「築地」というと、東京中央卸売市場であった「築地市場」を思い浮かべる人が多いと思います。
また「築地」に川なんてあったっけ? と不思議に思う人もいるかもしれませんね。
ここでちょっと「築地」についての簡単なおさらいをしてみます。
そもそも「築地」というのは、江戸時代にできた海の埋立地であり、「地を築く」という言葉の通り、作られた土地なのです。
徳川家康が関東に入る前は、江戸(現在の中央区あたり)はほとんどが東京湾の海面下でした。
家康は江戸のまちづくりのため、埋め立て工事を始めました。
その後、「明暦の大火」(いわゆる振り袖火事)によって、ここに西本願寺別院が移動してきて、「築地」は本願寺再建のために発展しました。
この地域は本願寺を中心とした武家屋敷が並んだ地域だったそうです。
築地には築地川主流の他に、2本の支流がありました。ただし、川といっても流れる川ではなく、地面を掘ってそこに水を通した掘割のようなものだったそうです。そしてその掘った土は、自分たちの屋敷の造成に当てたそうです。
その後、明治時代になると、この地域(築地明石町)には外国人居留地ができて、西洋風の建物が立ち並びました。
また新橋の料亭や花街が近くにあり、華やかな街という印象があったかもしれません。
当時は人力車に乗った芸者さんが、歌舞伎座や新富座などにお芝居を見にいったのかもしれませんね。
また多くの政治家も築地に家を構え、たとえば井上馨や大隈重信などが築地に集まっていたそうです。
先日、鏑木清方の日本画を見ましたが、その絵画は明治時代の築地の明石町や新富町を描いたものもありました。
そんな華やかな街でしたが、それが一変したのが大正12年の関東大震災です。大震災後は、焦土処理のため、築地川支流の掘割は埋め立てられました。だいぶ風景が変わったことだろうと思います。
その後、昭和の初期には築地川主流は、水運の役目を果たしていて、東京は水の都でもありました。
そして1935年(昭和10年)に、中央卸売市場が築地に開設され、東京の台所として活動するようになりました。築地川も水産物などを運搬するために、活用されていたのだろうと思います。
ところがそれが一変したのが、戦争です。
終戦後は都内は焼け野原と化し、街中は土や瓦礫や灰でいっぱいになりました。きっと今のウクライナのような状況だったかもしれません。
築地川は、戦後の復興のためにその土を埋め立てられる場所になりました。
その後、日本は高度成長期となり、人口は急激に増えました。そして1964年の東京オリンピックを迎える前には、これからの自動車時代のためには築地川を埋めて、高速道路を作るという政策が決定されました。
そして築地川だったところは高速道路になり、周囲は緑や花の多い公園になったり、駐車場などに変わりました。
築地は、時代の変化とともに歩んだ街なのですね。
今後もまたどんどんと変化していく街だろうと思います。便利で快適な生活を求めて街も変わっていくのでしょう。
そのような社会の変化に伴い、昔はあったのに消えてしまった川は、築地川、京橋川、浜町川などがあります。
川はなくなってしまっても、水辺の風景は、絵画や文学、映画や芝居などによって、人々の記憶に残るものと思います。
私の母やその家族は、大正末期から昭和初期までその築地川周辺で生活していたこともあるので、私にとってはこの地域はどこか懐かしさを感じる場所なのです。
そんな築地川散歩をしてみることにしました。
(この項 続きます)
*******
「一日一句」
夏来たり 車流れる 築地川
0 件のコメント:
コメントを投稿
最近、匿名さんからのコメントが多くなってきました。確認の設定をいたしましたので、ご協力よろしくお願いいたします。
「私はロボットではありません」にチエックを入れてください。
また、スマホでご覧の方は、「ウェブバージョンに表示」とすると、コメントを入力できるような仕組みになっています。by としちゃん