2025年8月5日火曜日

小川寺@小平

私の旧姓は「小川」というのですが、そのためか、「小川」と名のつくものにはちょっと興味があります。それで先日は小平の「小川寺」(しょうせんじ)というところに行ってみました。

ここは江戸時代に小川新田が開拓された場所のお寺なのですが、行き方を調べてみると、どこの駅からも遠い。この炎天下に外を20分も歩くのは嫌なので、あれこれ探してみると、立川駅からバスが出ていました。「武蔵野美術大学」」行きです。そこの終点から3分ほどで小川寺へ行けるというので、まずは立川へ。

最近、立川駅とか国分寺駅とかをよく利用していますが、いまだに間違えてしまいます。

さてバスの終点。キョウチクトウの並木道がとてもきれいでした。後ろは武蔵美です。

そこから美大通りを北へ進むと、大きなお寺の長い塀が見えました。

これが小川寺でした。明暦年間(1655年~1658年)に作られました。

ここは江戸時代に、現在・武蔵村山の名主・小川九郎兵衛さんが作った開拓地です。青梅街道に面していました。

このあたりの地割図です。みごとに細長く揃っていますね。羊羹のようです。

境内はとてもきれいに整備されていました。九郎兵衛さんのお墓もあるそうです。

こちらは1686年(貞享2年)、九郎兵衛さんの18回忌に、村人たちが寄付をして作った梵鐘です。大きくて立派でした。

道路の向かい側には小平神明宮という神社がありました。

1661年(寛文元年)に作られたそうですが、小川村の鎮守でした。殿が谷村(現・瑞穂町)の阿豆佐味天神社から分祀されたそうです。


この鳥居から100㍍ほど長い参道が続いていました。武蔵野特徴といえるけやき、えのきなどが生えていて、境内は涼しかったです。

お隣は幼稚園でした。昭和39年に創立されたそうです。

境内にはこんな小川が流れていましたが、小川用水の分水なのでしょうか。

この日も暑かったので、長時間歩くのは止めて、また武蔵野美大のバスターミナルに戻りました。

立川に戻るバスが発車してしまった直後だったので、今度は国分寺行きのバスに乗りました。

あちこち知らない場所や、知っている場所を通りました。

終点の国分寺駅では、駅ビルの丸井に入って、そこの武蔵野茶房(?)でかき氷にありつけました。

ここはお茶の専門店のためか、宇治金時の抹茶がものすごく濃くて、苦すぎました。もう少し甘味が欲しかったかな。



2025年8月4日月曜日

立川から芋窪街道へ

先日、砂川新田を見にいくバスの中から、ちょっと面白そうな看板があることに気づきました。Googleマップで確認すると、「八軒新田の碑」とありました。

ということで、翌日、再び立川へ向かいました。

JR立川駅からバスに乗り、立川通りを進みます。立川競輪場を過ぎた当たりに、その看板が立っていました。とても立派なお屋敷の門の所にありました。

「芋久保新田」とありました。

水は玉川上水の分水を使っていたようです。

徳川吉宗の「享保の改革」の目玉である新田開発政策によって、芋久保村の人々がここ立川で開発したのですね。

享保の時代から始まり、元文の検地では家が8軒あったそうです。それで今でも「八軒新田」と呼ばれているとか。

砂川新田、砂川前新田、殿ヶ谷新田、宮沢新田、中里新田、榎戸弁天新田、八軒新田、芋窪新田 の8軒です。

こちらの大きな石には「武蔵野国武州多摩郡砂川村八軒」という文字が書かれているようです。砂川村の8軒が、この地域を開拓したことが分かります。

こちらは芋窪新田の看板。芋窪という地域は、現在の東大和市です。東大和の芋窪村から移ってきて、ここで芋窪新田を開拓しました。

「江戸から八里」と書かれた標識もありました。東西10町、南北10町だったそうです。ここは平坦なところで、水田はなく、陸田だけでした。

所沢からは甲州街道日野宿に出る道がある、とも書かれていました。

お屋敷には大きな蔵が見えました。何が入っているのでしょうね。

このあたり、やたらと和風レストランが建ち並んでいました。「梅の花」とか「立川茶寮」とか「安楽亭」とか。蔵を利用したところもありました。親戚の集まりとか、クラス会などに利用する場所のようです。

立川通りをしばらく直進すると、地図上では緑色の線がありました。ただしどこを見ても水の跡はありません。実はここは立川飛行場の専用線跡だったそうです。かつて軍用の資材の補給を行う線路の廃線跡だったようです。

「栄緑地」と名前を変えていました。


ちょっとくねくねした細い道でした。


なかなかきれいに整備されていました。


こちらはちょっと古めかしい案内図。

全長は1.6キロのようですが、私は「この先500㍍」と書かれた方向に進みました。とても暑い日でしたので、1キロは歩けないと思ったからです。

100㍍ごとに標識があったので、励みになりました。

そして終点。

この先どうしようかと思いましたが、少し歩くとモノレールの駅があることを思い出して、北へ進みました。

芋窪街道と書かれた電柱。


泉体育館の駅まで歩きました。

早朝から歩き始めましたが、汗だくだく。

そしてモノレールで立川まで戻りました。今は大きなビルばかり。すごい繁華街です。

立川の歴史をちょっと覗いたような気分になりました。


2025年7月31日木曜日

「源氏物語を楽しむ会」84回 2025年7月

先日、「源氏物語を楽しむ会」を開催しました。

いつものようにスタートはおしゃべりから。

今回は、どういうわけか、昔のテレビタレントのロイ・ジェームスさんについての話題でした。若い方はご存知ないと思いますが、元祖・外人タレントのような方でした。もしご存命なら今年96歳。この方はお生まれは台東区でしたが、元はトルコの方で、その後、日本国籍を取得されました。タレントさんというか、司会業で人気者になったと思います。

そうそう、どうしてこの方の話になったかというと、この方の奥様はかつては三島由紀夫の「鏡子の家」のモデルだったそうで、それでロイジェームスに話が飛んだのでした。

三島由紀夫も生きていれば100歳でしたね。

ということであれこれおしゃべりをした後で、玉葛の裳着の話になったのでした。

今回は宿題が出ていました。

それは「行幸」の原文のなかで、内大臣が「今日のかしこまりは、・・・」と話すのですが、

その現代語訳は「今日のお礼は・・・・」となっていました。「かしこまり」というと「かしこまりました」のように使うことが多いのですが、それがどうして「お礼」になるか、よく分かりませんでした。

それで「かしこまり」の古語を調べてみました。かしこまりは、「畏まり」と書くそうで、意味は「恐れ入ること」「恐縮すること」だと書かれていました。また「感謝の言葉や謝罪、おとがめをうけること」の意味もあるそうです。

現代語で「かしこまりました」というと、これは相手の言葉を慎んで承る、了解したという意味になりますが、そこから「ありがたく思う気持ち」や感謝の気持ちをあらわすことばとしても使うのだそうです。

ふーむ、古語と現代語では微妙に意味が違っていますが、それでもなんとなく分かりました。

ということで、今回は宿題の解明でした。

写真は刀剣ワールドより拝借した「裳着」です。

今回のお話には、久しぶりに末摘花さんも登場しました。彼女なりに必死になっているのですが、光源氏はあまり気に入らないようですね。

2025年7月29日火曜日

「阿豆佐味」の意味は?

この日の新田歩きは、それほど期待していませんでしたが、予想外に収穫がありました。

出かけたのは立川市の砂川新田というところです。

砂川というと、かなり昔、砂川事件というか砂川闘争というのがあって、なんとなく暗いイメージがありましたが、それはみごとに覆されました。

立川までは京王線とJRで出かけて、その後は立川バスに乗りました。去年、大学のフィールドワークで立川防災館に行きましたが、今回の目的地はその先にありました。

「砂川○番」というように番号がついている場所でした。私がバスから下車したのは「砂川四番」という停留所。五日市街道沿いにありました。

少し西に歩くと、目の前にドーンと「阿豆佐味神社」の特大石碑?が立っていました。なんでもここは安産の神様だそうです。

鳥居もとても立派でした。


境内に入ると、一番目立つ所に、このような説明がありました。

「あずさみ」と言うのは「安住」ということで、「さ」は強調するときの「とても」というい言葉だそうです。つまり安心して住める場所ということですね。

砂川は北には玉川上水、南には昭和記念公園、西には秩父の山々が見えるところです。

それで「すごく暮らしやすい」というのでしょうか。アナウンサーに安住さんという方がいらっしゃいますが、よいお名前なのですね。

境内にはいくつもの神社がありました。

「蚕影神社(猫返し神社、養蚕の神)」という神社もありました。

ここは猫が行方不明になったときに願掛けをするとその猫が飼い主のところに戻ってくるという逸話の神社があるそうで、ピアニストの山下洋輔さんの猫も戻ってきたというので、一躍有名になったところです。そのため、猫の絵を描いた絵馬や、「○○ちゃん、戻ってきてね」という願い事を書いた絵馬がたくさん吊されていました。

この神社全体の由来などの説明はありませんでしたが、神社のホームページによると、「砂川の新田開発の際に、村の鎮守の神として1629年(寛永6)に創建された」そうです。

境内はとても美しくて、よい感じの神社だと思いました。

そして五日市街道を西に向かって歩きました。

途中、このような説明板がありました。

「寺子屋の始まり」のような場所でした。

砂川の方は教育熱心だったのかもしれませんね。

「歴史と文化の散歩道」という案内には、五日市街道には昔は「まいまいず」井戸がたくさん掘られていたそうです。玉川上水から分水を引いて、農業のための水を確保し、また日常生活に必要な水は井戸を掘って確保していたようです。

その先に妙泉寺。看板がとても大きくて、目立っていました。


こちらは正面入口。


立川市教育委員会が建てたお寺のいわれです。


新田開発に来た人々の菩提寺として作られたとありました。
明治時代にはこのお寺では学校があったそうです。

境内はとてもきれいでした。

このお寺と神社が新田のセットになっていたようです。ただしどちらも新田開発の少し前に建てられたようでした。

ここから先は五日市街道をまっすぐに歩きましたが、豪農の立派なおうちがたくさん並んでいました。どこもお蔵が立派でした。個人のおうちなので、あまりちゃんと写しませんでしたが、今まで見てきた新田の中で、昔の農家の姿が彷彿としてくる場所でした。



その後は、ついでに玉川上水に寄ってみました。

ここは数年前、友人たちと歩いた場所です。

新家橋。


橋の上から玉川上水を眺めたところ。


新家橋の意味が書かれていました。「しんやばし」と読むのですね。


見影橋。


この橋のたもとには分水があったそうです。


ずっと歩き続けていて、さすがに暑さにやられたので、スーパーのマルエツに入って、ひと涼み。
「白熊くん」で身体を冷やしました。


帰りは西武拝島線の西武砂川という駅から乗車しました。

小川という駅で乗り換えて、今度は西武国分寺線で国分寺駅まで。

ここまで来たらあとはバスで府中に戻るだけです。

知らない場所に出かける時は、ちょっと不安でもありますが、一度行ってしまえば後はなんとかなるもの。

またこのあたりは玉川上水歩きで来たことがある場所なので、土地勘がありました。

今回のルートは立川市教育委員会の方のオススメコースでしたが、こちらの地図にも掲載されていました。「立川を歩く」という地図形式のガイドブックです。

立川は市をあげて歴史の保存を頑張っているようです。







2025年7月27日日曜日

三鷹市 図書館・大澤八幡・ワークマン

 三鷹市の中央図書館で借りた本を返すため、今回は西部図書館というところで返本してみました。使いやすそうな図書館でした。


 図書館に行く前に、このあたりは大沢新田と関係があるだろうと思って、大澤八幡神社を探して行ってみました。

 大澤八幡神社は、天文台の近く、三鷹市大沢にあります。車の往来が激しいところで、村の雰囲気はありませんでした。それでも神社の境内はひっそりとしていました。


中くらいの規模の神社でした。


 神社は人見街道沿いにあり、お隣は基督教大学、北側はスバルの工場に挟まれています。
このあたり、かつては中島飛行機の会社があったところだと思います。


 この大澤八幡神社は、大沢新田ができる前の慶長年間に、京都の石清水八幡宮から分かれて、大沢5丁目付近に建てられました。
 その後、近くに開かれた長久寺とともに大沢2丁目に移り、大沢村の鎮守として祀られました。そして大正6年、近くに東京天文台ができたので、今度は現在の大沢3丁目に移ってきました。
 何回も引っ越しされて大変でしたね。

移転の祈念碑がありました。

 そういうわけで、大澤八幡神社と長久寺は徒歩で10分くらい離れた距離にあるのですね。それでも新田の人たちの信仰の対象になっていたようです。

 このあたり、野川は近くにありますが、水はどこから引っ張ってきたのかしら。

 東八道路沿いにワークマンのお店があったので、ちょっと涼みがてら入ってみました。このお店は朝7時からオープンしているので、便利ですね。





2025年7月21日月曜日

小平ふるさと村

 先日は、「小平ふるさと村」というところに意気込んで出かけたのですが、なんだか行動がすべて裏目に出て、あまり手応えがありませんでした。

最初のミスはバスの乗り違え。終点は同じなのですが、ルートが違うバスを選んでしまいました。まぁ、これはそれほど問題にはならず、目的地まで到着。

その次は、トイレ問題。国分寺の駅ビルでトイレを使用しようと思いましたが、長蛇の列。それで諦めて次のバスに乗ろうとしたら、目の前でバスはスーッと出発してしまいました。うーん、仕方なくまたトイレに戻りましたが、次のバスまでの空き時間がありすぎて、時間をつぶすのに苦労しました。

ようやく立川バスに乗りましたが、すぐ後ろに1歳児くらいの親子がいて、これがうるさい。おまけに「うんちが出た」とか騒ぐので、ほんと、困りましたよ。

そのまま小平に向かいましたが、下調べをしていたバス停は、停留所が置いてあるだけで実際はバスは止まらないところでした。仕方なく他のバス停で下車して、20分くらい炎天下を歩きました。

途中、鈴木用水というのが見えて、これはラッキーでした。前に出かけた鈴木新田の鈴木さんと関係があるのでしょう。


こんな説明板がありました。
この鈴木用水は享保14年に玉川上水から分水されたそうです。
飲水として利用されていたのですね。

ようやく延命寺というお寺に到着。ここは静かできれいに整備されていて良かったです。


延命寺はもともとは武蔵村山市にあったそうです。
享保18年、野中新田開発に際して、代官上坂安左衛門に願いを出して、引寺が許可されたそうです。

お寺はとてもきちんと整備されていました。

こちらはお地蔵さん。赤いよだれかけが、花のように見えました。

お寺の一角に神社もありました。「多摩野神社」です。


なかなか風格がある神社でした。

このようにお寺と神社がセットになっているのは、江戸時代の新田開発にはつきものの場所ですね。このあたりは野中新田で良いのかしら。

お寺の北側には大沼田用水の痕跡がありました。


竹林も美しかったです。

お寺の近くは、遊歩道のようになっていました。

この場所は、問題がなくて、良かったです。

そこをぶらぶらと歩いてようやく「小平ふるさと村」に到着。このあたりは木々が多いので、蚊にさされまくりました。

このふるさと村は無料のためか、小さな子供を連れた若夫婦が多いところでした。

江戸時代の農家が建っていましたが、うーん、現代人が暮らすのはちょっと厳しそうな場所でした。中は真っ暗。冬は寒そうな場所でした。

子供向けのイベントはありましたが、大人にはちょっと物足りないかな。それでもパンフレットや地図などをいただけたのは良かったですが。

仕方なくまた炎天下を歩いて、昭和病院という所のバス停に行きました。

バスの便数がとても少なくて、病院内のコンビニで仕方なく時間つぶし。

ようやくバスに乗り、なんだかんだで国分寺、府中経由で自宅に戻りましたが、収穫はあったのかなかったのか、よく分かりませんでした。

それでも事故にも遭わず、転倒もしなかったので、これで良しとしましょう。

こういう場所は、あまり期待しないで出かけたほうがよいのかな、とも思いました。

まぁ、シルバーパスであちこち無料で出かけられるのは、ラッキーですね。