先日、砂川新田を見にいくバスの中から、ちょっと面白そうな看板があることに気づきました。Googleマップで確認すると、「八軒新田の碑」とありました。
ということで、翌日、再び立川へ向かいました。
JR立川駅からバスに乗り、立川通りを進みます。立川競輪場を過ぎた当たりに、その看板が立っていました。とても立派なお屋敷の門の所にありました。
「芋久保新田」とありました。
水は玉川上水の分水を使っていたようです。
徳川吉宗の「享保の改革」の目玉である新田開発政策によって、芋久保村の人々がここ立川で開発したのですね。
享保の時代から始まり、元文の検地では家が8軒あったそうです。それで今でも「八軒新田」と呼ばれているとか。
砂川新田、砂川前新田、殿ヶ谷新田、宮沢新田、中里新田、榎戸弁天新田、八軒新田、芋窪新田 の8軒です。
こちらの大きな石には「武蔵野国武州多摩郡砂川村八軒」という文字が書かれているようです。砂川村の8軒が、この地域を開拓したことが分かります。
こちらは芋窪新田の看板。芋窪という地域は、現在の東大和市です。東大和の芋窪村から移ってきて、ここで芋窪新田を開拓しました。
「江戸から八里」と書かれた標識もありました。東西10町、南北10町だったそうです。ここは平坦なところで、水田はなく、陸田だけでした。
所沢からは甲州街道日野宿に出る道がある、とも書かれていました。
お屋敷には大きな蔵が見えました。何が入っているのでしょうね。
このあたり、やたらと和風レストランが建ち並んでいました。「梅の花」とか「立川茶寮」とか「安楽亭」とか。蔵を利用したところもありました。親戚の集まりとか、クラス会などに利用する場所のようです。
立川通りをしばらく直進すると、地図上では緑色の線がありました。ただしどこを見ても水の跡はありません。実はここは立川飛行場の専用線跡だったそうです。かつて軍用の資材の補給を行う線路の廃線跡だったようです。
「栄緑地」と名前を変えていました。
全長は1.6キロのようですが、私は「この先500㍍」と書かれた方向に進みました。とても暑い日でしたので、1キロは歩けないと思ったからです。
100㍍ごとに標識があったので、励みになりました。
そして終点。
この先どうしようかと思いましたが、少し歩くとモノレールの駅があることを思い出して、北へ進みました。
芋窪街道と書かれた電柱。
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