「和装の美」の講座も3回目です。
今回の講義では、伊勢丹研究所というところが昭和40年に制作した「日本の染織」というビデオを見せていただきました。
ずいぶん昔のものなので、「中国」のことを「支那」と言ったりしていてちょっと違和感がありましたが、服飾史を学ぶ人にとってはとても貴重なフイルムでした。
まず弥生時代ですが、器にも布の跡が付着していたそうで、当時の織り目がうっすらと残っていました。
その後の埴輪時代ですが、埴輪は衣装を左前に着ていました。まだ右前に着る習慣がなかったようですね。
奈良時代ですが、当時の高級な位の人たちの衣装には中国の影響が強くありました。
平安時代になると、日本独自の衣装が発達して、高貴な女性の正装は十二単姿になりますね。
その後の鎌倉時代ですが、正装はまだ平安風の衣装を着ていたようです。
戦国時代には「応仁の乱」の影響で、京都には織物職人が少なくなり、その分、各地に織物技術が伝搬したようです。
ちなみに応仁の乱で西側の陣地で作られた織物が、西陣織という説がありますね。
そのあと 桃山時代になると、今勉強している小袖が登場してきます。
当時は生地に刺繍と摺箔をほどこした「縫箔(ぬりはく)」という技法で着物を飾っていました。
刺繍というのはもともとは織の真似をしていたそうです。
そのころは四つ身代わりといって、着物の全体を横に4段ほどに区切って、その中を刺繍などで埋め尽くしていました。
その柄は左右対称で、区画ごとに絵柄がきちんとはいっていて、模様は規則的なものでした。
このころの着物は反物の断ち方の違いから、現在のものよりも身幅や衽が広く、そのかわり袖の裄が短かったのでした。裾周りが120センチほどあったので、女性は立膝をしていたそうです。
そのあと「慶長小袖」が登場します。
慶長年間というのは1596年から1615年までの間になります。
「地なし」といわれるくらい、刺繍や箔や絞りでぎっしりと埋められていてとても豪華なものでした。ひった絞も盛んになりました。
その後の「寛文小袖」は桃山のころとは違い、着物の柄が左右非対称となっていました。
寛文年間は1661年から1672年までの間です。
そのころは着物の模様がはっきり鮮明になり、主張が強くなり、柄と柄との間に空間が出てきました。
そのころの「新撰御ひいながた」というのも見せていただきました。
これには人物や動物、植物、身の回りの物などの斬新なデザインが200種類くらい載っていました。
そのデザイン帳を見て、新しい着物の柄を選んだのでしょうね。
そして江戸中期になると、流行の中心は京都から江戸に移ってきます。
模様も小紋や縞、無地などがメインになりました。
そのころ浮世絵に描かれた着物が人気になりました。これは現代でも人気タレントの着ている服が流行になるのと似ていますね。
そして町人文化が花開いたわけです。
江戸後期になると、着物の柄に物語性が出てきました。裾模様などもこのころから流行ったようです。
こんなふうに日本の服飾史を学びました。
ちょっとずつですが変化していくのがおもしろいですね。
この日の装いは大雨の予報だったので、雨でもOKのニュー着物にしました。
着物で出席したのは、私ともう一人の人しかいませんでした。
参加した人から「それ、白大島でしょ、すてきね」と言われましたが、違うんですよね。
ポリです。
帯はさとさんからいただいた朱色の織の帯。
こういう柄はいつから流行ったのかしらと思いながら、身に着けるのも楽しいですね。
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