今は江戸時代の小説にわくわくしている私ですが、ちょっと前までは源氏物語に夢中でした。
ラベルの「源氏物語」のところには、これまで私が参加した源氏関係のイベントの内容や、本の感想が綴られています。
そんな私が久しぶりに源氏物語の世界に心ときめいたのは、千鳥ヶ淵にある洒落たギャラリー「一冊」▼での「源氏物語~色綴り」▼という展示会でした。
(ただし色綴りの展覧会は4月28日で終了しました。)
そう、千鳥ヶ淵といえば桜の名所として有名ですが、今は桜は花の季節は終わって、緑の葉が生い茂っていました。
こちらは九段下の改札口を出たところです。
お堀端には桜に代わって、シャガの白い花がたくさん咲いていました。
この花は私が子供のころ住んでいた家にはよく咲いていたので、名前を覚えているのです。
ギャラリーは「パークマンション千鳥ヶ淵」の1階にありました。
松岡正剛さんという有名な編集者さんが設計したギャラリーだそうです。
ギャラリーというよりもどなたかのおうちの応接間というか書斎のような感じでした。
壁一面にぎっしりと本が置いてあり、座り心地のよさそうなソファが置いてありました。
室内の様子は写真には写しませんでしたが、とてもリッチな気分になれましたよ。
今回の展示の内容ですが、源氏物語は54巻(帖)から成るお話なのですが、その一つ一つの巻のイメージを色で表わすという大胆な試みをしたものでした。
源氏物語研究家の有田祐子さんが「この巻は深い海のような色」とか「この巻は燃えるような紅葉の色」とか色を説明すると(もっと文学的な表現で)、染色家の玉村咏さんがその色を作り出すのです。そしてその色を絹の布に染めて、12センチくらいの正方形にして、そこに源氏香というしるし(マッチ棒で柵を作ったような形)を乗せて展示していました。
こちらが「源氏香」のしるしです。
最初の「桐壷」の巻は淡いクリーム色でした。
ふーむ、なるほどね~。
その次の巻の「帚木」はグレイに近い水色でした。
こんなふうに最後の「夢浮橋」まで巻ごとに54色表現していたのです。
どの色もはんなりした日本の色でとても素敵でした。
面白かったのは、赤いお鼻のお姫様が登場するので有名な「末摘花」の巻は、真っ赤な紅花色でした。
これは私にも想像できましたね。
玉村さんという染色家は京都に染色工房があるそうで、いつかはそこに行ってみたいですね。
この方は単に染色をするだけでなく、着物のデザインもすれば、ホテルなどにかかっているカーテンや壁画のようなオブジェのデザインもされています。
こちらのHP▼に素敵な作品がたくさん出ていますので、是非ご覧ください。
このギャラリーは無料で解放されていますが、素敵な作品を見せていただいたお礼と、暑くなりのどが乾いてしまったので、「葡萄酢」というのを注文しました。葡萄のお酢を炭酸で割ったものだそうです。小さなマカロンが2個ついて、1000円でした。
ちょっと高かったのですが、ゆっくりと味わうことができて満足しましたよ。
けちな私でもこういうところにはお金を使うのです。
ちなみにガラスのテーブルの下に見えるのは、玉村さんデザインの風呂敷です。
この日の装いは、優しい春の色の「花紬」という着物。
春に着たい着物ですね。
さとさんからの頂き物です。
帯はうたどんさんのお母様から頂いた紫のようなこげ茶のようなシックな色の帯で引き締めました。
我ながら、「色綴り」の雰囲気にぴったりと悦に入っていました。
この一冊というギャラリーはとても素敵なところなので、お勧めです。
近くにはイタリア文化会館やインド大使館などもあり、文化の香りのするところです。
贅沢な雰囲気に浸ることができた春の午後でした。
2012年4月30日月曜日
2012年4月29日日曜日
永井路子 「氷輪」
奈良時代のお勉強の参考にと読み出した永井路子さんの「氷輪」。
とにかく難かしい本でした。ふぅ~。
これは歴史小説というよりも、永井さんの歴史観をまとめた小説形式の発表論文だと思ったほうがいいでしょうね。
その歴史観は冷静で、世間に言われている俗説(たとえば孝謙女帝と道鏡との関係など)も、通説に惑わされることなくきちんと見極めています。さすが、脱帽ものです。
じつは題名の「氷輪」とは「冷たく輝く月」という意味なんだそうです。
どうしてこのような題名になったか、私には読んだ後も分かりませんでした。
それにしても面白いのは、当時の天皇交代劇です。
天智天皇(中大兄皇子)のあとは息子の弘文天皇が引き継ぎますが、壬申の乱により天武天皇(大海人皇子)となり、そして彼の奥さんである持統天皇となる。
このあたりはまだ分かりやすいのですが、そのあとは小刻みに交代が続きます。
持統天皇から孫の若い文武天皇へ。
その彼が早死にしたので今度は彼の母親の元明天皇に遡る。
そしてその後継ぎは文武天皇の姉である独身女性の元正天皇へ。
そのまた次は文武天皇の娘である孝謙天皇へ。
そしいったん傍系の淳仁天皇という高齢者になるのですが、
また孝謙天皇が返り咲いて今度は称徳天皇と名前を変えての再登場。
その後、天智天皇系の光仁徳天皇になり、そして桓武天皇となるわけです。
100年ちょっとの間にこれだけ天皇が変わっている時代も珍しいですね。
この小説の中でも天皇が次々に交代するので、ついていけません。
それも暗殺のような交代劇があったりして、すごい時代だったのですね。
ハードボイルドも顔負けの時代でした。
また少し前の推古天皇を始めとして数人の女帝が登場したのもこの時代です。
そして藤原氏、蘇我氏の権力争いもあって、とにかく登場する人物の関係が複雑極まりない。
しかし当時の一番の中心は仏教の伝来と普及ですね。これが国家事業の第一なのです。
あの巨大な東大寺の大仏を作ることが天皇の第一目標であり、それに従事する人はどれほど大変な思いをしたことでしょう。
当時の日本の人口の半分くらいが大仏作りに従事したようで、これでは国民は疲労してしまいますね。
永井さんはこの小説では、盲目の鑑真を中心にストーリーを展開したが、これまでの鑑真像とは少し違うように思えました。
私が学校で習ってきた鑑真という人は、「数回の航海にもめげずに苦難の末に唐から来日して、日本に仏教を広め、唐招提寺を建てた人」でしたが、数回の航海という部分はあっていますが、仏教に関しては「受戒」をすることができる人という立場で来日して、聖武天皇や光明皇后に受戒をしましたが、待遇はあまり良くなかったように書いありました。
つまり鑑真が寝たり起きたりするところはとても狭い場所だったし、唐招提寺というのは当時は正式な寺としては認められず、鑑真の私的な研究所のような扱いだったようで、その作りも古い木材などを再利用して建てられたもので、今のような立派な建物になったのはかなり後のことらしいのです。
ただし永井さんの小説の対象は鑑真だけには終わらず、その後の怪僧・道鏡のことも書かれているのだけれど、彼についてはよくわからない部分も多くありました。天皇になり損ねて、結局最後は無残な死に方をしたのでした。
この小説には、天皇、政治家、坊さんなどいろいろな人物が登場しますが、このころの出来事は「続日本書紀」にもかなり詳しく書かれているそうなので、その読解方法によりいろいろと解釈ができるようです。
この本を読むに当たってはあまりに内容がごちゃごちゃしていて難しいので、私は「マンガ 日本の歴史がわかる本 古代~南北朝時代」と「人物で読む平城京の歴史」を参考にしながらようやく読み終えることができました。
いやはや何とも分かりにくい、そして登場人物の名前がややこしい時代でした。
でも、去年の9月に奈良に出かけましたが、もうちょっとこのころの歴史のことを分かっていたら、奈良に行った時も違った見方ができたと思うと非常に残念ですね。
その時は本当に表面的なことしか分かっていませんでした。
去年のブログ▼
とくに光明天皇を似せて作ったという法華寺の十一面観音は見損なってしまったし、お隣にあった海竜寺も光明皇后や藤原不比等とは縁のあるところだったそうですが、ただその前を通過して写真を撮っただけだったので、非常にもったいないことをしたと思いました。
とにかく奈良時代というのは大変な時代だったんだろうなというのが感想です。
とにかく難かしい本でした。ふぅ~。
これは歴史小説というよりも、永井さんの歴史観をまとめた小説形式の発表論文だと思ったほうがいいでしょうね。
その歴史観は冷静で、世間に言われている俗説(たとえば孝謙女帝と道鏡との関係など)も、通説に惑わされることなくきちんと見極めています。さすが、脱帽ものです。
じつは題名の「氷輪」とは「冷たく輝く月」という意味なんだそうです。
どうしてこのような題名になったか、私には読んだ後も分かりませんでした。
それにしても面白いのは、当時の天皇交代劇です。
天智天皇(中大兄皇子)のあとは息子の弘文天皇が引き継ぎますが、壬申の乱により天武天皇(大海人皇子)となり、そして彼の奥さんである持統天皇となる。
このあたりはまだ分かりやすいのですが、そのあとは小刻みに交代が続きます。
持統天皇から孫の若い文武天皇へ。
その彼が早死にしたので今度は彼の母親の元明天皇に遡る。
そしてその後継ぎは文武天皇の姉である独身女性の元正天皇へ。
そのまた次は文武天皇の娘である孝謙天皇へ。
そしいったん傍系の淳仁天皇という高齢者になるのですが、
また孝謙天皇が返り咲いて今度は称徳天皇と名前を変えての再登場。
その後、天智天皇系の光仁徳天皇になり、そして桓武天皇となるわけです。
100年ちょっとの間にこれだけ天皇が変わっている時代も珍しいですね。
この小説の中でも天皇が次々に交代するので、ついていけません。
それも暗殺のような交代劇があったりして、すごい時代だったのですね。
ハードボイルドも顔負けの時代でした。
また少し前の推古天皇を始めとして数人の女帝が登場したのもこの時代です。
そして藤原氏、蘇我氏の権力争いもあって、とにかく登場する人物の関係が複雑極まりない。
しかし当時の一番の中心は仏教の伝来と普及ですね。これが国家事業の第一なのです。
あの巨大な東大寺の大仏を作ることが天皇の第一目標であり、それに従事する人はどれほど大変な思いをしたことでしょう。
当時の日本の人口の半分くらいが大仏作りに従事したようで、これでは国民は疲労してしまいますね。
永井さんはこの小説では、盲目の鑑真を中心にストーリーを展開したが、これまでの鑑真像とは少し違うように思えました。
私が学校で習ってきた鑑真という人は、「数回の航海にもめげずに苦難の末に唐から来日して、日本に仏教を広め、唐招提寺を建てた人」でしたが、数回の航海という部分はあっていますが、仏教に関しては「受戒」をすることができる人という立場で来日して、聖武天皇や光明皇后に受戒をしましたが、待遇はあまり良くなかったように書いありました。
つまり鑑真が寝たり起きたりするところはとても狭い場所だったし、唐招提寺というのは当時は正式な寺としては認められず、鑑真の私的な研究所のような扱いだったようで、その作りも古い木材などを再利用して建てられたもので、今のような立派な建物になったのはかなり後のことらしいのです。
ただし永井さんの小説の対象は鑑真だけには終わらず、その後の怪僧・道鏡のことも書かれているのだけれど、彼についてはよくわからない部分も多くありました。天皇になり損ねて、結局最後は無残な死に方をしたのでした。
この小説には、天皇、政治家、坊さんなどいろいろな人物が登場しますが、このころの出来事は「続日本書紀」にもかなり詳しく書かれているそうなので、その読解方法によりいろいろと解釈ができるようです。
この本を読むに当たってはあまりに内容がごちゃごちゃしていて難しいので、私は「マンガ 日本の歴史がわかる本 古代~南北朝時代」と「人物で読む平城京の歴史」を参考にしながらようやく読み終えることができました。
いやはや何とも分かりにくい、そして登場人物の名前がややこしい時代でした。
でも、去年の9月に奈良に出かけましたが、もうちょっとこのころの歴史のことを分かっていたら、奈良に行った時も違った見方ができたと思うと非常に残念ですね。
その時は本当に表面的なことしか分かっていませんでした。
去年のブログ▼
とくに光明天皇を似せて作ったという法華寺の十一面観音は見損なってしまったし、お隣にあった海竜寺も光明皇后や藤原不比等とは縁のあるところだったそうですが、ただその前を通過して写真を撮っただけだったので、非常にもったいないことをしたと思いました。
とにかく奈良時代というのは大変な時代だったんだろうなというのが感想です。
2012年4月28日土曜日
ボストン美術館 文化講演会
「特別展 ボストン美術館 日本美術の至宝 関連文化講演会」という長いタイトルの講演会に行ってきました。
実はこの講演会に参加すると、東京国立博物館の入場券が1枚もらえるというので、それが欲しさで出かけたのでした。
この展覧会はもうすでに3月20日から開催されていて、会期は6月10日まで。
こちら▼
説明をしてくださったのはNHK学園の吉田典代さんという学芸員の方でした。
ボストン美術館というのは1870年、つまり今から140年以上も昔に建てられた美術館だそうで、その後モース(大森貝塚の発見者)やフェノロサ(東大教授)などが収集した日本の古美術品を展示してあるところだそうで、海外では一番多く日本の美術品があるところだそうです。
そのボストン博物館から今回、平成館にお里帰りをしたのは、奈良・平安時代の仏教美術、平安・鎌倉時代の絵巻物、室町時代の水墨画、そして江戸時代の絵画です。これらが一堂に展示されるのは、もう当分の間ないだろうということでしたので、是非、見に行かなくてはね。
学芸員の方はスライドを見せながら美術品の説明をしてくださいましたが、興味が湧いたのは、「吉備真備の入唐絵巻」でした。今、奈良時代を学んでいる私にとっては奈良時代に唐の留学生として活躍した吉備真備が出てくる絵巻のお話は面白かったですね。物語形式になっていて、吉備真備が鬼退治をしていたり、碁石を飲み込んでしまったりなどの場面が描かれていて、漫画のようで楽しめます。
ちなみに吉備真備という人は、下級階層の出身だそうですが、唐に2回も留学に行き、いろんな中国の文化や知識を学んできました。彼によってカタカナが生まれたそうです。この人の人生は結構面白いですよ。
それと平治物語絵巻、これは実話である「平治の乱」を描いたものですが、とても細かく描かれていて、こういうものがきちんと保存されているのはすごいことだと思いました。
今、江戸時代の画家である曽我蕭白の絵画に人気がありますが、私はこの人の絵はグロテスクであまり好きでなかったのです。ところが今回見せていただいた屏風には、とても可愛いウサギちゃんが描いてあるのを見つけて、蕭白のファンになりました。
絵画は説明を聞いてから見ると、細かい部分にも気づかせられることがあるので、いいですね。
これまで仏教画などはあまり興味もなかったのですが、象や細かい模様なども描かれていることが分かり、日本の古い文化はすごいものだと思いました。
展覧会はなるべく平日の午前中、人が少ないときに行くようにしているのですが、今回だけでも無料招待券をもらった人が数百人はいるので、混むのは仕方ないかなと諦めています。
こちらがプレゼントされた入場券です。
この日は雨模様だったので、濡れても構わないようにウールの着物にしました。
焦げ茶色の地にオレンジ色のクロスステッチのような模様入りです。
薄いオレンジ色の帯揚げにしましたが、ちょっと違和感がありますね。
帯は某デパートのリサイクル市で格安で買ったもの。
お気楽なご近所着物です。
実はこの講演会に参加すると、東京国立博物館の入場券が1枚もらえるというので、それが欲しさで出かけたのでした。
この展覧会はもうすでに3月20日から開催されていて、会期は6月10日まで。
こちら▼
説明をしてくださったのはNHK学園の吉田典代さんという学芸員の方でした。
ボストン美術館というのは1870年、つまり今から140年以上も昔に建てられた美術館だそうで、その後モース(大森貝塚の発見者)やフェノロサ(東大教授)などが収集した日本の古美術品を展示してあるところだそうで、海外では一番多く日本の美術品があるところだそうです。
そのボストン博物館から今回、平成館にお里帰りをしたのは、奈良・平安時代の仏教美術、平安・鎌倉時代の絵巻物、室町時代の水墨画、そして江戸時代の絵画です。これらが一堂に展示されるのは、もう当分の間ないだろうということでしたので、是非、見に行かなくてはね。
学芸員の方はスライドを見せながら美術品の説明をしてくださいましたが、興味が湧いたのは、「吉備真備の入唐絵巻」でした。今、奈良時代を学んでいる私にとっては奈良時代に唐の留学生として活躍した吉備真備が出てくる絵巻のお話は面白かったですね。物語形式になっていて、吉備真備が鬼退治をしていたり、碁石を飲み込んでしまったりなどの場面が描かれていて、漫画のようで楽しめます。
ちなみに吉備真備という人は、下級階層の出身だそうですが、唐に2回も留学に行き、いろんな中国の文化や知識を学んできました。彼によってカタカナが生まれたそうです。この人の人生は結構面白いですよ。
それと平治物語絵巻、これは実話である「平治の乱」を描いたものですが、とても細かく描かれていて、こういうものがきちんと保存されているのはすごいことだと思いました。
今、江戸時代の画家である曽我蕭白の絵画に人気がありますが、私はこの人の絵はグロテスクであまり好きでなかったのです。ところが今回見せていただいた屏風には、とても可愛いウサギちゃんが描いてあるのを見つけて、蕭白のファンになりました。
絵画は説明を聞いてから見ると、細かい部分にも気づかせられることがあるので、いいですね。
これまで仏教画などはあまり興味もなかったのですが、象や細かい模様なども描かれていることが分かり、日本の古い文化はすごいものだと思いました。
展覧会はなるべく平日の午前中、人が少ないときに行くようにしているのですが、今回だけでも無料招待券をもらった人が数百人はいるので、混むのは仕方ないかなと諦めています。
こちらがプレゼントされた入場券です。
この日は雨模様だったので、濡れても構わないようにウールの着物にしました。
焦げ茶色の地にオレンジ色のクロスステッチのような模様入りです。
薄いオレンジ色の帯揚げにしましたが、ちょっと違和感がありますね。
帯は某デパートのリサイクル市で格安で買ったもの。
お気楽なご近所着物です。
2012年4月27日金曜日
これ 買いました
私と夫はまるで趣味が違って、欲しいものも行きたいところも、同じということはめったにありません。
ところが、珍しく一致したものがありました。
それがこれ。
先日、「ジャパネットた○た」で注文しておいたものが届きました。
正式な名前は何と言うのか分かりませんけれど、開脚器とでもいうのかしら?
送料込みで1万円くらいでした。
さっそく夫がやってみました。ダサいパジャマ姿で失礼します。
私も試しましたが、足を乗せて、横にスライドするのは簡単なのですけれど、身体を横にして足を前後に開くのは結構きついわ。
一日3分でいいそうですけれど、2分もすると飽きてきますね。
これで足の筋肉がつけばいいのですけれど・・・・。
ところが、珍しく一致したものがありました。
それがこれ。
先日、「ジャパネットた○た」で注文しておいたものが届きました。
正式な名前は何と言うのか分かりませんけれど、開脚器とでもいうのかしら?
送料込みで1万円くらいでした。
さっそく夫がやってみました。ダサいパジャマ姿で失礼します。
私も試しましたが、足を乗せて、横にスライドするのは簡単なのですけれど、身体を横にして足を前後に開くのは結構きついわ。
一日3分でいいそうですけれど、2分もすると飽きてきますね。
これで足の筋肉がつけばいいのですけれど・・・・。
2012年4月26日木曜日
「和装の美」2 家紋の秘密?
市民カレッジ「和装の美」2回目を受講してきました。
今回は前半は丸山伸彦先生の講義、後半はスライドを見ながらの授業でしたが、日本の服装の歴史がよく分かって本当に面白い内容でした。
私にとって一番の新発見は「家紋」についてです。
今、紋付というと背中にひとつ、袖に二つの3つ紋や、それより2つ多い5つ紋を思い浮かべるのですが、実は昔は上着だけでなく、袴にも紋が付いていたそうなのです。背中の腰の部分、手が当たる膝の部分にも紋があったというから、驚きですね。
この紋というのは、もともとは布と布をはぎ合わせたところの糸をかがった残りをきれいに菊の花のようにしたものなのですが、(「菊とじ」と言います)それが時代が下がるにしたがい、布の分量が少なくなり、菊とじの存在意味はなくなってしまったのにも関わらず、その場所に何か飾りがあったほうがいいというのでしょうか、家紋に変化したというのです。
つまり本来は実用的な意味があったのが、時代が下るに従い、装飾の意味になったのです。
これは主に庶民の衣類だった水干や直垂(ひたたれ)は縫い目と縫い目の間に補強の意味で、糸をかがっていたのでした。(貴族の衣装は動作が少ないので糸でとじていなかった。)
ところが江戸時代あたりになり、だんだんと邪魔な部分は省かれるようになり、袖も二幅から一幅になり、また裃のように袖がない形式の服になったとき、菊とじのかわりに家紋が登場したというわけなんだそうです。
これって目から鱗ですよね。
ウィキペディアからお借りした「裃」の写真です。
これは上下が同じ布で作られていますが、時代が下ると、上下別々の布のものを着ることもあったそうです。今の替え上着みたいなかんじでしょうか。
また前回のテーマであった「日本の服にはどうして文様があるか」という質問に対する答えはこちらです。
桃山時代ごろになり、男性も女性もそれまで下着として着ていた小袖を上着として着るようになると、服装での性差がなくなってしまいました。当時は男性でもきれいな柄のもようが段々になった小袖を着ていました。
そうなると「弱い性のほうを飾り立てる」」という服飾の法則から、弱い性であった女性の小袖を飾るということになり、女性の小袖がどんどん模様がついて派手になってきたんだそうです。
なーるほどね。
ということはオシャレに命をかける男性は、弱い性ということになるのでしょうかね?
後半は源頼朝像、 毛利元就像、武田信玄像、伊達正宗像などの絵画を見ながらのお勉強。
「伝頼朝像」と言われている方の衣装です。
こんなに固い衣装を着ていたら動きづらいですよね。
描かれている衣装を細かく見ていくと、微妙な違いもあり時代の変化が読み取れます。
今まで、そんなふうにして絵画を見たことがなかったので、とても参考になりました。
それと今は着物は「右前」に着ていますが、これも大昔は左前が普通だったようです。
「はにわ」の画像を見せていただきましたが、はにわは左前に着ていました。
養老3年に「右前に着ること」という命令が出る以前は、きちんと決まっていなかったそうです。
そしてテレビの大河ドラマなどでいかに時代考証がいい加減であるかも教えてもらいました。
袴を締める帯の色を見ただけで、時代考証がちゃんとしているかどうかが分かるのです。
これは笑えましたね。
他にもいろいろと面白いお話を聞かせていただきましたが、市でやっているカルチャースクールなので、1回の講義が1,000円程度なのです。
これは嬉しいですよね。
*******
この日の装いは、うたどんさんのお母様からいただいた藍色の紬。
ちょっと模様が見えませんが、織りの模様が入っています。
それに例のカット帯。
お太鼓の柄がうまく出て、模様がつながったようにできました。
ちょっとしたオシャレですが、羽織の紐のかわりにブレスレットを使ってみました。
このブレスレットは母がどこかに旅行に行って買ってきた琥珀なのですが、ブレスレットはあまり使わないので、結び紐の代わりにしてみました。
今回は前半は丸山伸彦先生の講義、後半はスライドを見ながらの授業でしたが、日本の服装の歴史がよく分かって本当に面白い内容でした。
私にとって一番の新発見は「家紋」についてです。
今、紋付というと背中にひとつ、袖に二つの3つ紋や、それより2つ多い5つ紋を思い浮かべるのですが、実は昔は上着だけでなく、袴にも紋が付いていたそうなのです。背中の腰の部分、手が当たる膝の部分にも紋があったというから、驚きですね。
この紋というのは、もともとは布と布をはぎ合わせたところの糸をかがった残りをきれいに菊の花のようにしたものなのですが、(「菊とじ」と言います)それが時代が下がるにしたがい、布の分量が少なくなり、菊とじの存在意味はなくなってしまったのにも関わらず、その場所に何か飾りがあったほうがいいというのでしょうか、家紋に変化したというのです。
つまり本来は実用的な意味があったのが、時代が下るに従い、装飾の意味になったのです。
これは主に庶民の衣類だった水干や直垂(ひたたれ)は縫い目と縫い目の間に補強の意味で、糸をかがっていたのでした。(貴族の衣装は動作が少ないので糸でとじていなかった。)
ところが江戸時代あたりになり、だんだんと邪魔な部分は省かれるようになり、袖も二幅から一幅になり、また裃のように袖がない形式の服になったとき、菊とじのかわりに家紋が登場したというわけなんだそうです。
これって目から鱗ですよね。
ウィキペディアからお借りした「裃」の写真です。
これは上下が同じ布で作られていますが、時代が下ると、上下別々の布のものを着ることもあったそうです。今の替え上着みたいなかんじでしょうか。
また前回のテーマであった「日本の服にはどうして文様があるか」という質問に対する答えはこちらです。
桃山時代ごろになり、男性も女性もそれまで下着として着ていた小袖を上着として着るようになると、服装での性差がなくなってしまいました。当時は男性でもきれいな柄のもようが段々になった小袖を着ていました。
そうなると「弱い性のほうを飾り立てる」」という服飾の法則から、弱い性であった女性の小袖を飾るということになり、女性の小袖がどんどん模様がついて派手になってきたんだそうです。
なーるほどね。
ということはオシャレに命をかける男性は、弱い性ということになるのでしょうかね?
後半は源頼朝像、 毛利元就像、武田信玄像、伊達正宗像などの絵画を見ながらのお勉強。
「伝頼朝像」と言われている方の衣装です。
こんなに固い衣装を着ていたら動きづらいですよね。
描かれている衣装を細かく見ていくと、微妙な違いもあり時代の変化が読み取れます。
今まで、そんなふうにして絵画を見たことがなかったので、とても参考になりました。
それと今は着物は「右前」に着ていますが、これも大昔は左前が普通だったようです。
「はにわ」の画像を見せていただきましたが、はにわは左前に着ていました。
養老3年に「右前に着ること」という命令が出る以前は、きちんと決まっていなかったそうです。
そしてテレビの大河ドラマなどでいかに時代考証がいい加減であるかも教えてもらいました。
袴を締める帯の色を見ただけで、時代考証がちゃんとしているかどうかが分かるのです。
これは笑えましたね。
他にもいろいろと面白いお話を聞かせていただきましたが、市でやっているカルチャースクールなので、1回の講義が1,000円程度なのです。
これは嬉しいですよね。
*******
この日の装いは、うたどんさんのお母様からいただいた藍色の紬。
ちょっと模様が見えませんが、織りの模様が入っています。
それに例のカット帯。
お太鼓の柄がうまく出て、模様がつながったようにできました。
ちょっとしたオシャレですが、羽織の紐のかわりにブレスレットを使ってみました。
このブレスレットは母がどこかに旅行に行って買ってきた琥珀なのですが、ブレスレットはあまり使わないので、結び紐の代わりにしてみました。
2012年4月25日水曜日
急に変わってしまった!
このブログはグーグルが運営していて、誰でも無料で簡単にできるので私も使っているのですけれど、先週末、ブログの作成方法が急に変わってしまい、戸惑っています。
たとえばこれまで写真を載せたいときは、写真挿入をクリックすればそれでよかったのに、今は一度写真をネットワーク上に載せて、そしてその中からまた選択するという二段階方式になってしまいました。これが結構めんどくさいのですよ。
おまけに改行がなかなか思い通りにいかないの。
それでも動画の挿入ができるようになったり、文章や写真の位置や大きさを自由に変更できるようにはなったのですが、やはり昔のほうがやりやすかったですね。
新しいやり方を完全にマスターしていないので、あたふたしながら作成しています。
こちらは少しずつ変わってきている子です。
(娘から写真が送られてきたので、ちょっと加工しました。)
離乳食を始めているそうですが、ちょっとは引き締まってきたみたいね。
お座りが上手になったとか。
つぶらな瞳が可愛いけれど、それにしても、鼻ペチャだわ~。
たとえばこれまで写真を載せたいときは、写真挿入をクリックすればそれでよかったのに、今は一度写真をネットワーク上に載せて、そしてその中からまた選択するという二段階方式になってしまいました。これが結構めんどくさいのですよ。
おまけに改行がなかなか思い通りにいかないの。
それでも動画の挿入ができるようになったり、文章や写真の位置や大きさを自由に変更できるようにはなったのですが、やはり昔のほうがやりやすかったですね。
新しいやり方を完全にマスターしていないので、あたふたしながら作成しています。
こちらは少しずつ変わってきている子です。
(娘から写真が送られてきたので、ちょっと加工しました。)
離乳食を始めているそうですが、ちょっとは引き締まってきたみたいね。
お座りが上手になったとか。
つぶらな瞳が可愛いけれど、それにしても、鼻ペチャだわ~。
2012年4月24日火曜日
シルック着物とカット帯
先日の桜庭コンサート▼では、佐伯さんのおうちは八重桜だけではなく、チューリップもパンジーも満開。華やかなお庭です。
こちらのお庭は6月には薔薇が咲き乱れるそうです。
さてこの日の天気は雨の予報だったので、雨の日もOKという東レシルック着物にしました。
写真だと紬のように見えますね。
帯は先日、新品を買ってすぐに長さを切ってしまった渋めの帯▼です。
30センチほどカットして、ちょうど良い長さになったので、楽に結べました。
お化粧から始めて、足袋を履いて下着をつけて、着物と帯まで15分くらいで完成です。
ちなみに帯もポリエステルなのですが、全然分からないでしょ?
雨の予報でしたが、出かけるときと演奏中は曇り空でした。
演奏が終わって帰ろうとしたところ、雨が降ってきました。
でもシルック着物でしたので、大丈夫。
本物の絹の着物に比べるとちょっとゴワゴワした感じもしますが、雨でも気楽に着て歩けるのはいいですね。
こちらのお庭は6月には薔薇が咲き乱れるそうです。
さてこの日の天気は雨の予報だったので、雨の日もOKという東レシルック着物にしました。
写真だと紬のように見えますね。
帯は先日、新品を買ってすぐに長さを切ってしまった渋めの帯▼です。
30センチほどカットして、ちょうど良い長さになったので、楽に結べました。
お化粧から始めて、足袋を履いて下着をつけて、着物と帯まで15分くらいで完成です。
ちなみに帯もポリエステルなのですが、全然分からないでしょ?
雨の予報でしたが、出かけるときと演奏中は曇り空でした。
演奏が終わって帰ろうとしたところ、雨が降ってきました。
でもシルック着物でしたので、大丈夫。
本物の絹の着物に比べるとちょっとゴワゴワした感じもしますが、雨でも気楽に着て歩けるのはいいですね。
2012年4月23日月曜日
桜庭サロンコンサート
今年もまた桜庭(さくらてい)でのコンサートの季節となりました。
このコンサートは、お隣の市に住んでいらっしゃる音楽家の佐伯恵美さんがご自宅を開放されてのホームコンサートです。佐伯さんのおうちのお庭には立派な八重桜があるので、桜庭と呼んでいます。
このコンサートでは佐伯さんが弾くクラビコードやチェンバロに合わせて様々な楽器とのコラボがあり、それがいつも新鮮な響きなのですが、今回はなんと三味線とのコラボということで、三味線初心者の私は興味しんしんで桜庭まで赴きました。
コンサートはまずは三味線奏者の山本普乃(ゆきの)さんの独奏から。
ご自分で作曲された優雅な曲や、お座敷小唄(「さのさ」、「梅は咲いたか」、「奴さん」などの有名な曲)を軽やかに演奏されました。
3種類の三味線と4種類のばちを持ちかえての演奏でした。
左手の指先の優雅な動きには、見とれてしまいました。
休憩中の山本さん。
後ろに見えるのが今回、佐伯さんが演奏したチェンバロです。
今回は洋装でしたが、普段の演奏は着物スタイルのようですね。
30年以上のキャリアということですが、とても若々しくて可愛い方です。
そのあとはお楽しみの佐伯さんとの合奏ですが、これが意外とマッチしていました。
「グリーンスリーブス」を聞いたときは、チェンバロと三味線がこれほど似合うとは思いませんでした。
他にもヘンデルの「水上の音楽」、「アメージングブルース」や「朧月夜」も良かったですね。
やはり洋の東西という違いはあっても、どちらも伝統的な曲ということで、よく調和するのかもしれませんね。
アンコールはなんと手拍子つきの「ソーラン節」で賑やかに終了しました。
演奏後、ホッとされたお二人です。
会場の皆さんは大拍手で声援していました。
そしてお楽しみのデザートタイム。
佐伯さんのサロンコンサートはこの手作りのデザートも楽しめるのです。
チョコレート入り羊羹、近江の赤こんにゃくなど珍しいものばかり。
オレンジピールは地元で採れたものだとか。
佐伯さんは音楽だけでなく料理の腕前も素晴らしいですね。
満開の桜の下、素敵なコンサートを聴かせていただき、心も豊かになった日曜日の午後でした。
◆佐伯恵美さんのブログ:http://clavo.blog.so-net.ne.jp/
◆山本普乃さんのHP:http://yukino.kazekusa.jp/
このコンサートでは佐伯さんが弾くクラビコードやチェンバロに合わせて様々な楽器とのコラボがあり、それがいつも新鮮な響きなのですが、今回はなんと三味線とのコラボということで、三味線初心者の私は興味しんしんで桜庭まで赴きました。
コンサートはまずは三味線奏者の山本普乃(ゆきの)さんの独奏から。
ご自分で作曲された優雅な曲や、お座敷小唄(「さのさ」、「梅は咲いたか」、「奴さん」などの有名な曲)を軽やかに演奏されました。
3種類の三味線と4種類のばちを持ちかえての演奏でした。
左手の指先の優雅な動きには、見とれてしまいました。
休憩中の山本さん。
後ろに見えるのが今回、佐伯さんが演奏したチェンバロです。
今回は洋装でしたが、普段の演奏は着物スタイルのようですね。
30年以上のキャリアということですが、とても若々しくて可愛い方です。
そのあとはお楽しみの佐伯さんとの合奏ですが、これが意外とマッチしていました。
「グリーンスリーブス」を聞いたときは、チェンバロと三味線がこれほど似合うとは思いませんでした。
他にもヘンデルの「水上の音楽」、「アメージングブルース」や「朧月夜」も良かったですね。
やはり洋の東西という違いはあっても、どちらも伝統的な曲ということで、よく調和するのかもしれませんね。
アンコールはなんと手拍子つきの「ソーラン節」で賑やかに終了しました。
演奏後、ホッとされたお二人です。
会場の皆さんは大拍手で声援していました。
そしてお楽しみのデザートタイム。
佐伯さんのサロンコンサートはこの手作りのデザートも楽しめるのです。
チョコレート入り羊羹、近江の赤こんにゃくなど珍しいものばかり。
オレンジピールは地元で採れたものだとか。
佐伯さんは音楽だけでなく料理の腕前も素晴らしいですね。
満開の桜の下、素敵なコンサートを聴かせていただき、心も豊かになった日曜日の午後でした。
◆佐伯恵美さんのブログ:http://clavo.blog.so-net.ne.jp/
◆山本普乃さんのHP:http://yukino.kazekusa.jp/
2012年4月22日日曜日
高貴な人々
昨日は明治神宮に蹴鞠を見に行った▼のですが、私はたまたま見た某カルチャースクールのチラシの「伝統文化に学ぶ」▼というコースの中に、「蹴鞠観賞は会費無料」という記事が出ていたので、それで葉書で申し込み、見事抽選に当たったので、出かけたわけです。
まずは「参集館」というところで「蹴鞠保存会」の方による蹴鞠の講義がありました。
ここに集まった人はこのカルチャースクール関係の人が多かったようですが、ところが、どうもカルチャースクールとは関係のない、どこかの皇族や貴族というようなやんごとなき方もかなり見えていました。なんとか会というハイソなグループの方々でした。
なんというかまるで私たち庶民とは雰囲気が違うのですよ。
どこが違うかというと、まずはお顔ですね。
女性はとにかく厚化粧で素顔は分かりませんが、とにかく男性も女性もお顔のつくりが大きいのです。目もお鼻もお口もどっしりという感じ。
それに服装は上質の生地で、デザインも凝っていました。
しかし何よりも違うなと思ったのは、姿勢ですね。
すくっと立つ、ゆったりと座る、というお姿は一朝一夕に身に付くものではないようです。
そのような高貴な方々の間に、どういうわけか入り込んでしまって、ごくごく庶民の私は、なんだかもじもじとしてしまいました。
そういった方々とご一緒する機会はめったにないのですが、とてもスマートに女性を引き立てているおじさまがいて、憧れましたね。ダークブルーのブレザーにグレイのズボン姿でしたが、まさに上流階級という感じでした。
実はこの「霞会」というのは、帰宅してからネットで調べてみたところ、昔の華族の会だったのでした。私の直感は当たっていたのですね!
このような方たちというのは、きっと血族の結束が強く、同じような人たち同士が結婚するので、それで似たような人が多くなるのではないだろうかと想像できますね。
それにしても、上流階級の人というのはオーラがまるで違っていました。
********
さて蹴鞠の講義ですが、昨日のブログにも書きましたが、今から1400年ほど前に中国から伝わった競技だそうです。 その後、平安時代や戦国時代、江戸時代には広く一般庶民まで愛好されていたそうですが、明治維新でいったん途絶えてしまいました。その後、明治天皇が復活するようにというお達しを出したそうです。
毬は鹿の皮をはいで、そして馬の背中の皮で縫い合わせてあります。それに膠が塗られています。とても軽いものでした。
一番独特なのはこの装束でしょうね。 お相撲の行司さんのようなスタイルに、靴のようなものを履いています。
蹴鞠をする場所は毬庭というそうですが、ここは14メートル四方で、テニスコートのようなところです。 そしてこの四方に松・桜・柳・楓の木を植えてあります。
蹴る時は「アリ」、「ヤー」、「オウ」という声を出して蹴るそうです。 優雅な競技ですが、実際にはかなりみなさん、ハッスルして毬を蹴飛ばしていましたね。
*******
蹴鞠は外で行われたのですが、ちょうどその時、明治神宮では結婚式も行われていて、白無垢姿の花嫁さんを見かけました。神殿でのお式が終わって結婚式場へ行く途中だったようです。
まずは「参集館」というところで「蹴鞠保存会」の方による蹴鞠の講義がありました。
ここに集まった人はこのカルチャースクール関係の人が多かったようですが、ところが、どうもカルチャースクールとは関係のない、どこかの皇族や貴族というようなやんごとなき方もかなり見えていました。なんとか会というハイソなグループの方々でした。
なんというかまるで私たち庶民とは雰囲気が違うのですよ。
どこが違うかというと、まずはお顔ですね。
女性はとにかく厚化粧で素顔は分かりませんが、とにかく男性も女性もお顔のつくりが大きいのです。目もお鼻もお口もどっしりという感じ。
それに服装は上質の生地で、デザインも凝っていました。
しかし何よりも違うなと思ったのは、姿勢ですね。
すくっと立つ、ゆったりと座る、というお姿は一朝一夕に身に付くものではないようです。
そのような高貴な方々の間に、どういうわけか入り込んでしまって、ごくごく庶民の私は、なんだかもじもじとしてしまいました。
そういった方々とご一緒する機会はめったにないのですが、とてもスマートに女性を引き立てているおじさまがいて、憧れましたね。ダークブルーのブレザーにグレイのズボン姿でしたが、まさに上流階級という感じでした。
実はこの「霞会」というのは、帰宅してからネットで調べてみたところ、昔の華族の会だったのでした。私の直感は当たっていたのですね!
このような方たちというのは、きっと血族の結束が強く、同じような人たち同士が結婚するので、それで似たような人が多くなるのではないだろうかと想像できますね。
それにしても、上流階級の人というのはオーラがまるで違っていました。
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さて蹴鞠の講義ですが、昨日のブログにも書きましたが、今から1400年ほど前に中国から伝わった競技だそうです。 その後、平安時代や戦国時代、江戸時代には広く一般庶民まで愛好されていたそうですが、明治維新でいったん途絶えてしまいました。その後、明治天皇が復活するようにというお達しを出したそうです。
毬は鹿の皮をはいで、そして馬の背中の皮で縫い合わせてあります。それに膠が塗られています。とても軽いものでした。
一番独特なのはこの装束でしょうね。 お相撲の行司さんのようなスタイルに、靴のようなものを履いています。
蹴鞠をする場所は毬庭というそうですが、ここは14メートル四方で、テニスコートのようなところです。 そしてこの四方に松・桜・柳・楓の木を植えてあります。
蹴る時は「アリ」、「ヤー」、「オウ」という声を出して蹴るそうです。 優雅な競技ですが、実際にはかなりみなさん、ハッスルして毬を蹴飛ばしていましたね。
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蹴鞠は外で行われたのですが、ちょうどその時、明治神宮では結婚式も行われていて、白無垢姿の花嫁さんを見かけました。神殿でのお式が終わって結婚式場へ行く途中だったようです。
蹴鞠だけでなく、結婚式の行列も見ることができてラッキーでした。
この日の装いは、古い日本のスポーツに敬意を払うように(?)、白の牡丹柄の着物と松と手鏡模様の重厚な帯にしました。
(フラッシュをたいて写したので、影が写っていますね。)
二重太鼓がうまくいかなくて、何回もやり直しをしてしまいました。
源氏物語風の絵柄が蹴鞠とマッチしたでしょうか。
2012年4月21日土曜日
蹴鞠
(今日のブログは写真をたくさん載せています。)
明治神宮で、「蹴鞠奉納」というのを見る機会がありました。
今年はちょうど明治天皇がお隠れになって100年ということでいろいろな奉納が行われていますが、今回は京都にある「蹴鞠保存会」というところの奉納でした。
蹴鞠といえば平安時代のものだと思っていたのですが、実はなんと中大兄皇子と藤原鎌足が奈良の元興寺で始めたのが最初で、1400年以上も昔から伝わっているものなのだそうです。
まず蹴鞠についての説明を小一時間ほど聞いて、そのあと、場所を移して実際に見学することになりました。
見学者が競技者の登場を待っているところです。
そして競技者が入場します。
みなさん、とてもカラフルな衣装ですね。
烏帽子が飛ばないようにしっかりと結びつけてあります。
毬の入った箱をささげて登場しました。
次にお祓いをしたた毬を神官がささげて入場します。
そしてその毬を競技者の代表が受け取ります。
さて、いよいよ蹴鞠の始まりです。
敷地の中央に毬を置いて、競技が始まります。
そしてみんなで挨拶をしてから始めます。
この方は一番お歳を召していましたが、とてもよく動いていましたね。
サッカーのように高度な技術ではありませんけれど、楽しそうですね。
ポーンポーンと高く毬が上がります。
この方は疲れて交代。
蹴鞠というのは、勝ち負けはないそうです。
なかなか実物を見ることのない蹴鞠ですが、目の前で見ることができてラッキーでした。
明治神宮で、「蹴鞠奉納」というのを見る機会がありました。
今年はちょうど明治天皇がお隠れになって100年ということでいろいろな奉納が行われていますが、今回は京都にある「蹴鞠保存会」というところの奉納でした。
蹴鞠といえば平安時代のものだと思っていたのですが、実はなんと中大兄皇子と藤原鎌足が奈良の元興寺で始めたのが最初で、1400年以上も昔から伝わっているものなのだそうです。
まず蹴鞠についての説明を小一時間ほど聞いて、そのあと、場所を移して実際に見学することになりました。
見学者が競技者の登場を待っているところです。
そして競技者が入場します。
みなさん、とてもカラフルな衣装ですね。
こちらの金色の衣装の方がいちばん偉い方のようです。
先日、束帯の話を学びました▼が、その講義の通り、みなさん、大きな袖のついた衣装に烏帽子をかぶっています。
烏帽子が飛ばないようにしっかりと結びつけてあります。
毬の入った箱をささげて登場しました。
次にお祓いをしたた毬を神官がささげて入場します。
そしてその毬を競技者の代表が受け取ります。
さて、いよいよ蹴鞠の始まりです。
敷地の中央に毬を置いて、競技が始まります。
そしてみんなで挨拶をしてから始めます。
この方は一番お歳を召していましたが、とてもよく動いていましたね。
サッカーのように高度な技術ではありませんけれど、楽しそうですね。
毬は右側の足で蹴るのだそうです。
この方は疲れて交代。
女性の方もいらっしゃいました。
ひとチームは4人で構成されています。
ようやく競技も終わりました。
蹴鞠保存会の皆様、お疲れ様でした。
大事な毬を箱にしまいます。
ちょっと触らせていただきましたが、とても軽いものでした。
この後、観客の中で希望した人はいっしょにプレイをしていました。
蹴鞠についての講義の内容はまたご案内しますね。なかなか実物を見ることのない蹴鞠ですが、目の前で見ることができてラッキーでした。
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