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2025年5月10日土曜日

興禅寺@瑞穂市

4月の美濃国旅行の続きです。

五六川閘門を見学▼した後は、川崎平右衛門さんの供養塔がある興禅寺に行く予定でしたが、とにかくバスの便が悪くて、待ち時間を計算したら歩く方が早いと言うことになりました。

それで五六川をテクテクと北に向かって歩きました。


「五六ふれあい橋」です。


そしてこんな感じの土手を北に向かって歩きました。


のんびりとした春の風景です。


このあたりは、川の中に盛り土をしたような地域があり、そこは草花が植えられていました。

そして国道を渡り、JR東海道線の下をくぐり、そこから西の方へ向かいました。

実は鉄道の下をくぐるのがちょっと不安だったのですが、ちょうど電気工事をしているお兄さんに尋ねたら、とても親切に教えてくれました。スマホの地図アプリで調べてくれて、「こちらのルートの方が安全で分かりやすいですよ」と教えてくれました。本当に助かりました。

こちらは途中、トイレ休憩をしたコンビニ。

「穂積牛牧店」とありますね。「ほずみうしき」と読みます。難しい!

今度は犀川(さいがわ)という川に沿って歩きました。

それからかなり歩きました。

住宅街に入り、玄関先で掃除をしている老夫婦に「興禅寺というお寺をさがしているのですが」と話しかけると、「あー、平右衛門さんのお寺ね」と気軽に答えてくれました。そして「あそこのお寺はご住職が亡くなって、その跡継ぎをどうするか・・・」と世間話になりました。

平右衛門さんと言う人は、260年ほど前に亡くなった人ですが、そんな昔の人でも、この土地では親しまれているのだろうと感じました。

五六川閘門から興禅寺への足取りはこんなルートでした。右の太い川は長良川、左は揖斐川です。その間にいくつもの川が流れている地域でした。


このあたりは「輪中」といって、川に囲まれている地域です。そのため水害がとても多いところでした。また幕府料や大名領、旗本領などが複雑に入り込んでいる地域で、そのため利害関係が対立して、対策がうまく行かなかったところでした。
そこに武蔵野新田で活躍した川崎平右衛門さんに白羽の矢が立ち、この地に派遣されてきた、というようです。
そして平右衛門さんは11年という月日をかけて、この地の人々を納得させて、五六閘門を完成させたということです。

平右衛門さんは、玉川上水の普請工事や、1742年の関東地方の大水害(寛保洪水)に対しても活躍したので、それで美濃国の水難対策にやってきたと言われています。

目的地の「興禅寺」に辿り着きました。


中に入ってみました。


敷地内には、平右衛門さんの立派な供養塔が建っていました。


ここには彼が生前使用していた、太刀が埋められているのだとか。
平右衛門さんが亡くなった時、この地の人はなんと府中の押立村まで行き、そしてそこで平右衛門さん愛用の太刀を受け取り、その刀も一緒に収められているということです。


墓が3つ並んでいるのは、二人の手代も一緒でした。神保佐兵衛という人と内海平十郎という人たちだそうです。


興禅寺でお墓参りをした後は、近くの防災センター前からバスで戻ろうと思いましたが、時間帯が悪くてバスはまるで来ません。それでタクシーで戻ることにしました。
すると、この日の朝、穂積駅のタクシー乗り場で話を聞いた運転手さんの車が、やってきたのでした。すごい偶然でしたね。

タクシーの中から、東の方に見える気になる三角形の山の名前を聞いたところ、金華山とのこと。「あのてっぺんには岐阜城があるんですよ」と教えてくれました。岐阜市民には誇りにしているように思えました。

その後、穂積駅近くにある市役所と、新しいホールのあるところも散策してみました。
こちらはちょっと古色蒼然とした市役所。


こちらは新しい施設。「ココロかさなるCNNセンター」
名前の由来は不明ですが、大ホールなどもあり、かなり立派な建物でした。
この瑞穂市というところは、二つの町が合併の結果できた市なので、合併補助金のような支援があって、このような施設ができたのではないかと思いました。


とはいえ、この町にはコインロッカーがないので、荷物を持ったまま、それほどあちこちは行けませんでした。

予定より少し早めに引き上げることにしました。

こちらは東海道線の車中から、長良川を渡っているところ。
川幅が広くて、恐ろしい感じにも思えました。


新幹線はEXアプリというのを利用していますが、スマホだけですぐに変更できるのが良いですね。昔は「みどりの窓口」というところで変更してもらっていたものです。

早めに帰京したため、雷雨に遭わずに済みました。

この日は、なんだかんだで18,000歩ほど歩いていたようでした。




2025年5月4日日曜日

五六川閘門(こうもん)@瑞穂市

さて、だいぶ前の事になってしまいましたが、2025年4月の春休みに、川崎平右衛門さんの偉業を追跡してきました。

瑞穂市到着の2日目です。

市内には宿泊施設がないので、東隣の岐阜市のホテルから朝早く出発。

大垣行きの東海道線に乗りました。「穂積」駅で下車しましたが、やけに若い男女が多く下車しました。不思議に思っていると、ここには朝日大学というのがあるのですね。この大学は以前は岐阜歯科大学という名前だったそうです。それで大学へのバスに若者がたくさん並んでいたのです。

こちらは穂積駅前にあった案内板の写真です。

その説明には「この地域は、海抜5~6㍍の低湿地であるため、出水の度に長良川の逆水により川沿いの村々は苦しんでいました。1749年(寛延2年)、幕府直轄地の本田代官に赴任した川崎平右衛門定孝は、この惨状に心を痛め、閘門樋設置のため、幕府へ働きかけ、ついに1757(宝暦7年)、牛牧閘門樋が完成しました。なお現在の閘門は1910年(明治43年)に築かれたものです」と書かれていました。

ここに行くかと思うと、ワクワクしました。

ちなみに「閘門」というのは、「こうもん」と読むのですが、ウィキペディアには、「水位の異なる水面をもつ河川や運河、水路に設けられる船を通航させるための施設」という解説がありました。

そこへ行くため、「かきりん」という市内なら100円で乗れるバスに乗りました。市内のお年寄りは無料だそうです。

どうして柿のイラストかというと、瑞穂市というのは富有柿の発祥地だそうで、それで「かきりん」なのでした。


そしてぐるっと大回りして、五六川の閘門近くで下車しましたが、あたりは普通の住宅ばかりでこんなところに川があるのかとあちこちウロウロしました。ようやく土手のような道を歩き、しばらく行くとそれらしき風景が見えました。

土手には菜の花がきれいに咲いていました。


土手のポールには「国土交通省木曽川上流」という文字が見えました。「五六川」も見えますね。


そして閘門を発見。こちらは明治時代に作られたものです。想像していたものよりも小さかったのですが。

閘門の近くに建てられていた説明板です。


この閘門の上の方には、平右衛門を祀った「川崎神社」がありました。

ちょうど橋の様子を調べていた工事関係者の方(上の写真に写っていますね)がいたので、記念に撮影してもらいました。

その後は川に沿って北の方へ歩きました。のんびりした土手でした。


土手は周囲よりも高くなっていて、両側には川が流れていました。桜もチラホラ咲いていて、たまに散歩する人とすれ違いました。

ここから2キロほど歩いたでしょうか、平右衛門さんの供養塔があるお寺まで行きました。

この続きはまたね。



2025年4月29日火曜日

岐阜県瑞穂市へ

だいぶ前のことになってしまいましたが、春休みの間、プレミアム・カレッジ2年目に向けて、川崎平右衛門さんの足取りを追ってあちこち出かけてきました。

4月に入ってもずっと寒い日が続いていましたが、ちょうど暖かい日に岐阜県まで遠征してきました。


私が訪問した瑞穂(みずほ)市というところは、岐阜県の中でも西の方に位置しています。
今から22年前の2003年に、旧穂積(ほづみ)町と旧巣南(すなん)町が合併して誕生したそうです。

東海道線が通っているので、名古屋から大垣行きの東海道線に乗り、岐阜からちょっと西へ行ったところです。

駅名は「穂積」ですが、市の名前は瑞穂市です。ちょいとややこしい。

こちらの教育委員会の方と事前にメールで相談していましたが、図書館でお会いできることになりました。きれいな図書館でした。


「図書館」というバス停の目の前。


「楽修館」という別名がありました。
広々としてオシャレな図書館でした。

教育委員会の方にはとても親切に対応していただき、感動しました。

「郷土歴史研究指導員」という肩書きの方でしたが、かつては学校の先生や校長をされていたということで、教えるのがお好きなのでしょう。たくさんの資料を用意してくださいました。

また図書館のスタッフの方もとても親切で、私が行きたい場所への行き方などを教えてくださいました。

まず出かけたのは「川崎神社」です。


住宅街の中にあり、あまり目立たない神社でした.作られた年代は不明です。


昭和61年という文字が刻まれていました。

その次は、西へ向かって歩き、五六川(ごろくがわ)という川の手前にあるトンネルをくぐったところにある「神明神社」まで行ってみました。このあたりは野田新田と呼ばれているところです。

「五六川」というのは、日本橋から56番目の橋がかかっていたから、といういわれがあると伺いましたが、珍しい名前ですね。


こちらが野田新田の神明神社です。新田村というところに、寛永9年(1632)前後に、建てられたそうです。





このあたりは、誰も人がいなくて、ちょっと不安になりましたが、五六川のほとりに桜がきれいに咲いていました。

神社に行った後は、再び図書館へ戻り、地元の資料を読んでみました。

瑞穂市にはホテルがないので、宿泊のため、岐阜まで戻りました。

岐阜駅前広場には金ぴかの織田信長像が立っていました。


この日は、16,000歩以上、歩いたようでした。

(この項、続きます)


2024年3月22日金曜日

富士宮市へ 4(小泉)

少し間が開いてしまいましたが、先週、小泉次太夫の生家があったと言われる富士宮市小泉を訪問してきました。

次太夫と富士宮市の関係は知ってはいましたが、富士宮市郷土資料館の学芸員さんから「歩く博物館ガイドブック」で詳しく教えていただき、歩くのにはちょうどよいコースだと思いました。

ガイドブックには富士宮市内の20以上のコースがありましたが、私が行こうと思ったのはこちらです。

「泉と古墳をたずねるコース」です。

次太夫は植松という家に生まれましたが、中年以降、江戸に出て、家康の江戸改革政策に関わるようになります。

二ヶ領用水、六郷用水を作り、農作物増産の基礎を作った人です。

その彼の前半の生涯についてはほとんど知られていないのですが、生まれは駿河国富士郡小泉郷(現在は富士宮市小泉)ではないかと言われています。

そこを訪問するために、二日目の朝、ホテルから富士宮駅に向かい、駅の広場から富士山を拝みました。

とても清々しい富士山でした。


駅前からバスに10分ほど乗って、バイパスで降りて歩き出しました。
この町は湧き水だらけ、川だらけでした。

あちこちに水が流れていました。
足下を見ると、こんな様子でした。道祖神でしょうか。


こちらは久遠寺川でした。


「向原橋」を渡りました。


そして、このコースのスタート地点である富士根南公民館を探しました。


ここには何か資料があるかと思いましたが、特別なものはなく、前日に市役所で教えていただいた「歩く博物館」の同じ資料があっただけでした。
その地図をもとに、次の目的地である「久遠寺」へ向かいました。

そこには次太夫の供養塔があるというのです。

このバイパスのトンネルをくぐり抜けると・・・


目の前にドーンと富士山が迫ってきました。


すごいな。

長い参道の両脇には普通の民家がありました。
上の写真の左側に見える赤い壁の家は、美容院でした。
次太夫さんはこういう場所で生活していたのか、と思いをはせました。

お寺の入り口です。


久遠寺の山門がとても立派でした。門の間から富士山が見えました。


山門をくぐったところです。


お寺に到着して、墓地に行ってみましたが、あまりに多くのお墓があり、供養塔の場所が分かりませんでした。それでお寺の若いお坊さんにお願いして、供養塔の場所を探してもらいました。ようやく探し当てたのはこちら。
「当処御代官小泉氏吉次」と刻まれているそうです。奥方様のものも並んでいました。


お坊さんに記念撮影してもらいました。


その後、「小泉」という大字の由来といわれると神社へ向かいました。
のんびりとした道でした。
こちらは中沢川。


くねくねとした道の間に川が流れていました。


辿り着いたのがこちら。


「上小泉八幡社」です。


「歩く博物館」にも紹介されています。
この神社の祭神は応神天皇です。境内の西側には湧き水がありました。
「上小泉」という名前は南北朝のころからあるそうです。

これが湧き水のようです。


農業用水に使用されている、と書かれていました。


ちょろちょろと水が流れていました。


湧き水を確認して、のどかな山道を下りました。


富士山もきれいでしたが、周囲の山々もとても美しかったです。

その後、帰りのバスに乗ろうと思い、バス停に向かいました。このバスも1時間に1本、あるいは2時間に1本しか来ないバスです。


ところが待てど暮らせどバスが来ないので、仕方なく歩き出したところ、後ろからそのバスがすーっと通り過ぎて行きました。うーん、悔しい!

仕方なく歩いて、また富士宮市役所へ。

途中には弓沢川というのがあり、「欠畑橋」がかかっていました。

なんと読むのだろうかと思いましたが、「かけはたはし」でした。


富士宮市は、市内のあちこちに川が流れているところだと思いました。


そんな水の豊かなところに生まれ育った次太夫が、江戸や川崎周辺にやってきて、どんなことを思ったのでしょうか。

富士宮市役所内の「宮カフェ」という場所で、簡単にランチをしました。


こちらは市役所の7階展望室から眺めた富士山。ここは無料で利用できます。
この写真では雲がかかっていますが、裾野まできれいに見えました。


こちらの「北山用水」は天正10年(1582年)、徳川家康が本門寺の願いを受けて作られた用水ですが、2023年に「世界かんがい施設遺産」に選ばれたそうです。

もう一度、町中から富士山を眺めて、この富士宮市訪問はおしまいにしました。

富士宮ではお土産を買うこともなく、おいしいものも食べることもありませんでしたが、小泉次太夫の生まれ故郷を訪れるという目的は達成できたので、満足できた旅でした。

今回、出かけたところはこちらです。


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「一日一句」

春の暮れ 富士の麓に 水が湧く