奈良学のお勉強の参考になるかと思って、東野治之さんという方の「遣唐使船 ~東アジアの中で」(朝日選書)という本を読んでみました。
皆さんご存じのように、遣唐使というのは隣国・唐の優れた制度や文化を取り入れるために7世紀から9世紀にかけて作られた制度ですね。
遣唐使は1回に400~500人が数隻の船で渡航していたようです。
意外と人数は多かったのですね。
それが20年に1度くらい実施されたようです。
最初は630年に始まったのですが、その後17回企画をしても、中止になった時もあったそうです。
船には大使や副使、それに留学生、留学僧などが乗りこんでいましたが、数の上では船をこぐ作業員や修理をする工員が多かったようです。
最初は朝鮮半島沿いの北路を行き来していましたが、その後、東シナ海を横断する南路を通るようになりました。
いずれの航路を取るにせよ、航海は大変危険で難破や漂流も数知れずほどあったそうで、沖縄まで来てもその後流されてベトナムまで行ってしまったり、何回も元に戻されてしまったこともあったそうです。
この本は、遣唐使の中で、奈良時代の末、宝亀8年(777年)に行われた遣唐使のことが書かれています。
このときは、大使に任命された人が仮病を使ってまでして船に乗るのを辞退したそうです。
やはり海の危険性を想像すると辞退したくなったのでしょうね。
それと海を渡るのも大変な苦労がありましたが、たとえ中国に上陸できても、その場所から長安の都までにたどり着くのもかなり大変だったようでした。
それでも都に行って皇帝に謁見ができるというのは非常に名誉なことだったのでしょう。
中国という国は「中華思想」に凝り固まっていたので、日本側はいろいろと苦労したようでした。
「中国に貢ぐ」という形を取らないと受け入れてくれないので、形だけはそのようにしたようです。
それでも日本は中国周辺の国家にしては珍しく、自国の君主を一貫して中国の君主と同じ皇帝とみなしていました。
中国とは海を隔ててかなり距離があったので(他の朝鮮半島の国々に比べると)、主従関係もあまり厳しくなかったのかもしれません。
遣唐使として渡った人には有名な人も多くいました。
阿倍仲麻呂は留学生として唐の長安へ渡りました。
優秀な成績で科挙に合格して、中国の高官となりました。
李白などの多くの唐の詩人と交流したそうです。
しかし彼は永遠に日本には戻ることができませんでした。73歳で中国で亡くなりました。
「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」
この句は百人一首にもありますが、望郷の念が表れていますね。
また中国からの渡航者としては鑑真が有名ですが、彼は5回目の航海でようやく来日できたほど、航海は大変でした。
日本の遣唐使は他の国々の交流と比べると、どちらかというと「買い物ツアー」のような感じだったそうですが、それでも中国から学んだものは多くありました。
また近隣諸国の情報を得るためにも活用されました。
そして894年、菅原道真のとき廃止となりました。
遣唐使のことなど、高校時代の日本史で学んで以来のことでしたが、帆もない、もちろんエンジンもないような船で大海原を航海した人たちは本当に勇敢な人たちだったのだろうとつづくづく思いました。
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