2024年2月29日木曜日

稲城散策  1 ~南多摩駅から稲城長沼駅まで~

先日は稲城市内の用水路を歩いてきました。

稲城市は、私の住む市からは、多摩川を挟んで向かい側の地域となります。

先月、稲城市の郷土資料室に出かけて、大丸(おおまる)用水の魅力に惹かれ、是非、行ってみたいと思いました。

そのときのブログ▼

今回の散策は、稲城市在住で、着物友達のKさんにガイドをしていただき、稲城に流れる大丸用水に沿って歩いてきました。

歩いたのは、こちらの地図の緑色のラインです。

まずは上の地図の西側にある南武線「南多摩駅」で待ち合わせました。この駅で下車したのは初めてでした。


そして駅から北に向かい、大丸用水の堰に向かいましたが、道が途中で途切れてしまい、辿り着くことができませんでした。ちょいと残念。またいつかチャレンジしてみましょう。

それでも多摩川に架かる是政橋を撮影してきました。


美しいフォルムの橋です。橋の向こう側は府中市になります。

橋の上から多摩川上流を眺めたところです。空が真っ青でした。

いったん南多摩駅に戻り、「大丸」の交差点から大丸用水に入りました。

現在は住宅地に流れていますが、歴史は古く、江戸時代初期に農業用水として作られました。


用水はところどころ分岐点がありました。
大丸用水は、全部で9本の本流があり、そして200の支流があるそうです。
その全長を合わせると、なんと70キロにも及ぶ用水だということです。


途中、神社とお寺が並んでいる場所がありました。
神社は大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんじゃ)。難しい名前ですね。この地域の守り神のような存在だと思います。


その隣には、大丸尋常小学校跡の碑がありました。現在はこのあたりの自治会館になっていたようでした。


その後も地図を見ながら、用水を辿りました。

このあたりで、地元に長年住んでいるという77歳の男性から用水の話を聞くことができました。
とても気さくに話していただき、当時の様子が思い浮かぶようでした。


少し歩くと、保育園の子供たちがお散歩をしていました。
なかなか良いお散歩コースです。向こう側には都営住宅もあり広々としたところでした。


ここは、先ほどの男性の昔話から想像するに、かつて戦争中にあった旧日本陸軍の火薬製造工場に勤務する労働者の宿舎だったところかもしれません。


団地の中に咲いていた桜
河津桜でしょうか、満開でした。


このあたりは「大堀」と呼ばれているところのようです。

その後、川崎街道を歩き、いったん南多摩駅まで戻り、「分量橋」を探すことにしました。分量橋はかつては旧府中街道にありましたが、現在は分量橋公園と姿を変えて南多摩駅前に残されていました。


ここでは、多摩川から取水した大丸用水を、管堀と清水川大堀を2対1に分けていました。


農業が中心の時代では、土地の水が大変な争いの元でしたので、きちんと水量を分配する必要があったのでしょう。


不公平にならないように、分けていたのですね。



この先は、大丸親水公園となっていました。


案内板によると、「大丸親水公園は、長い歴史をもつ大丸用水の保全を図り、全長1,120メートルの公園で、”光と清流と緑の小径”をテーマにしています。用水路に沿う緑の散策路を中心にして、多目的広場などを配慮して、散策、遊び、語らいの場を作りました。
大丸用水は、江戸時代元禄年間(1690年)に作られて、稲城の農耕地を豊かに潤してきました。」という内容が書かれていました。

この日は朝のうちは風も強くてひんやりしていましたが、だんだんと暖かくなり、散策には最適な日和となりました。

桜の木の下にはベンチがあったので、ちょっと休憩。


メジロも飛んできて、本当に気持ちの良いお天気でした。


のどかな緑道が続きます。


ところどころに支流との分岐がありました。


こちらの石碑には、このあたりの有力者の名前が刻まれていました。
「土地改良事業記念碑」と書かれていました。


眼鏡橋のような橋もありました。


こちらは標識はありませんでしたが、「大丸庭園」でしょう。
ちょっとした小山の上にある広場で、東屋もありました。
このあたりの有力者の土地だったのかもしれません。


しばらく歩いて行くと、雁追橋跡に着きました。

江戸時代に、この近くに大変美しくて気立ての良い女性が住んでいました。この人は御殿女中で江戸幕府で働いていましたが、この地に移り住んできました。
村の男たちは農作物を持って、彼女の元に行きました。
ところがこの女性はとても貞淑な人で、男たちはすぐに追い返されてしまいました。
当時、多摩川のほとりにはたくさんの雁が来ていました。村人たちは、この雁にたとえて
「雁と同じように男たちが集まってくるが、すぐに追い返されてしまう」という噂をしました。
この女性は、長くこの地に住みましたが、そのうち「雁追ばあさん」と呼ばれるようになったそうです。

ここは「稲城かるた」という地元のカルタにも歌われている場所でした。


「めずらしく民話の残る雁追橋」とカルタにも載っていました。


驚くことに、この場所は、案内役のKさんが今から○年前に新婚生活をスタートさせた場所だったのでした。
お若いKさんカップルが住んでいたアパートは、今は別の住宅になっていましたが、昔のことをいろいろ思い出されたようでした。
私もびっくりしましたが、思い出の場所と再会することができて、良かったですね。

こちらの神社は、駅からKさんの家路に戻る途中にありましたが、きっと急いでいたのでしょう、当時は神社だったとは気づかなかったということでした。


そんなこんなで昔話をいろいろ聞かせていただき、JR南武線の稲城長沼駅に着きました。


今日はここまで。続きはまたの機会に報告いたします。

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「一日一句」

花の下 思い出はるか 用水路


2024年2月27日火曜日

旧野川を歩く@狛江市

これまで野川は何回か歩いてきました。

2021年5月には、京王線の柴崎駅から小田急線の喜多見駅まで、野川沿いを歩きました。

そのときのブログ▼

そのとき歩いた道はこちら。


また小田急線の狛江駅前から六郷用水をたどり、滝下緑道を通って野川まで歩き、バスで戻ってきたこともありました。


そのとき歩いた道はこちら。


野川の上流方面は、調布市の野川公園を通過して、小金井市の丸山橋までサイクリングをしたこともありました。

そのときのブログ▼

サイクリングで通った道はこちら。


下流方面では、仙川と合流する「鎌田橋」を通過したこともありました。


そのときのブログ▼

歩いた道はこちら。


こんなふうに、私にとって野川は川幅の広い、一級河川であり、立派な川だという印象が強くありました。

ところがその野川はかつては水質も悪く、また台風のたびに氾濫をおこす大変な暴れ川だったということを知りました。

そして昭和40年代、野川は環境問題や自然災害対策のため、川の改修と、近くを流れる六郷用水の暗渠化が行われたのでした。

そのころの私は中学生で、杉並区に住んでいたので、野川についてはまるで知識がありませんでした。それでも小学生の頃、伊勢湾台風を経験して、近くに流れる善福寺川が大変な状態になったのはよく覚えています。

そんな時代を経て、旧野川は以前よりも東側に移動して、現在の野川となったわけです。


今回は、以前、狛江市役所でいただいた「水の記憶を訪ねて」という資料を頼りに、昔の野川を歩いてみることにしました。

資料にはさまざまなコースが載っていましたが、まずは「水の記憶コース」を辿りました。

このコースは狛江駅を出発して、旧野川と六郷用水の合流地点を通り、北へ進み、昔の野川に架かっていた橋の跡を通り、現在の野川大橋を通り、帰りは覚東というバス停から狛江駅まで戻るというコースです。

青いラインが行きの歩いたコース、オレンジ色のラインは帰りのバスのコースです。


歩いたコースは、現在はすべて緑道になっていて、歩きやすく、また○○メートルという表示もあり、道を間違えることはありませんでした。

それでは出発です。

1.スタートは狛江市役所
  
市役所の脇にある道を辿ります。


以前、市役所と小田急線狛江駅前の中間あたりには、駄倉(だくら)橋の跡を発見しましたが、この場所はその続きになりますね。



2.旧野川と六郷用水の合流地点
  
こちらの地点が、昔の野川と、六郷用水のあったところが合流する場所です。
マンホールが目印です。


このあたりには古墳があるということでしたが、どうしても見つかりませんでした。

リサイクルセンターや保育園などが並ぶ道を北へ歩いて行きます。


このあたりは岩戸北1丁目あたりです。

(写真に写っている人は、
通りがかりの方です)

少し歩くと、「野川緑地公園」の入り口になりました。


緑道には子供向けの遊具もありましたが、子供の姿は見かけませんでした。


緑道のすぐ脇には、民家の庭がありました。


紅梅がかわいらしかったですね。


緑道はまっすぐな道もあれば、ところどころに急カーブの道や、ちょっとした広場もありました。昔の野川の流れが分かります。


緑道の途中には、普通の公道が横切っていました。


カラフルなお花が植えられていました。


こんなふうに標識があるので、歩いていても迷子にはなりません。


3.北久保公園


4.御台橋(ごだいばし)

北久保公園を過ぎると、前方にバスが通る道が見えてきました。
向こう側に、その道が横切って走っています。


実はここは大変に貴重な場所でした。
ここは、かつての旧野川に御台橋(ごだいばし)という橋が架かっていたところなのです。


こちらがその当時の親柱です。まだ残されていました。
写真ではよく分かりませんが、「御台橋」という漢字表記と、「ごだいばし」というひらがな表記の両方がありました。


現在は御台橋を渡ることはなくなりましたが、商店街の名前や、バス停には「御台橋」という名前が未だに残っているのでした。きっとみんなから親しまれた橋だったのでしょうね。


信号も、御台橋。


電気屋さんも「ごだいばしでんき」でした。


こちらはバス通りを渡ったところの緑道です。かっこいいモニュメントがありました。


5.狛江市野川地域センター

こちらでちょっと休憩をしました。
ここはWi-Fiも使えるし、自動販売機もあるし、ソファもあるし、ゆっくりとくつろげる場所でした。


6.小足立八幡神社

江戸時代に建てられた神社です。元禄時代の検地帳には八幡宮地と書かれているそうです。以前はかなり広い敷地だったかもしれませんが、現在は周囲を民家に囲まれて、ちょっと窮屈そうに見えました。




7.西野川せせらぎの道

神社の脇の道を北へ進むと、「せせらぎの道」になりました。昔の川の面影をうまく表している水路でした。ポンプ工事のため、水は流れていませんでしたが、2024年4月頃にはまた水の流れが復活するようです。


木蔭もあるので、夏などもお散歩には気持ちよさそうなところでした。


8.石橋供養塔

せせらぎの道の突き当たりの、小金橋南の交差点には、「石橋供養塔」がありました。
交通安全の旗が立っていました。


なんと文化十年。1813年、徳川家斉の時代に作られたものですね。


昔、野川の橋を作ったときの、供養塔ですね。


9.大橋


大橋改修祈念碑でした。


こちらには昭和36年と書かれていました。


漢字で「大橋」


この先もまた緑地公園です。まっすぐ歩いて行くと、現在の野川に突き当たりますが、今回はパスしました。


公園には入らず、子之三嶋神社を通過。
ここは明治時代のはじめに、覚東村の一同が相談して、それまで東野川の先手院という寺院にあった神社を遷座したそうです。


「大橋通り」をしばらく歩きました。

8.覚東

覚東というバス停に行くと、ちょうど狛江行きのバスが来たので、飛び乗りました。

9.狛江 森の泉

この日のランチは狛江駅前近くの「森の泉会館」でオニオンスープと、ピザトースト。これで700円は高いのでは?


こちらは狛江駅前の弁財天池。


また狛江駅に戻りました。絵手紙発祥の町、狛江です。


この日の収穫はなんと言っても、御台橋でした。
昔は「五大」とか「五代」とか書かれていたこともあったとか。

古いものをきちんと保存している狛江市、ちょっと見直しました。

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「一日一句」

ただ歩く 新旧の川 春の道