2023年2月28日火曜日

日本橋川を歩く 9 最終回 その3

日本橋川めぐりの続きです。

隅田川にかかる中央大橋を右折して、亀島川に入りました。この川は日本橋川の分流にあたります。


眼の前の隅田川を、観光船のようなものが横切りました。かっこいい形の船でした。


今回の日本橋川歩きのコースの中で、一番、見たかったのは、こちらの亀島川水門です。


近づいて、じっくりと眺めてきました。
この水門により、津波や高潮による水害を防いでいます。


亀島川水門のそばの歩道には、「江戸湊発祥跡の碑」がありました。
この亀島河岸は、江戸時代は物流の拠点でした。ここで日本全国から届いた物資を陸揚げしていたそうです。


黄金の碇でした。
キラキラしていてかっこよかったです。


この地域には、江戸時代には、米問屋、生鮮食品や生活雑貨を扱う商人や職人が居住していました。

少し歩くと、越前堀という石碑が建っていました。


そばには徳船稲荷神社。


この辺りは越前松平家の下屋敷があったそうです。それで越前堀というのですね。


小さな船が水に浮かんでいました。
周囲には高いビルが並んでいるのに、なんとなく下町情緒が感じられました。


その先は「南高橋(みなみたかばし)」です。


この橋は、なかなかかっこいい橋でした。鉄骨がおしゃれでした。


江戸時代や明治時代にはなかった橋で、大正12年の関東大震災後に新しくできた橋だそうです。100年以上も昔の橋です。


「高橋」
昔、背の高い船が通れるように、高い橋だったので、高橋を呼ばれたとか。


この橋の近くには、JRの八丁堀駅がありました。


向こうに見えるのは、茅場町駅の方面です。

水のある風景は良いですね。いつまでも眺めていたい気分になります。


「亀島橋」
親柱の上にあるランプがレトロでした。橋の名前のフォントもステキ。


この辺りは歴史的なものが多くありました。

芭蕉の句碑です。
「菊の花 咲くや石屋の 石の間」
元禄年間の句だそうです。

江戸時代にはこのあたりには石屋が多かったそうです。船で材料を運搬するには、川べりが都合良かったのかも知れません。そこに菊の花が咲いていた風景を詠んだのでしょうか。
うまいのかどうか、私には分かりませんが、芭蕉が50歳でなくなる前年の句だそうです。


東洲斎写楽や伊能忠敬の住まいも、こちらの近くにあったそうです。


「忠臣蔵」赤穂浪士の一人である堀部安兵衛の碑も、八丁堀にありました。剣術の達人である堀部安兵衛は、当時、水谷町と言われたこの近くに住んでいたそうです。


これは「純子稲荷神社」です。
純真な精神を子々孫々に伝え残すという神社だそうで、江戸時代に創建されたそうです。
文豪・谷崎潤一郎もこの近くに住んでいて、「幼年時代」という作品ではこの純子神社も登場しているそうです。


「新亀島橋」
初めて架けられたのは明治15年(1882年)、木製の橋でした。その後、関東大震災の復興事業により鉄の橋となり、幅も長さもぐんと広がったそうです。
平成7年(1995年)にはまた新しく建設されましたが、親柱というか、面白い形をしていました。これは「廻船」をイメージしているそうです。


さすがにお腹が空いたので、食事ができるところを探しましたが、日曜日のため、どこも満席でした。
仕方なくカフェでお昼にしました。プルコギパンだったかかな。意外と辛かったです。


一周して、茅場町の駅に戻りました。


今回は9つの橋を廻りました。


実は、一つ忘れた橋があるのです。それは「霊岸橋」
駅のすぐ近くにあるのですが、行きそびれました。

今度、リベンジしてきます。



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「一日一句」

水の町 橋を渡りて 江戸偲ぶ

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