2020年3月22日日曜日

荻窪散策 2.荻外荘(てきがいそう)

子供の頃、「てきがいそう」という単語を時々聞いたことがありました。
でも、「てきがいそう」がどんなところで、どこにあるのかは、はっきりとは知りませんでした。
ただなんとなく高貴なところで、子供が行ってはいけないような雰囲気の場所だと思っていました。

それを確かめるため、荻窪散策に行ってみました。

荻外荘は、私の実家があったところ▼から、バス通りと呼んでいた広い道路(今は環状8号線になっています)を渡り、坂道を下ったところにあります。
学生時代は、この近くにあった図書館に行くため、自転車で通っていた道です。
その道は、今では「荻外荘通り」と呼ばれるようになっていました。


さて、「荻外荘」とは、昭和の戦前期に総理大臣を3度務めた近衞文麿の別邸のことです。

元々は昭和2年に建てられた、大正天皇の侍医だった人の家だったそうですが、昭和12年に近衛文麿が住むようになった場所だそうです。
「荻外荘」という難しい名前は、西園寺公望が名付けたそうです。

「国史跡」という碑が立っていました。
そんなに重要なところだったのですね。


この別荘の持ち主だった近衛文麿という人は、名前からも分かるように華族の生まれで、総理大臣をしていました。

彼の歩んだ道をたどると、戦争と共にあったようです。
第1回目の総理大臣就任直後には、盧溝橋事件が起こり、そして日中戦争に突入しました。
疲労が重なった近衛文麿は、その疲れをいやすために、たびたびこの荻外荘を訪れて静養をしたそうです。
一度は総理大臣を辞めましたが、その後、また総理大臣になりました。
そしてこの荻外荘において、政策を練り、重要な会議をたびたび開催したそうです。
その会議は「荻窪会議」と呼ばれたそうです。
その後、彼は太平洋戦争を回避する努力をしましたが、結局、東条英機が登場して戦争に突入してしまいました。
軍隊に利用されてしまったのでしょうか。
そして彼は、戦後の1945年12月に、巣鴨での裁判で戦犯として裁かれるのを恐れ、自殺してしまいました。
すさまじい人生だったのでしょうね。

この場所が、戦争の暗い歴史の残る建物だったとは知りませんでした。
そういうこともあって、私も子ども心に何となくここは怖いところだと思っていたのでしょうか。

肝心の建物を写すのを忘れてしまったので、写真は杉並区のホームページよりお借りしました。
後の方に写っているのが、別荘としていた建物です。


建物の方は非公開で、復元を計画中ですが、現在は手前の芝生のところが公園として開放されていました。


小さな子供連れがのんびりと遊んでいました。


今の時代の人間は、ほとんど戦争の影響を感じないで生活していますが、身近なところに戦争の面影が残っていたことには驚きました。

(この項、続きます)


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