今回のテーマは「長谷川等伯 VS 狩野永徳」です。普通の絵画史では「永徳 VS 等伯」という順番のようですが、講師が等伯ファンの先生なので、「等伯 VS 永徳」という順番になっています。
ただし、講師によれば、世間では等伯と探幽はライバル視されているけれど、実際は活躍した時代もずれているし、タイプがまるで違うのでライバルというには当たらない、ということでした。
いつもこのような資料がたくさん用意され、またスライドもたくさん見せていただいています。
最初は等伯さんの紹介です。
彼は1539年に能登の七尾で誕生して、1610年に江戸で亡くなりました。当時としては長生きの部類に入るでしょうね。
幼い時に長谷川家の養子になったそうです。
若い頃は「信春」と名乗っていて、20代の頃は絵仏師(仏像の絵を描く人)だったそうで、日蓮上人の絵や涅槃図などを描いていました。
その後、30代から40代の頃になって、京都に来たようです。
代表的な作品はこちらの「松林図屏風」。
濃淡で表した松が微妙な美しさを醸し出していますね。とくに屏風の形に折り畳んで見るとすばらしいそうです。
また余白の取り方が、当時としてはかなり斬新なものだったようです。
しかしかなり謎が多い絵で、講師からは、はんこの位置がおかしいし、紙を継いだ場所もおかしいという指摘がありました。
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さて一方の永徳さんですが、等伯が生まれて4年後に京都で誕生しています。
狩野派直流のバリバリで、英才教育を受けて育ちました。
20代前半にすでに大徳寺の襖絵制作でデビューしました。
そして30代の若さで絵師として最高の位である「法印」に叙せられています。
信長が上杉謙信に贈った「洛中洛外図屏風」は若い頃の作品。凄いですね。
その後、信長の命令により、安土城に多くの絵を描きました。
1550年ころから1590年ころは永徳の独壇場でした。
今はない安土城や聚楽第ではさぞ素晴らしい絵が飾られていたのでしょうね。
彼の絵の特徴は、画面に収まりきれないくらいの大きな絵です。
「永徳様式」と呼ばれています。
「唐獅子図屏風」
権力者が喜びそうな強い獅子の姿ですね。
しかしこんな彼も、さすがに疲れてきたのか、48歳で過労死してしまいます。
「檜図屏風」は探幽の遺作だと言われています。
松の枝や根っこがモリモリしています。
その後、独特の風合いの絵を描いていきます。
さて、等伯と永徳、どちらの生き方がいいのでしょうね。
太く短く華やかに生きた永徳。
若い頃はぱっとせずに、中年になってからようやく花が開いた等伯。
信長や秀吉といった時の権力者であるパトロンの命令のままにたくさんの絵を描いていた永徳。
そして自分のやりたいことをして、自我を持って生きた等伯。
この話はまだ次回の講座に続きます。
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講座の内容とは関係ないのですが、ちょっとひとこと。
私はこのようなセミナーを受講するときには、いつも着物で伺っています。
でもこの日はいろいろな都合で、洋服(ジーパン)でした。
いつもご一緒するご近所の方から、
「あら、今日は着物ではないんですね」と言われてしまいました。
着物のイメージがついてしまっているようですね。
でも洋服だったので、冷房に耐えられずに困りました。
係りの人に「寒すぎるので弱くならないか」と申し出たのですが、空調は変えられないようになっているとか。
2時間の間、ずっとぶるぶるしていました。
お隣の女性も寒そうに丸くなっていました。
その点、着物だと冷房対策にはちょうどよいのです。
次は絶対に着物で行かなくちゃ。
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