「更級日記」は、ほぼ今から千年前の2010年に書かれたものだそうです。その頃は、藤原頼道が全盛の平安時代中期になります。
この本を読むきっかけとなったのは、こちらの「日本人なら知っておきたい日本文学」の中に、「更級日記は、夢見るオタク少女が書いたもの」という説明があり、そのイラストがとても可愛い眼鏡少女だったからという単純な理由からです。
日記とはいえ、同じ日記でも「紫式部日記」や「蜻蛉日記」は有名ですが、「更級日記」はそれほど知られていませんね。その辺りも興味があったし、なにしろ短いので、手に取ってみたのです。
これは菅原孝標(たかすえ)の娘という人が書いたものですが、彼女の本当の名前は分かっていません。お父さんの名前が「孝標」なので、その女(娘)というわけです。
昔はよほど高貴な人、例えば中宮とか皇女でないと、女性の名前は分からなかったのです。
たとえば有名な紫式部や清少納言にしても、その名前は本名ではなく、父親の位などから呼ばれていた名前しか分かっていないのです。
ちなみに菅原というと、菅原道真を思い出しますが、彼女のお父さんはその道真から数えて5代目の人だそうです。また「蜻蛉日記」の著者である藤原道綱母は、更級日記の著者のおばさんに当たるそうで、そういう文学的環境のある家のお嬢さんだったのですね。
ということで、この孝標の娘ですが、父親が上総の国(今の千葉県市原市)の地方官僚で、父親の赴任に伴って一家でそこに住んでいました。
その家族が、彼女が13歳の時に都に戻るのですが、その旅行に始まって、その後40年間くらいのことを回想して書いたのが「更級日記」です。
書いた時期は、彼女が夫を亡くして、失望の毎日を送っていた頃です。寂しさで泣き明かしていた彼女ですが、昔のことを思い出して、この日記を書くようになったのです。ということで、毎日のことを綴った今でいう「日記」というよりも、「回想文」なのですね。そして前半は市原から都への「紀行文」になっています。
ちなみに「更級」というのは、彼女が書いた和歌「月もいででやみに暮れたる姨捨に何とて今宵たづね来つるらむ」に由来しています。
この和歌に出てくる姨捨山は、夫が晩年に国司を務めた信濃国の更級郡にあり、作品名の由来となりました。現在は更級は、更科と書かれることが多いようですが、同じ地名です。
さて、この著者は源氏物語のヒーローである光源氏に憧れたり、浮舟のような女性になってみたいという夢見る少女でした。
その後、母が出家したり、姉や乳母などが亡くなったり、宮廷に上がったり、30歳を過ぎてから遅い結婚をしたり、という人生を送ります。ちょっとずつ世界が広がっていく過程がうまく描かれています。
その中で、ちょっとかっこいい男性と知り合う機会もありました。とはいえ、それが熱烈な恋愛沙汰になることなく、淡いロマンチックな感情だけで終わったようですが。
また石山寺、長谷寺や宇治に参拝をしました。
そして信濃国守になっていた夫を失い、信仰がいかに大切か、ということに気付くのです。
淡々と書かれていますが、これだけの分量の文字を書けたり、紙を用意できたりしたのは、それなりの知識階級の人だったと思われます。
最後は上に書いた「姥捨て」の歌を詠むのですが、これは愛する夫が住んでいた信濃にかけているのでしょうね。
こういう普通の女性の日記が読めるというのは、和紙というのがあったからこそかもしれません。
いつの時代も、愛する人を亡くす淋しさや、読書の楽しみなどがあるのは共通のことなのだろうと思います。
この日記の中に、大事件は起こりませんが、淡々とつづられた文章は原文でも分かりやすく、好感が持てました。
ちなみに私は「角川ソフィア文庫」で読みましたが、後ろの方にある年表や、旅の地図、登場人物の説明などが丁寧に書かれています。
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「一日一句」
いつの世も 愛を求めて 春三月
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