2024年2月20日火曜日

稲城市郷土資料室へ

東京の多摩地区にある稲城市は、私が住んでいる市の、多摩川を挟んで対岸に位置しています。

稲城市を神奈川県にある市と間違える人もいるかもしれませんが、それもそのはず。稲城市はかつては神奈川県の一部だったのです。明治22年に神奈川県南多摩郡稲城村となり、その後、東京府南多摩郡稲城村になりました。

その後、昭和32年に東京都南多摩郡稲城町となり、稲城市となったのは昭和46年のことでした。私が子供の頃は、まだ稲城市はなかったのです。

このことを知ったのは、稲城市の「郷土資料室」の展示を見たからです。

この「資料室」は、「資料館」の間違いではありません。

実はここはかつては小学校だった廃校をそのまま利用した施設の中にあり、教室を利用しているところなのです。それで「室」というのでしょうね。

こちらの小学校の中にあります。

ここは稲城市の中でも、川崎市麻生区に近い場所です。「県境」というバス停も近くにあったほどです。

さて、まずは京王線の若葉台駅へ向かいました。

こちらのミニバス(iバス)に乗って行きました。


赤くて小さなミニバスでした。東京都のシルバーパスが利用できました。

だんだんと乗客が途中で下車して、私一人だけになってしまい、心細く思いましたが、ようやく目的のバス停に到着。

バス停からちょっと歩くと、「ふれんど平尾」の看板がありました。

「郷土市郷土資料室」はその施設の中にあります。

他にはシルバーセンターや、福祉作業所、さまざまな地域のサークル活動場所となっているところでした。

私は、稲城市北部にある大丸(おおまる)用水という水路に興味があり、用水関係の資料があるかと気楽な気分で出かけたのですが、その資料室はとても充実していて、担当の教育委員会の方たちのご苦労が見えるようでした。

資料室内部は撮影禁止ですが、その代わりに丁寧な資料が「文化財ノート」として、たくさん用意されていました。

稲城市の歴史の中で驚いたのは、奈良時代に瓦谷戸窯の場所があったこと、江戸時代には陶器「玉川焼」があったこと、第二次世界大戦時には「火工廠多摩火薬製造工場」があったこと等、知らないことばかりでした。

農業だけでなく、文化的な産業も発達していたのですね。

稲城市はニュータウンとして開発された町だとばかり思い込んでいましたが、こんなに長い歴史のあるところだったとは。

そしてその歴史をきちんとまとめて、保存している稲城市教育委員会生涯学習課は素晴らしい仕事をしていると思いました。

見学を終えて、またバスで若葉台の駅に戻りましたが、駅の周辺は現代的なマンションや商業施設が立ち並んでいました。

郷土資料室で見たかつての稲城市との落差に、愕然とさせられました。


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この日の装い。

先日の「第4回きものお譲り会」▼で、最後まで残ってしまった赤×黒の大島紬です。

かなり大柄で目立つ着物だと思いましたが、着てみるとそれほど派手ではありませんでした。昔の着物なので、寸法もジャスト・マイサイズでした。


帯は着物に負けないように、派手な絞りの羽織をリメイクしたものにしました。


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「一日一句」

学び舎が 温故知新の 世を開く


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