2017年9月30日土曜日

「源氏物語を原文で読む会」2017年9月

たまたま「源氏物語を原文で読む会」▼というグループがあるということをfacebookで知りました。

これまで源氏物語は何回も読んでいますが、それはあくまでも現代語訳。
原文で読むなんて、大学の教養課程で日本文学として選択した時以来、つまり半世紀ぶりということです。

それなのに、原文で読むというのに「参加ボタン」を押してしまったのは、生来のあまり物事を深く考えない性格ということと、やはり源氏物語の魅力の故でしょうか。
それにしても、日本文学専攻でもなかったのに、原文で読むのは無謀かなぁとも思ったのですが、着物友だちのKさんも参加するというので、気楽な気分で申し込んだのでした。

参加するためには源氏物語の原文のテキストが必要だというので、とりあえず図書館に出向きました。ところが置いてあったのは分厚い全集ものばかり。
さすがにこれでは持ち運びが不便だと思い、角川のソフィア文庫というのを見つけて購入しました。
これは原文の他に現代語訳や解説もついているし、値段も安く、文庫というだけあって、お手軽に持ち運びできるものでした。


さて文庫を手にして、自分で声を出して原文を読んでみたのですが、どこで区切ってよいのか分からない文章もあり、なかなか手ごわそうでした。
ストーリーを知っているから、なんとか分かりましたが、やはり難しい。
関が原方面の旅行中も、この文庫本を持参しましたが、新幹線やバスの中で読んでいると、すぐに眠くなってしまうのには参りました。

******

会合は、自由が丘にあるマンションの一室で開かれました。
お部屋では、主催者である女優の真木野透子さんが出迎えて下さいました。
真木野さんは、ひと言でいうと、源氏物語を心から愛していらっしゃる方でしょうか。

まずは、これまでの会合で読んでいた物語の最初からのおさらいがありました。
光源氏を取り巻く人間関係や、登場する女性たちとの関係を説明してくれました。

そして、この時は「賢木」という巻のお話。

主人公の光源氏はまだ23歳ということですが、今の年齢にしたら30歳くらいかしら。
(今の年齢の7割くらいとして計算してみました)
すでに左大臣の娘と結婚もしています。
それにもかかわらず、数多くの女性たちとの恋愛関係を楽しんでいる状況です。
帝の息子であるし、イケメンでかっこいい御曹司です。

今回のヒロインともいうべき女性は、年上の未亡人・六条御息所。
彼女は30歳、一人娘で伊勢の斎宮になる女の子は14歳という設定です。
今でいうと彼女は42歳くらい、娘はハタチくらいかしら。 
熟女の魅力のある女性です。

かつて東宮夫人であった御息所は、娘と一緒に伊勢について行くことにしました。
それを口実にして、年下の光源氏とは別れたかったのかもしれませんね。
彼のことを待っているだけの自分が辛かったのでしょうね。
でも逢えば名残惜しくて未練はあるのに、自分が振られるというのはイヤなのでしょう。
年上であり、教養もあり、プライドがある女性では、それは許せないのかもしれません。
当時の貴族の世界は狭い人間関係の世界でしょうから、けっこう噂になってしまっていて、彼女はなんとももどかしい思いなんでしょうね。

そんなお話が続く巻でした。


(文庫本のカバーは、キンゾウ商店のもの)

真木野さんは張りのあるお声で、原文をすらすらと読んでいきました。
さすが、女優さんですね。
そして分かりやすく説明してくれました。

自分一人で読んでいた時には、よく分からなかった場面も、情景が浮かんでくるようでした。

御息所の居るところ、光源氏の居るところなどの地理的説明もされたので、お話が具体的になってきました。

それにしても、源氏物語の文章というのは、主語が書かれていなかったり、書かれていても、しょっちゅう代名詞がコロコロと変わったりするので、これを的確に訳するのは難しいでしょうね。
これまで数多くの源氏物語研究者が研究しているように、どのように解釈するのが正しいか、という答えはないのかもしれません。

さて、まだまだ若い光源氏です。
これからもいろんな女性と知り合います。
その中では、私はちゃらんぽらんで明るい感じの朧月夜が好きですね。

また、私は、彼がもうちょっと年をとったころのお話が好きですね。
若い時は自分がお父さんの彼女とデキて、子供までなしてしまったのに、自分が壮年になってからは、反対に間男される立場になった頃のお話に、興味があります。
お父さんの苦悩が分かったのでしょうか。
ラブラブだった朧月夜にしても、最後は出家してしまって、光源氏を肩すかしをくらわしています。

著者の紫式部さんは、若い時にはモテモテだった男を、壮年になってからは女性たちから突き放されたような立場に追い込む物語にしたのは、紫式部もやるじゃん、と思ってしまいます。

当時はメールや電話はもちろんあるわけではないし、郵便もなく、お手紙(巻紙のようなものかな?)にサラサラと筆で歌を書いて、それを代理の人に渡して、相手の秘書というか女房というか、そういう取り次ぎに渡して、そして返事を待つ、というなんとも悠長な時代でしたよね。

そういう遥か千年も前のお話ですが、それを当時の人の言葉(原文)で読むことができ、また解説していただける、というのはまさに至福の時間ですね。

主催者の真木野さん、同席された皆さん、こういう機会を与えていただいたことに感謝します。

******

この日の装い。

9月下旬にしては、かなり暑い日でしたので、絽の着物にしました。
紫式部にちなんで、単純に紫色の着物を選びました。


帯はろっこやさんのレインフォレスト帯。
ウエストが細く見える「目くらまし効果」がある、という愛用の帯です。



2017年9月29日金曜日

2017年秋 関が原へ 4 ~三城巡り~

今回のツアーでは、3つのお城を見ることができました。

一つ目は浜松市にある浜松城。
こちらは今年の5月▼に出かけています。
その時は単独旅行でした。
「糸へんのまち」という着物のイベントが浜松にあったので、その時にお城も見てきました。
その時に写した浜松城です。

今回は新幹線で浜松駅まで到着して、その後、大型バスに乗り込んで、お城まで連れて行ってくれました。

家康君と直虎ちゃんがお出迎え。
この日は日曜日だったので、お城の入り口では子供向けのイベントが行われていて、とても賑やかでした。


浜松城は、徳川家康が若い頃に17年間ほど住んでいたので、「出世城」とも呼ばれています。
こんなポスターもありましたよ。


明治6年の廃城令によ り、浜松城はなくなりました。
その後、昭和25年(1950年)に、浜松城公園の一部となりました。

浜松城は、当時の「野面積み(のづらづみ)」という方法で作られた石垣が見事でした。
この大きな石は、浜名湖北岸にある舘山寺で伐り出され、浜松まで船で持ってきたのだそうです。


家康さんの像にお会いしたのも2度目でしたよ。
何回見ても、リアルでした。
足の爪、肌の穴まで見えて、びっくりするほどです。


5月に行った時は、ちゃんと見ることができなかった「鎧掛けの松」も今回はしっかりと見てきました。


ちなみにこれは家康が鎧を掛けた松と言われていますが、いくらなんでも400年前のものではなく、昭和に入って植え替えられた3代目の松だそうです。

******

2つ目のお城は、長浜市にある長浜城です。
長浜城には2011年12月▼に行って、天守閣まで登ったのですが、実はその時のことはあまり覚えていないのです。
その時に写した写真です。


豊公園(ほうこうえん)という公園の中にあり、琵琶湖を見下ろすところに立っています。
朝のお散歩の時間に、ホテルから歩いて行きました。


ブサイクな顔ですいません。


もとは1573年(天正元年)に、秀吉が初めて持ったお城で、信長の「長」をいただいて長浜城と呼ばれました。
右下に見えるのが、当時のお城の跡だそうです。


今のお城は、昭和58年(1983年)に再建されたもので、中は歴史博物館になっています。

******

3つ目のお城は彦根城でした。
彦根には2012年2月に行きました▼が、あまりの豪雪のため歩くこともままならず、駅前のホテルに泊まっただけで、諦めて帰京した幻のお城です。

その時の彦根駅の様子です。
雪に埋もれていました。


その彦根城を、今回は琵琶湖クルーズの船の上から眺めました。
遥か彼方に見えました。


といっても、遠くに見えただけなので、「見た」と言えるかどうか。
赤い丸で囲んだのが、彦根城です。


こちらは1622年(元和8年)に彦根に井伊直勝により築城されて、金亀城とも呼ばれています。国宝です。
明治維新になるまで、彦根藩主の井伊家の居城でした。
明治の廃城令にもかかわらず解体を免れました。

******

私はそれほどの城マニアではありませんが、それでもやはりお城を見ると、気持ちがきりっとしますね。

白い壁、大きな石垣、そして屋根の形、どれもワクワクさせられます。
お城は権力の象徴ではありますが、日本人にとっては、特別な存在なのかもしれません。




2017年9月28日木曜日

自由が丘 トレインチ

先日、自由が丘に出かけることがありました。
待ち合わせまで時間があったので、一人で少し町を歩いてみました。

私は長年、東京に住んでいるのに、自由が丘という町とはあまりご縁がありませんでしたので、ちょっと探検してみようと思ったのです。

Trainchi(トレインチ)自由が丘▼という小さな通りを見つけました。

ハロウィンが近いので、かぼちゃなどの野菜で飾りつけがしてありました。


木の塀と、アイビーなどの植物がうまく使われていて、ほっとできる場所でした。


ベンチも置かれていて、そこで休憩をしたり、アイスを食べたりもできるようになっていました。
たまたま老婦人がお二人でおしゃべりに興じていたので、写真は写せませんでしたが、なかなかよい雰囲気のところでした。


ここは自由が丘南口からすぐのところにありました。
車は通らないところなので、のんびりお散歩ができます。
飲食店や雑貨のお店などもあり、ショッピングも楽しめるようです。

待ち合せの後、軽井沢の有名なパン屋さん浅野屋▼でパンとコーヒーをいただきながら、お喋りをしてきました。

東横線の線路際にあるので、お店の中から電車が走っているのが見えました。

********

こちらはマリクレール通りの近くにある道路。


木陰でおしゃべりを楽しむ人が、たくさんいました。


こういうゆったりとした作りはいいですね。
「お洒落な町」と言われるゆえんが分かったような気持ちになりました。

私が住んでいるところも、新しい町になりつつありますが、どうなっていくのでしょう?




2017年9月27日水曜日

2017年秋 関が原へ 3 ~着物で登山~

今回のツアーですが、けっこうよく歩きました。
1日1万歩以上は歩いたでしょう。

中でも関が原では、笹尾山という小山に登りました。


ここは関ヶ原の合戦で、石田三成の陣地だったところです。
小山というか丘ですが、頂上まで登るとは知らなかったので、着物にカレンブロッソ草履で参加しました。

岩がごろごろしていたり、草が生えていたりする道でした。

頂上はこんな感じです。
10人ほどが立てるようになっていました。
下界を見下ろして、大将の気分になれるのです。


さすがに頂上に辿り着いたときは、ハーハーと息が切れました。


こちらは登山を終えて、平地に戻ったところです。
後ろに見えるのが笹尾山。


着物で大股でスタスタと登っていたので、ツアーの参加者は唖然としたかもしれませんね。

これまでも何回か、着物でハイキング程度のことはしてきました。

去年、八ヶ岳の「美しの森」▼というところにも、着物で参加しました。
それほど急な坂道ではありませんでしたが、かなり長い距離を歩いた記憶があります。


着物でよく歩いたのは、市民カレッジで「富士塚」の学習をしていた時かもしれません。
これは多摩地区にある富士山信仰の山に、現地まで出向いて学ぶというものでした。

一番大変だったのは、府中市にある富士山をかたどった浅間山▼に行った時。
登るのはそれほどでもありませんでしたが、草が生い茂っていて、草履をダメにしてしまいました。
他の参加者からは、「大丈夫ですか」と驚かれました。

その時の着物姿です。


他にもかなり乱暴な着方をしています。

着物は、冠婚葬祭の時、あるいはパーティの時などしか着ない、という方から見れば、私などほんとうにひどい着方をしていると思われるでしょう。

私の場合、外反母趾で、普通の靴は歩きづらいので、着物にしているだけなのです。


2017年9月26日火曜日

2017年秋 関が原へ 2 ~気温は同じでも~

一昨日のブログ▼に書いたように、関ケ原などに出かけるツアーに参加して、戻ってきました。

(石田三成の陣地・笹尾山の頂上にて)

一つ一つの場所のついての感想はまたにしますが、旅行を通して感じた事を一つだけ挙げると言えば、同じ気温でも、体感温度は東京で感じるのとは、まるで違うのではないか、ということでした。

出かける前にはインターネットで、また現地ではテレビの天気予報で気温を確認しました。
旅先は、28度とか30度とかいう予報が出ていました。
えー、あまりの高温予想にがっくりしました。

東京に住んでいると、そのような気温だと、とても蒸し暑くて、ぐったりしてしまうような気温です。

ところが関が原でも、琵琶湖でも、比叡山延暦寺でも、同じような気温でしたが、暑さはまるで感じませんでした。
くっきりとした青空が広がり、太陽ががんがんと照りつけていましたが、普通にしていれば暑いとは思いませんでした。
まして木陰などにいると、涼感を感じたほどです。

(琵琶湖クルーズの船上から)

これが本来の28度という暑さなのでしょうね。
人が多く住んで、マンションやビルが立ち並ぶ東京の方が異常なのかもしれません。
東京だけが標準ではない、ということを実感として思い知らされた旅行でした。

(比叡山延暦寺 西塔)

気温は高かったけれど、想像以上に爽やかに過ごせた、というのが実感です。

旅行記は少しずつ、まとめていく予定です。

(この項、続きます)





2017年9月24日日曜日

2017年秋 関が原へ 1

先日、映画「関ケ原」を見た▼から、というわけでもありませんが、関が原方面に出かけてきます。

今回は単独旅行ではなく、ツアーです。
映画の「関ケ原」▼とタイアップしているせいか、とてもお得なツアーです。
私はツアーは苦手なのですが、このコースなら一人で行くよりもずっと格安なので、参加することにしました。


ルートは、関が原に行く前に、かつては徳川家康も住んでいたという浜松城に寄ります。
浜松城は、今年の春にも出かけている▼ので、2回目の訪問となります。

関ヶ原を見学して、その後、長浜に泊まります。
長浜は2011年11月に出かけました▼が、大好きな町です。
当時は京都に住んでいたさとさんとも会えたし、翌日は洋服に着替えて、一人で町中をサイクリングもしました。
今回は長浜城が近くに見えるホテルに泊まる予定です。

翌日は彦根から琵琶湖のクルーズ。
これが一番の楽しみです。
彦根城も見えるそうです。
ここは2012年に行ったのに、大雪のために行けずに諦めてしまった▼という幻のお城なので、今度はしっかりと見てきたいですね。

そして琵琶湖大橋を渡って、今度は比叡山延暦寺へ。
ここは一度は行ってみたかったところなのです。

というのが主なルートです。

それでは、ちょっと出かけてきます。

2017年9月23日土曜日

5歳孫の初めての単独お泊り3泊

先週のことになってしまいましたが、孫が初めて一人で、我が家にお泊まりをしました。

最初の日は、私が娘のところまで出かけて、うちまで連れて帰りました。
途中、新宿のビックロ(ビックカメラとユニクロを合わせたお店)のおもちゃ売り場によって、大好きなレゴを選ばせました。


あまりにたくさん種類がありすぎました。
おまけに自分の年齢(5歳)にちょうどよい商品が見つからず、迷った挙句、7歳~14歳向け、というちょっと高度なレゴにしました。

レゴと言っても私が知っているようなものではなく、NINJYAGO▼という新しいもの。
私にはよく分かりませんが、忍者が悪者をやっつける物語があるようです。

わき目も振らずに取り組んでいました。


自分一人で解説書を見て、なんとか組み立てていました。


その後は、地元のパルコに出かけて、本屋さんに行きました。
孫は「おしりたんてい」▼というシリーズものの絵本が好きなようで、本屋さんでも座り込んでずっと読みふけっていました。


久しぶりに、絵本の読み聞かせをしました。

娘は「あの子は一人では眠れない」と言っていましたが、親の心配をよそに一人で寝ましたよ。

******

翌日は近所の公園で遊んでから、「京王レールランド」▼というところへ。


これは京王電鉄が運営している子供向けの遊園地のようなところです。
入場料は250円と安いのですが、小さな子供から電車おたくの大人まで楽しめるところでした。


この運転手さんごっこは面白そうで、私もやってみたかったですね。


この日はママと妹も途中で落ち合って、一緒に遊び、2泊目となりました。

翌日はママたちと一緒に、自分の家に帰るのかと思ったら、自分だけはもう1泊するとのこと。
そして今度はおじいさんと一緒に羽田空港まで行き、デルタ空港の飛行機のプラモデルをおもちゃに買ってもらいました。
デルタにこだわったのは、去年、グアムの結婚式に行った時に乗った飛行機だったそうで、よく覚えているものですね。

ということで初めてのお泊りは3泊となりました。
いちおうなんでも一人でできるようになったのは、孫の両親や、保育園の先生のおかげでしょうね。

帰りの日。
何か虫を捕まえて遊んでいるところです。


この子も来年は小学生。
時の経つのは、早いものですね。


2017年9月22日金曜日

脳の世紀シンポジウム2 「脳を知る」

「第25回 脳の世紀シンポジウム」のレポート2回目です。


さて、染色家でもあり、染織の歴史に詳しい吉岡先生のお話▼を聞いた後は、専門家の話になりました。

まずは、大阪大学大学院生命機能研究科教授の藤田一郎先生の登場でした。
タイトルは「色ときらめきにあふれる3D世界と私たちの脳」

ところが、私はこのところ物忘れの度合いがひどくて、一週間前に聞いたシンポジウムの内容も、もろくも忘れ去ろうとしています。

それでも、講師の先生のシャツの色が、ベージュ色で、焦げ茶色の幾何学模様だったということは、まだしっかりと脳裏に焼き付いています。

それくらい「色」というのは、インパクトがある事柄なのでしょうね。

以前、やはり脳科学の話を聞いたとき、
【「赤い」色の「車」が「走っている」】
という事実を目の前にした時、ほとんどの人は、まず「赤」という色を思い出して、その次に「そうか、あれは車だったね」という事柄を思い、最後に「走る」という動作を思い浮かべる、という話がありました。

私が藤田先生のシャツの色だけは忘れずにいた、というのも当然のことかと、無理やり自分をごまかしています。

********

藤田先生のお話は広範囲に渡り、面白い内容でした。
しかし専門的な用語も多く、スピードが早くて、ゆっくりと考えていると次の話になってしまい、理解できたかどうかは自信がありません。
その中で、一番インパクトのあったことは、こういうことでした。

それは「モノには本来は色はない」ということ。

でも世の中には赤やら黄色やら緑、ピンク、などいろいろな色が氾濫していますね。
それは、
◆光と
◆見るということを処理する脳と
◆分光反射率の違い
があるからこそ、いろいろな色に見える、ということでした。

何となく哲学的ですね。
でも真っ暗闇のところでは色は見えない、ということは体験的に分かるので、色には光が必要なのですね。

そして人間の眼は、なんと数万色は識別できるのだそうです。

「色の不思議」ということについても、いろいろと例を挙げて説明されました。

たとえば色には色の明るさという特性がありますが、これが明るい場合と、暗い場合では印象が異なり、たとえば同じ人間の顔写真を見ても、色黒だと男性のように見え、色白だと女性のように見える、ということです。

またfacebookなどでもよく見かけた事例ですが、同じ色のドレスを着ていても、周りの色によってブルーに見えたり、銀色に見えたりすることがありましたね。

それと「金色の不思議」ということも紹介されました。
金色というのは、部分的に見ると、単に黄色だったり茶色だったりするのですが、全体として見ると金色に見える。
そして、てかっているような感じがあると、それだけでゴージャスに見えたり、ぬるっとした感覚も沸いてきます。
金色の持つ光沢感、というのは私たちがアクセサリーを選ぶときにも重視することですね。ただの、のっぺりとした金色では高価なものに見えませんね。

******

藤田先生は動物学から研究を始めたそうで、人間以外の動物の視覚についても詳しい説明がありました。
動物の種類により色の見え方が違うというのはよく耳にしますが、「ミツバチ」は特殊で、人間よりも紫外線の外の色まで見えるそうです。
(それでミツバチは、花のミツのありかが分かるのかもしれません→私の感想)
つまり動物が見える世界と人間が見える世界は違うのですね。

脳の話では、サルの脳のことも取り上げていましたが、サルの大脳を切り開いて、平らにすると、そのうちの半分くらいは視覚に関係する部分になるそうです。

また人間の脳の細胞のうち、どの色に反応する細胞かは決まっているそうですが、「赤」に関係する細胞が多いということだそうで、それは吉岡先生のお話にも通じることでした。
「赤」という色が目立ちやすいのは、細胞レベルでの違いなのですね。

脳というのは、かなりベトベトとした物質でできているものだそうですが、脳のどの部分で色が分かるとか、言語が分かるとかなどは現在では細かく研究が進んでいるそうです。

*******

藤田先生のお話はいろいろあったので、以上は、私が気になったことだけをまとめてみました。
なかなかうまくまとめられませんでした。

以下は、私の感想です。

「赤」い色を見るとメラメラと燃える火を思い出したり、「青」い色を見ると爽やかな気持ちになったりするのか、ということはみな同じではないとは思います。
たまたま同じような環境に長く生きているという積み重ねがあってこそ、そういう感情は共有できるのでしょうね。
人種や歴史によって異なるのは、どちらが良くて、どちらが悪いということではないと思います。
双子が違った環境で育ったときのその後の研究、というのがありますが、時代や環境に寄っての違いはどうなのか、気になりました。

色の話とは直接関係がないかもしれませんが、色から受け取る感覚は先天的なものと、後天的なものがあるということがある程度分かると、たとえば人種による差別なども少なくなるのでは、と思いました。
日本人だけが優れているとか、他の人種は劣ってるということは、簡単に口にすべきことではないでしょう。

また、「光と眼と脳がないと色が見えない」というのは、たとえば生まれつき盲目の人には、色は存在しないのか、という疑問が湧きました。

********

吉岡先生のお話と、脳科学の第一線の研究者の話を一度に聞けたのは、ラッキーでした。

ただし、シンポジウムは平日の昼間に行われましたが、会場には専門家のようなレベルの方から、定年退職者のようなおじいさんたち、学生など8割くらいが男性でした。

色の話は、本来はファッションとか、子育てにも関連すると思うので、女性向きでもあるとも思います。
女性向けの企画を立てるのは、なかなか難しいのでしょうか。

研究に性別は関係ないと思いますが、男の人が面白いと思うことと、女性が面白いと感じることは違うのと思います。
「脳研究」というと堅苦しい感じがしますが、女性研究者にも頑張ってもらい、身近な研究をしてもらえると、いいですね。



2017年9月21日木曜日

これは なあに?

これは何でしょう?
一見すると、朱肉のように見えますね。


実は「擽紅」▼といって、化粧品なのです。

紅なので、指にとって口紅として使用することができます。

それ以外には頬に塗って頬紅にしたり、瞼に塗ってアイシャドーにすることもできるそうです。
ただし、そのまま塗ると赤くなってしまうので、適当に手持ちのパウダーやアイシャドーと混ぜて使うと良いそうですよ。

ほんのりと目元が赤いのも、舞妓さんのようで可愛らしいかも。

こちらは歌舞伎役者の市川染五郎さんと、歌舞伎座の地下の木挽町広場にあるお店「蘭蝶」▼が、共同で開発されたものなのだとか。


歌舞伎の舞台から生まれた化粧品だそうです。

私もちょっと試してみましたが、少量でも伸びがよく、ちょっと楽しくなるものでした。





2017年9月20日水曜日

桐生織や桐生絞って?

先日、群馬県の伝統工芸士さんのお話を聴く機会がありました。
お話のタイトルは「桐生の歴史と絞り こぼれ話」でした。
桐生といえば、社会科の時間でも「織物産業で有名」ということは習っていましたが、さて、実際には織物産業といってもどんなものが有名なのか、私には具体的なイメージが沸いてきませんでした。
そのような疑問を持ちつつ、「桐生織」や「桐生絞」のお話が聞ける、というので好奇心で参加してみました。


講師は、桐生の「泉織物」▼社長で伝統工芸士の泉太郎さん▼でした。
泉織物はひいおじいさまが創業されたそうで、4代目ということでした。

泉さんによれば、桐生の織物の歴史は古く、1300年ほど前の奈良時代からあったそうです。
かつて上野国は、朝廷に初めて絹織物を献上したとか。
時代は飛びますが、新田義貞や徳川家康の時代には陣旗として絹織物が使われたそうです。
その後、江戸時代になるとこの地域は幕府の天領となり、豪商たちが自由なモノづくりをできる環境となり、特に何かに特化したものではなく、養蚕産業が盛んな地の利を生かして、高級な美術織物も作っていたそうです。
近代になると、桐生の織物産業はますます広範囲に発展して、洋服の生地をはじめ、着物、帯、海外向けの製品、制服、家具の生地など、あらゆる分野での織物産業が盛んになったそうです。
ということで、桐生織物の特徴というのは、「特徴がないのが特徴」ということでした。
なるほど、それで桐生の織物のイメージが沸かなかったわけですね。

ただし、現在では洋服関係の織物産業が多く、着物の着尺を生産するところは、こちらの泉織物1軒となってしまったそうです。
時代の流れでしょうか。

桐生織の歴史のレクチャーが終わった後は、実物を拝見させていただきました。

こちらは桐生絞りの、絞ってある時の状態です。


生地は絹、絞ってある糸は木綿なので、染料で染めても、糸で絞ったところだけは染まりません。
細長いゴムのようなものから、ヒトデのようなもの、イガイガのものなど、これが布地だとは思えないような形のものばかりでした。
手前にあるヒトデのような形の部分を開くと、こんなきれいな絞り模様が現れました。


下の写真は、その桐生絞りを帯にしたものです。
とても可愛らしかったです。
色違いの焦げ茶や抹茶色もあり、締めたら素敵だろうなと思えるものばかりでした。


泉さんの着物づくりの方針は、現代の女性が冠婚葬祭の時だけに着用する着物ではなく、普段のちょっとオシャレな場面に着て歩けるような着物を創作することだそうです。
周りの洋服の人にも溶け込んで、それでいて美しい着物を作り出したいということでした。

こちらの右側にあるピンク色の着物は光沢があり、とても素敵でしたよ。
細かい説明は忘れましたが、かなり手の込んだ技法のものでした。
どれもとても軽くて、触り心地のよいものばかりでした。


桐生織や桐生絞の実物を見たり、触らせたりしていただき、楽しめました。
泉さんはお話もお上手で、なんとなくコロッケさんに似ていて、明るい方でしたよ。

他にもたくさん美しい織物を拝見させていただきましたが、今回は目の保養だけ。
チラリと値札を見ましたが、おいそれと簡単に手が出るものではありませんでした。
「現代の女性に気楽に着てもらいたい」とのことですが、値段を見ると、私のような年金生活者では、とても気楽には買えないだろうなと思い、残念でした。

今回の桐生織物のトークと展示販売は、日比谷にある「都粋」▼さんと、日本橋の問屋さんの企画によるものでした。
こちらの問屋さんは、普段は一般には解放していないそうで、初めて入らせていただきました。
お世話になりました。

******

この日の装い。

8月に、清澄庭園の展示会で気に入ったピンクの大島紬▼が仕立てあがったので、着てみました。


ピンクの部分と、クリーム色の部分の柄合わせを細かくお願いしたので、衿のあたり、いい感じに仕上がりました。
春先にもよいかもしれません。

帯は明るい色にしようかと思いましたが、今回はちょっと渋めに焦げ茶の帯にしました。

着物も、帯も「ゆめこもん」さんにお世話になったものです。

今回は、いつもの千円着物ではなくて、ちょっと値の張るものでしたよ。








2017年9月19日火曜日

脳の世紀シンポジウム1「日本の色を鑑る」

先日、第25回「脳の世紀シンポジウム▼に出かけました。


去年は、「食と脳」というテーマ▼でしたが、今回のテーマは「色と脳」でした。

今回は午前中しか参加することができませんでしたが、聞いた講義だけ、ちょっとまとめてみます。

ちなみに参加できなかった午後の部は、以下の講演がありました。

脳を守る 「失われた空間」 石合純夫先生(札幌医大教授)
 
脳を育む 「iPS細胞による網膜再生医療」高橋政代先生(理研)
 
脳を創る 「人間と機械の質感認識」西田眞也先生(NTT科学基礎研究所)

*******

最初は特別講演で、京都で江戸時代から続く染屋「染司よしおか」五代目当主・吉岡幸雄さんのお話でした。

(吉岡さんは著名な方なので、もっとよくご存じの方が多いと思いますが、直接お話を聞いた者として、少しだけまとめてみましたので、ご了承下さい。)

吉岡さんは大学卒業後は美術出版のお仕事をされていましたが、その後、生家である染物屋を継ぎました。
日本伝統の天然素材を使った染色と、そして染色の歴史に深い知識と見識をお持ちで、著書もたくさん出されている方です。

そのような講演があるので、会場のロビーには、染色された美しい絹糸が展示されていました。


吉岡さんは最初に、ご自身は「色」の専門家ではなく、「彩」の専門家である、と言って笑わせました。
「色」というと、本来は男女の道を指すのですが、「彩」は木や草や花のもつ色を表す、ということでした。

吉岡さんはその植物染めをされています。
いろいろな植物から染められた絹糸は、見事な光沢で、ほんとうに美しい色でした。
写真の真ん中の列には、その材料となる植物が置かれていましたが、このような木や葉から、色がつくことを見つけたのは、大昔の人の知恵ですね。


染の起源は、大昔、類人猿がサルに進化したころ、顔に赤いものを塗っていた、という証拠があるということでした。
それは化粧して美しくなるため、というよりも威嚇のために赤く塗られていたそうですが、原始時代から「赤」は特別な色とされていたそうです。

またエジプトでも、紅花を使った口紅を使っていたという歴史があったそうです。

日本では、縄文時代から土器に赤い色を使っていたことも分かっているそうです。
その後、古墳時代になると、死者を再生させたいという希望のために、古墳の内側に赤い色を塗ることもありました。

吉岡さんによると、「赤」はすべての色の原点ではないかということでした。
それは太陽が地平線から上がる瞬間の色であり、「アガル」が「アカ」になったのでは、というお話もありました。
また血の色である赤は、人間の脳を刺激する色ではないか、というお話でした。

(蘇芳の赤)

(日本茜の赤)

その後は、たくさんのスライドを見せていただきながら、色についてのお話が進みました。
まず最初は縄文式土器を見せていただきました。
これには赤と黒が塗られていましたが、赤は鉄のさびから、黒は焚火の墨を利用していたそうです。

弥生時代の土器は、はにわの眼のあたりが、赤く塗られていたそうです。
卑弥呼の時代には、朱と丹の赤が使用されていた、と「魏志倭人伝」に書かれているのだとか。

飛鳥時代にはさまざまな色が藤樹しますが、正倉院には数多くの茜色のものが保存されているそうです。

(紫根の紫)

その後、平安時代、鎌倉時代、戦国時代にも、人々の衣装には「赤」が使われてきました。
上杉謙信、家康の衣装なども、男性のものとは思えないほど、美しいものでした。

(蓼藍の青)

吉岡さんは、日本の色というと、「わび」とか「さび」のようにくすんだ色を想像されることがあるが、本来の日本の色はもっと鮮やかな色だった、と指摘されました。

(刈安の黄色)

昔のものを修復する際に、化学染料で修復すると、それは発色がよくて美しい色になります、それ以前に植物で染めた色の方が退色がなくて、持ちがよいそうです。

吉岡さんのお話は、染色の歴史がよく分かり、興味深いものでした。
「源氏物語千年紀展」▼の時も、源氏物語の色を再現されました。
私もそのイベントには足を運びましたので、どこかで吉岡さんの展示を拝見させていただいたことだと思います。

その後、図書館で吉岡さんの著書を借りて読んでいます。
その中で、紙についても書かれていますが、たとえば和紙に書かれた文字は千年ももつのに、今の印刷物はいつまで持つのだろう、ということもありました。
便利になって大量生産できることと、不便でも長持ちすること、それは私たちが選択しなければならないのかもしれませんね。

吉岡さんは訥々とした表情でお話されて、ちょっと頑固職人気質という感じの方でした。
ご自身で染められたと思われる藍のシャツを着ていらっしゃいました。
今の若い世代には、言いたいことをたくさんお持ちのようにお見受けしました。

会場には、脳科学とはちょっと無縁のような、吉岡ファンの着物姿の方もいらっしゃり、目の保養をさせていただきました。
私は着物で参加できずに残念でした。


(次の講演の藤田一郎先生のお話は、また別にアップします)