さて、豪徳寺にお参り▼して、招き猫を見て▼、焼き芋を食べた▼後は、世田谷マダムKさんの案内で、住宅街をのんびりと歩きました。
さすがに高級住宅街、素敵なおうちが多かったですね。
城山小学校の隣に流れる烏山川です。
緑道が良い感じでした。
少し歩くと、世田谷区役所が見えました。
かなり老朽化した建物でした。
その正面には真新しい建物がドーンと立っていましたが、それは国士舘大学でした。
最近はスポーツで、かなり名前を挙げていますね。
こちらは桂太郎のお墓でした。
桂太郎は長州生まれの軍人で、陸軍をドイツ式に改革して、軍拡を推進した政治家で、日清・日露戦争を指揮しています。
そして3回も内閣総理大臣となった人です。
吉田松陰に心酔していて、
「死んだら松陰の隣に埋めてほしい」という遺言を残したそうで、そのとおり、松陰神社の近くに埋葬されています。
少し歩くと、松陰神社▼に到着しました。
吉田松陰は「安政の大獄」で安政6年(1859年)に亡くなりましたが、小塚原回向院下屋敷常行庵に埋葬されました。
その4年後の文久3年、松陰の門下生であった高杉晋作、伊藤博文などによって、世田谷若林の地に改葬されました。
この地は江戸時代から長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸のあったところでした。
その後、明治15年になり、門下の人々が相談をして、松陰の御霊を祀るために、近くに神社を作ったのでした。
現在の社殿は、昭和2年に作られたものだそうです。
「安政の大獄」の主導者である井伊直弼の墓と、それによって獄中死した吉田松陰の墓が、1キロくらいしか離れていないところにあるのは、なんだか皮肉な感じでした。
こちらは神社の中に設置されている松下村塾です。
本物は萩にあり、こちらは模造ですが。
高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、久坂玄瑞、木戸孝允など明治維新の立役者が学んでいた学習塾です。
ただし、吉田松陰が教えていたのは、2年半ほどだったということです。
松陰の銅像は二つありました。
こちらはなんとなく子供っぽい顔つきでした。
こちらはちょっと大人っぽくて、重々しい感じでした。
でも30歳で亡くなったので、若々しい像の方が本当かもしれません。
私は松陰の人生についてはあまり知らないのですが、案内をしていただいたKさんによると、「彼は花咲じじい」のような存在の人だったということでした。
つまり松陰自身は大きな改革などはしませんでしたが、彼が撒いた種がその後開花して、明治維新に繋がったということです。
なるほどね、松陰は30歳という若さで亡くなりましたが、彼の人生は無駄ではなかったのですね。
その後はまたブラブラと歩いて、世田谷通りまで出て、中華料理屋さんでランチ。
焼き芋を食べていたのに、またこのようなドーンとしたお昼をいただいて、翌日は800グラムほど太っていました。
私のワガママを聞いて、あちこち案内していただいたKさん、どうもありがとうございました。
私はマニアックな傾向があるのですが、同行していただいて、楽しめました。
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この日の装い。
頂き物の藍色の紬です。
赤いレースの半襟と、やはり赤の三分紐がアクセントのつもり。
帯は着物交換会でいただいた黒にシルバーの全通模様の帯。
とても締めやすくて重宝しています。
とはいえ、ずっとコートを着ていたので、どの帯でもあまり関係なかったようですが。
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