2023年1月3日火曜日

【次太夫堀・六郷用水 2】 二ヶ領用水3 師走のわくわく体験記 3

年を越してしまいましたが、「師走のわくわく体験記」もようやく本題の二ヶ領用水に到達しました。

この用水は多摩川地区にある最古の農業用水だと言われています。


そもそもニケ領という奇妙な名称ですが、これは稲毛領と川崎領のふたつの領地にまたがっているので、そのような名前がついているそうです。

この用水は、現在の川崎市多摩区から川崎区までの農地を潤していたのでした。

水鳥や鯉が気持ちよさそうに泳いでいました。


多摩川は、大昔から大雨が降るたびに、洪水や氾濫を繰り返していました。

そこで徳川家康の命令により、多摩川流域の灌漑治水工事をすることになったのが、小泉次大夫さんです。

ちなみに家康は1543年生まれ、73歳で1616年死亡ですが、次太夫さんは1539年生まれ、85歳で1624年死亡です。当時としてはすごい長生きなのですね。

その次太夫さんは60歳のとき、家康から工事を命じられました。そして用水が完成したのは12年後の72歳になっていたというのも、すごいものだと思います。

ちなみに、世田谷区の野川沿いに次大夫堀公園という子供向けの自然公園があるのですが、ここもやはりこの小泉次太夫さんが関係しています。

そちらのサイトによると、世田谷の用水は「六郷用水」と言われて、世田谷領(世田谷区、狛江市)と六郷領(大田区)を流れる23.2キロの用水であるとのことです。江戸時代に開発されて、その後、昭和に至るまで使われていましたが、昭和55年に公園となりました。

いずれにせよ、次太夫さんという方はすごいお奉行様だったのですね。

こちらは川崎市教育委員会の掲示板です。

話は川崎の二ヶ領用水に戻りますが、次太夫が用水を完成させた約100年後に、川除(かわよけ)御普請御用の田中休愚(きゅうぐ)という人が、大規模改修工事を行ったそうです。その結果、江戸時代中期から後期にかけては新田灌漑が広がりました。

この二人(次太夫と休愚)を顕彰する「泉田二君功徳碑」というのがあるそうですが、気づきませんでした。

その後歴史は流れ、二ヶ領用水は農業用水、そして工業用水として役割を果たし、現在は市民のいこいの場となっています。

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私は二ヶ領用水にそのような歴史があるとは知らず、単純に次太夫さんのお顔がある台和橋を目指して歩いていました。(実は2021年に三沢川あたりを歩いた時のブログに次太夫さんのことを書いていましたが、すっかり忘れていました!)

台和橋までの道のりです。

このあたりはいくつか橋がかかっていましたが、名前が付いていませんでした。なんだか勿体ないですね。

中野島中学付近の名無し橋です。たしか3つ架かっていたと思います。


右手が中学、左は普通の住宅でした。


橋専門の地図で確認したところ、中野島一号橋、二号橋、三号橋、と書かれていました。


川のそばには数々の桜の木がありました。春に訪れたらきっと美しいところだと思いました。

こちらは新川橋。


さくらの模様が可愛い。


橋本橋(右から読んでも左から読んでも橋本橋)


このあたりには、丁寧に説明された掲示板がありました。

距離も書かれているので、歩く励みになります。


川の流れるすぐ近くを歩いたり、


上の道を歩いたり、下の草むらを歩いたり、

楽しい気分でした。

防寒対策ばっちりで歩きました。


一本圦(いり)橋。


川のすぐそばは、歩いていても意外と寒くありませんでした。

紺屋橋。


紺屋というと昔は染物屋さんのことでしたが、このあたりには染物屋さんがあったのでしょうか。

Cさんが紺屋橋堰の記念碑を見つけてくれました。


道の右側は用水の跡でしょうか。

少し歩くと、藤棚のある公園がありました。

この大きな木はスズカケだそうです。

ようやく台和橋に到着しました。


全体はこんな様子です。


次太夫さんのお顔もしっかりと眺めてきました。
「川崎の育ての親」と書かれていました。


橋を横から見たところ。美しいですね。


この台和橋のところで、二ヶ領用水は山下川と合流します。

この続きはまたのブログで。

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「一日一句」

年の瀬に 次代夫さんの 顔拝む


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