当時は敵方だった天皇家に嫁いだのか非常に不思議に思っていました。ところがこの本を読んで、その真意が分かりました。
会津武家屋敷を見学した時のブログ▼です。
そして、太平洋戦争末期には皇太后のお住まいにも焼夷弾の空襲がありましたが、皇太后となった節子さんは防空壕に住み続け、疎開することを拒み続けました。国民が非常事態になっているのに、自分だけが安全な場所に避難したくないと思っていました。
それは、息子である昭和天皇に、今すぐ戦争を止めてほしいという強い願いからでした。
病に伏せることの多かった大正天皇を妻として支え、昭和天皇を母として見守り続けた貞明皇后の激動の人生ですが、非常に聡明で、そして心身共に健康な方だったと思います。
この小説は、これまで正当な評価をされてこなかった大正天皇の実像に迫るとともに、大正天皇と明治天皇との確執、昭和天皇の皇后選びの時のトラブルなど、天皇家の内情をよくもここまで描いたものだと、感心しました。
皇室の視点から日本の近代史に光を当てた傑作だと思います。
これまでの植松さんの作品は優れたものが多いのですが、厳しい見方をすると、どちらかというと年表をそのまま追った感じで、登場人物の内心までは吐露されなかったものもあったと思いますが、この小説は違います。
小説としての厚みと、歴史を追求する深さがあると思います。
最後に、これからの天皇家の方々にも、大正天皇ご夫妻のように平和を愛する心を是非、強く持っていただきたいと思いました。
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