「今年のことは今年のうちに」
ということで、だいぶ日にちが過ぎてしまいましたが、「日本の染織文化」6回目を簡単にまとめておきますね。もうかなり記憶が途切れていますが。
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今回のテーマは「友禅染」と「着物の模様の変化」に関してでした。
以前、去年の6月に別の先生から「和装の美」という市民カレッジを受けたときにお聞きした内容とほぼ同じでした。
そのときのまとめはこちら▼
一言で言うと、「友禅染は友禅という人が元祖ではない」ということ。
宮崎友禅さんという人は実在の人でしたが、その人は扇に絵を描く扇絵師であり、扇の形や丸い形の中に花鳥風月の絵を描いていました。
それが爆発的に人気が出たそうですが、すぐに飽きられてしまったそうです。
ちょうどそのころ、糊の防染(ぼうせん)をして、色をつけたくないところに糊を置いて、色を染める手描きの技法が流行り、それが友禅染といわれて、友禅さんと染めの技法がごっちゃになった、ということのようです。
また着物の模様の変遷についても学びました。
桃山時代や江戸の初期には、まだ帯の幅が狭かったので、着物全体を通した一続きの模様が多かったのですが、だんだん帯の幅が今のように広くなると、模様も上半身と下半身に分かれた絵柄になって行きました。
武家の女性は刺繍や鹿の子など、町人の女性は友禅などと身分によって違っていたそうです。
その後、18世紀の後半になると、派手な総柄よりも、裾模様だけ、というようになったそうです。
そして着物の丈もだんだん長くなり、武家の女性は籠に乗るのでおはしょりはしませんでしたが、町人の女性は外を歩くことが多いので、おはしょりをするようになりました。
明治時代に入ると、西洋の影響で、後ろには模様のないものが流行るようになったそうです。つまり女性の美しさは「前から見たもの」というのが定着したそうです。
その後、19世紀になると、縞や格子、絣などが流行するようになりました。
インドから輸入された「サントメ島」、中国から輸入された「唐桟」などに似せて作った、国産の木綿も安く作れるようになりました。
このようにして着物の柄や生地も変化してきました。
戦前までは江戸時代の技法や模様が受け継がれてきましたが、戦争によりそれが断絶してしまい、戦後は着物業者などがそれまでなかった新しいマニュアルを作るようになったということでした。
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今回の講義で面白いと思ったのは、西洋人は身体をコルセットや下着などで形を整えて、それに合わせた服を着るわけですが、日本人は着物を紐で調節しておはしょりの長さなどを変えて、着物に合わせて着る、という違いがあるというお話でした。
また先生の講義の内容よりも、研究者としての話が興味深かったですね。
私は今まで、理系の大学関係の仕事をしていたので、論文の出し方とか、発表の時期とか、審査方法とか受賞基準とか、そういう話題が身近にありました。
他人より早く学説や研究成果を見つけて発表したい、というのは文系であろうと、理系であろうと同じなんですね。とくに文系の場合は、文献の読み方一つで解釈が異なってきますね。
細部にまでこだわるのは、研究者の本質なんだなと感じました。
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この日の装い。
朝のうちは小雨が降っていて、ぱっとしないお天気だったので、よほど洋服で行こうかと思いましたが、洋服だと足元が寒いんですよね。
それで濡れてもいいように、ウール(?)の大島風プリントの1000円着物にしました。
とても暖かくて楽ちんです。
帯はさとさんからいただいた、こちらもウールの赤い帯。
帯揚げはちょっと考えて、明るい水色のちりめんをしてみました。
ここだけ目立って、帯締めが隠れてしまいましたね。
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