先日は稲城市内の用水路を歩いてきました。
稲城市は、私の住む市からは、多摩川を挟んで向かい側の地域となります。
先月、稲城市の郷土資料室に出かけて、大丸(おおまる)用水の魅力に惹かれ、是非、行ってみたいと思いました。
今回の散策は、稲城市在住で、着物友達のKさんにガイドをしていただき、稲城に流れる大丸用水に沿って歩いてきました。
歩いたのは、こちらの地図の緑色のラインです。
まずは上の地図の西側にある南武線「南多摩駅」で待ち合わせました。この駅で下車したのは初めてでした。
それでも多摩川に架かる是政橋を撮影してきました。
橋の上から多摩川上流を眺めたところです。空が真っ青でした。
いったん南多摩駅に戻り、「大丸」の交差点から大丸用水に入りました。
現在は住宅地に流れていますが、歴史は古く、江戸時代初期に農業用水として作られました。
大丸用水は、全部で9本の本流があり、そして200の支流があるそうです。
その全長を合わせると、なんと70キロにも及ぶ用水だということです。
途中、神社とお寺が並んでいる場所がありました。
神社は大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんじゃ)。難しい名前ですね。この地域の守り神のような存在だと思います。
その後も地図を見ながら、用水を辿りました。
このあたりで、地元に長年住んでいるという77歳の男性から用水の話を聞くことができました。
とても気さくに話していただき、当時の様子が思い浮かぶようでした。
なかなか良いお散歩コースです。向こう側には都営住宅もあり広々としたところでした。
ここは、先ほどの男性の昔話から想像するに、かつて戦争中にあった旧日本陸軍の火薬製造工場に勤務する労働者の宿舎だったところかもしれません。
河津桜でしょうか、満開でした。
このあたりは「大堀」と呼ばれているところのようです。
その後、川崎街道を歩き、いったん南多摩駅まで戻り、「分量橋」を探すことにしました。分量橋はかつては旧府中街道にありましたが、現在は分量橋公園と姿を変えて南多摩駅前に残されていました。
ここでは、多摩川から取水した大丸用水を、管堀と清水川大堀を2対1に分けていました。
案内板によると、「大丸親水公園は、長い歴史をもつ大丸用水の保全を図り、全長1,120メートルの公園で、”光と清流と緑の小径”をテーマにしています。用水路に沿う緑の散策路を中心にして、多目的広場などを配慮して、散策、遊び、語らいの場を作りました。
大丸用水は、江戸時代元禄年間(1690年)に作られて、稲城の農耕地を豊かに潤してきました。」という内容が書かれていました。
この日は朝のうちは風も強くてひんやりしていましたが、だんだんと暖かくなり、散策には最適な日和となりました。
桜の木の下にはベンチがあったので、ちょっと休憩。
ちょっとした小山の上にある広場で、東屋もありました。
このあたりの有力者の土地だったのかもしれません。
江戸時代に、この近くに大変美しくて気立ての良い女性が住んでいました。この人は御殿女中で江戸幕府で働いていましたが、この地に移り住んできました。
村の男たちは農作物を持って、彼女の元に行きました。
ところがこの女性はとても貞淑な人で、男たちはすぐに追い返されてしまいました。
当時、多摩川のほとりにはたくさんの雁が来ていました。村人たちは、この雁にたとえて
「雁と同じように男たちが集まってくるが、すぐに追い返されてしまう」という噂をしました。
この女性は、長くこの地に住みましたが、そのうち「雁追ばあさん」と呼ばれるようになったそうです。
ここは「稲城かるた」という地元のカルタにも歌われている場所でした。
驚くことに、この場所は、案内役のKさんが今から○年前に新婚生活をスタートさせた場所だったのでした。
お若いKさんカップルが住んでいたアパートは、今は別の住宅になっていましたが、昔のことをいろいろ思い出されたようでした。
私もびっくりしましたが、思い出の場所と再会することができて、良かったですね。
こちらの神社は、駅からKさんの家路に戻る途中にありましたが、きっと急いでいたのでしょう、当時は神社だったとは気づかなかったということでした。
そんなこんなで昔話をいろいろ聞かせていただき、JR南武線の稲城長沼駅に着きました。
今日はここまで。続きはまたの機会に報告いたします。
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「一日一句」
花の下 思い出はるか 用水路