4月の美濃国旅行の続きです。
五六川閘門を見学▼した後は、川崎平右衛門さんの供養塔がある興禅寺に行く予定でしたが、とにかくバスの便が悪くて、待ち時間を計算したら歩く方が早いと言うことになりました。
それで五六川をテクテクと北に向かって歩きました。
「五六ふれあい橋」です。
そして国道を渡り、JR東海道線の下をくぐり、そこから西の方へ向かいました。
実は鉄道の下をくぐるのがちょっと不安だったのですが、ちょうど電気工事をしているお兄さんに尋ねたら、とても親切に教えてくれました。スマホの地図アプリで調べてくれて、「こちらのルートの方が安全で分かりやすいですよ」と教えてくれました。本当に助かりました。
こちらは途中、トイレ休憩をしたコンビニ。
「穂積牛牧店」とありますね。「ほずみうしき」と読みます。難しい!
今度は犀川(さいがわ)という川に沿って歩きました。
それからかなり歩きました。
住宅街に入り、玄関先で掃除をしている老夫婦に「興禅寺というお寺をさがしているのですが」と話しかけると、「あー、平右衛門さんのお寺ね」と気軽に答えてくれました。そして「あそこのお寺はご住職が亡くなって、その跡継ぎをどうするか・・・」と世間話になりました。
平右衛門さんと言う人は、260年ほど前に亡くなった人ですが、そんな昔の人でも、この土地では親しまれているのだろうと感じました。
五六川閘門から興禅寺への足取りはこんなルートでした。右の太い川は長良川、左は揖斐川です。その間にいくつもの川が流れている地域でした。
このあたりは「輪中」といって、川に囲まれている地域です。そのため水害がとても多いところでした。また幕府料や大名領、旗本領などが複雑に入り込んでいる地域で、そのため利害関係が対立して、対策がうまく行かなかったところでした。
そこに武蔵野新田で活躍した川崎平右衛門さんに白羽の矢が立ち、この地に派遣されてきた、というようです。
そして平右衛門さんは11年という月日をかけて、この地の人々を納得させて、五六閘門を完成させたということです。
平右衛門さんは、玉川上水の普請工事や、1742年の関東地方の大水害(寛保洪水)に対しても活躍したので、それで美濃国の水難対策にやってきたと言われています。
敷地内には、平右衛門さんの立派な供養塔が建っていました。
平右衛門さんが亡くなった時、この地の人はなんと府中の押立村まで行き、そしてそこで平右衛門さん愛用の太刀を受け取り、その刀も一緒に収められているということです。
墓が3つ並んでいるのは、二人の手代も一緒でした。神保佐兵衛という人と内海平十郎という人たちだそうです。
興禅寺でお墓参りをした後は、近くの防災センター前からバスで戻ろうと思いましたが、時間帯が悪くてバスはまるで来ません。それでタクシーで戻ることにしました。
すると、この日の朝、穂積駅のタクシー乗り場で話を聞いた運転手さんの車が、やってきたのでした。すごい偶然でしたね。
タクシーの中から、東の方に見える気になる三角形の山の名前を聞いたところ、金華山とのこと。「あのてっぺんには岐阜城があるんですよ」と教えてくれました。岐阜市民には誇りにしているように思えました。
その後、穂積駅近くにある市役所と、新しいホールのあるところも散策してみました。
こちらはちょっと古色蒼然とした市役所。
こちらは新しい施設。「ココロかさなるCNNセンター」
名前の由来は不明ですが、大ホールなどもあり、かなり立派な建物でした。
この瑞穂市というところは、二つの町が合併の結果できた市なので、合併補助金のような支援があって、このような施設ができたのではないかと思いました。
こちらは東海道線の車中から、長良川を渡っているところ。
川幅が広くて、恐ろしい感じにも思えました。
早めに帰京したため、雷雨に遭わずに済みました。
この日は、なんだかんだで18,000歩ほど歩いていたようでした。
0 件のコメント:
コメントを投稿
最近、匿名さんからのコメントが多くなってきました。確認の設定をいたしましたので、ご協力よろしくお願いいたします。
「私はロボットではありません」にチエックを入れてください。
また、スマホでご覧の方は、「ウェブバージョンに表示」とすると、コメントを入力できるような仕組みになっています。by としちゃん