2023年1月30日月曜日

市民カレッジ「文様 3」

市民カレッジ「文様」の3回目の講座でした。

会場はこちらの施設「たづくり」です。

お天気はとても良かったのですが、まだまだ肌寒い日が続いています。

前回は型紙を使い、その上に金粉を使って文様の栞を制作しました。

そしてその栞の用紙を回収して、先生が金粉を定着させる作業をしていただき、こんな状態で戻ってきました。


今回はその最終工程でした。
型紙をぺろりと剥がすと、


下から、こんなふうに金粉がついた文様が現れました。

右は「波」、左は「麻の葉」模様です。

上に穴が空いているので、そこに好きな色の細いリボンを通して結びました。


「波」の右端が滲んでしまっていますが、これは私の作業がいい加減だったのでしょう。

型紙と栞を並べて置いてみました。

金粉がついているので、本に挟むのはなんだか勿体ないですね。

帰宅して、夫に見せたところ、右の文様は波だと当たりましたが、左の文様は「桔梗か?」という返事でした。たしかにそうも見えますが、有名な麻の葉を知らないのね、とがっかり。


後半は、先生の講義でした。

おすすめの文様鑑賞ポイントとして、京都の重森三玲庭園美術館と、白金にある東京都庭園美術館を紹介してくれました。

意外だったのは「縞模様」も一つの文様であるということでした。

その後は、尾形光琳の絵画をヒントにして、日本の文様の特徴をまとめてくれました。

面白かったのは、日本の文様は「シンプルで可愛いくて、すっきりしている」という特徴があるとのことでした。

中国の文様はとても緻密で威厳がある感じなのに比べて、日本の文様は簡単で分かりやすく親しみやすいというのが特徴だということです。

例えてみると、中国から入ってきた漢字はいかめしくて難しいのに比べると、日本ではそれをカタカナやひらがなに変化させて、シンプルで優しい感じにしたということと、同様の意味があるのではないか、という指摘でした。

日中の違いなのか、本家と分家の違いなのか分かりませんが、ちょっと考えてみる価値がありそうですね。

また面白かったのは、家紋を扱ったユーチューブでした。コンパスと鉛筆で家紋を描いていて、とてもユニークな内容でした。

ユーチューブの「」で検索してみて下さい。

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この日の装い。

文様に関係する着物を考えましたが、真冬向きの文様のある着物はあまり手持ちがありません。

それで年末に頂いた着物の中に、文様風の着物があったので、それにしてみました。

鈴のような形の白枠の中に、花がある模様です。


帯は濃紺に縞のすっきりとした帯にしました。

縞模様も文様の一種だという話を聞いて、ちょっと安心しました。

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「一日一句」

春近し 文様選びの 楽しさよ




2023年1月28日土曜日

【ニケ領用水10】ダブルToshikoが行く3 円筒分水〜溝の口

さてあこがれの久地円筒分水(1月20日のブログ参照)を通過しました。


その後、いくつか、名前のない橋を通り過ぎました。ちょっと素っ気ないフェンスの橋でした。


二ヶ領用水の川幅も、かなり狭くなってきました。

国道246号にかかる歩道橋も渡りましたね。


歩道橋の上から眺めた風景です。とても良いお天気でした。正面に見えるのは二子玉川の街でしょうか。


保育園の子供達と一緒になりましたが、彼らは身が軽いので、階段をスイスイと飛ぶように歩いていました。

ここからは溝の口を目指して歩きました。

ここまではのんびりとした用水の道でしたが、歩道橋を過ぎるとかなり近代的な街中になってきました。

駅の近くの橋は、きれいに整備されていました。桜の季節は美しいでしょうね。


法泉坊橋という名前の橋でした。ここには明治6年までは、法泉寺というお寺があり、それにちなんで名付けられたそうです。


こちらは、まちづくりのボラティアさんたちが作成した案内板です。とてもきれいでわかりやすい地図でした。

美しい飾りのある橋が見えてきました。


こちらは人間国宝第一号となった陶芸家・濱田庄司の関係する「濱田橋」です。


彼は明治27年、このあたりで生まれたそうです。ちなみに亡くなったのは陶芸の町・益子でした。また彼の息子も孫もみんな陶芸家なのだとか。


さすがに美しい橋でした。濱田庄司生誕100年を記念して作成された橋です。

気づきませんでしたが、「花筏 二ヶ領用水 流れゆく」という彼の句が彫られているそうです。

お次は「西浦橋」。


こちらは石灯籠のようですね。「二ヶ領用水」の文字も美しい。


これは「大石橋」ですが、ひらがな面しか写せませんでした。

このあたりに「大山街道」という看板があったので、その道を辿っていくと、溝の口駅に到着しました。

駅の周辺でランチをしようと思いましたが、ちょうどお昼休みの時間帯でしたので、 どこも混んでいました。

ということで、結局、駅のすぐ隣りにあるビルの「ジョナサン」に入ることにしました。

ここも注文はパネル式で、給仕ロボットがやってきました。


私は野菜のドリアをいただきました。

ゆっくりと椅子に座ることができ、お腹もいっぱいになったので、溝の口の駅でToshikoさんとお別れすることになりました。

Toshikoさんにとって、二ヶ領用水は始めての場所であり、あちこち付き合っていただいて悪いと思いましたが、面白がっていただき、気が楽になりました。

ということで、南武線に沿って二ヶ領用水を歩いたミニトリップでした。

宿河原駅から久地駅を通り、津田山駅はパスして溝の口駅まで。1万歩以上歩いたでしょうか。

まだ続きが待っています。早く暖かくなって、あちこちの川沿いを歩きたいものです。

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「一日一句」

春を待ち 二ヶ領用水 友と行く

2023年1月27日金曜日

源氏物語を楽しむ会 54回 2023年1月

2023年になって初めての「源氏物語を楽しむ会」でした。

私たちはふだんはラインやfacebookを通してお互いの情報をやりとりしていますが、それでもリアルでの集まりは楽しいですね。

主に昭和の話題が多いので、若い人が聞いたらなんのこっちゃと思うでしょうが、それはそれで心地よい時間なのです。

さて、今回の源氏物語は、光源氏の若かりし頃の愛人・夕顔の忘れ形見「玉鬘」が、九州から上京する場面です。

玉鬘は都で生まれましたが、幼少の頃、筑紫国に下り、その後、肥前に移動して、はたちになった玉鬘はまた帰京します。まさに「さすらいの女君」です。

帰京は、船旅でした。4月前半ころに出発して、瀬戸内海を渡って、およそひと月ほどかかったようです。

同行したのは夕顔の乳母と息子、娘たちでした。大夫の監という求婚者から逃れるようにしての旅でした。

道中は、このような壷装束だったと思われます。

そしてようやく、一行は九条あたりの知人宅に落ち着くことになったのでした。

この話の中で私たちが気になったことは、道中の食料の準備、ということでした。たぶん、味噌、干飯などは準備して乗船しただろうと思いますが、調理はどのようにしていたのでしょうね。野菜などは、各地の立ち寄り先の港で譲り受けたのでしょうか。

また船の代金は、どのように支払ったのでしょうか。当時は貨幣がまだ流通していなかったので、高貴な人は、自分の着ていたものを目下の者に与えるということをしていたようですが、船旅代金もやはり衣類だったのでしょうか。

そして船旅の一番の脅威は海賊だったようです。心細い思いをしたことでしょう。

いずれにせよ、紫式部さんは登場人物には様々な苦労をさせていますね。

紫式部には、筑紫に住む友人がいたそうです。その女性と文のやりとりをしていて、九州の情報を得ていた、という説があるそうです。

漫画は、大和和紀さんの「あさきゆめみし」より拝借しました。

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この日の装い。

防寒が、一番でしたので、紬のいただきもの着物。黒に立涌模様です。


出かける時は、この上に分厚いウールのコート、マフラー、手袋、耳あてという姿でした。

帯は「日本橋きもの倶楽部」で頂いてきたもの。

真っ赤すぎるかと危惧していましたが、それほどでもなく、ホッとしました。

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「一日一句」

さすらいの 姫を思ひて 冬深し



2023年1月26日木曜日

【二ヶ領用水9】ダブルToshikoが行く2 宿河原〜久地まで

1月20日のブログでは、久地にある「円筒分水」について書きましたが、今回はそこへ行き着くまでの記録です。

こちらは出発点の南武線宿河原駅前にある掲示板。宿河原周辺には見どころがいろいろありそうですね。


駅の南口を出て、昭和29年竣工の宿河原橋にたどり着きました。前にも訪れた二ヶ領用水に架かる橋です。


ここから右へ曲がると、宿河原堰にたどり着きます(1月19日のブログ参照)が、今回は左折しました。

用水の周囲には桜の木がたくさん植えられていました。昭和33年、地元の人の手で植えられ、3キロに渡って400本近くの桜があるそうです。


花が咲いたら、きれいでしょうね。


用水の中には水鳥が気持ちよさそうに泳いでいました。水鳥を写すToshikoさん。


この石畳の上をのんびりと歩いて行きました。

この日は気温12度くらいだったでしょうか、風もなく、とても歩きやすい日でした。

緑橋。


なかなか姿の美しい橋でした。


仲乃橋。

このあたりの用水には、大きな石がゴロゴロとしていました。


八幡下圦樋の記念碑がありました。なんと明治43年(1910 年)竣工でした。


これは宿河原堰から取り入れた水量を調節して、下流が洪水するの防ぐための排水路だそうです。

その後、昭和63年(1988年)、撤去されました。

二ヶ領用水竣工400年記念がありました。こちらは2011年のものです。


川崎市の記念碑です。


その設備があった「八幡下橋」。

しばらく行くと、川崎市緑化センターというところがありました。お硬い名称ですが、半分は子供の遊び場のようになっているところでした。


ここへの入り口は「みどりのつりはし」という小さな橋を渡って入るようでした。

お次は「宿之島橋」。


「たかはし」はひらがな表記しかありませんでした。菖蒲の花のようなレリーフが可愛い。

「中村橋」。よくある名前の橋ですね。


このあたりは周囲は普通の住宅でしたが、急に金ピカの塔が見えてびっくりしました。まさか、京都に来てしまったのか、という感じでした。


近づいてみると、新明国上教という新興宗教の本部でした。


大正時代に生まれた宗教のようでした。

この近くには稲荷神社もありましたが、お互い、喧嘩せずにうまくやっているのでしょうね。橋の後ろにみえるのが神社です。


こちらは「稲荷橋」。神社の近くによくある橋の名前です。


しばらく歩いていくと南武線と交差するところに着きました。

なんとここには「徒然草」の石碑がありました。吉田兼好が宿河原のことを書いた文章があるそうです。鎌倉時代の当時は、どんなひなびたところだったのでしょうね。

そして「宿河原跨線橋」というところをくぐりました。上にある白い部分は、東名高速道路の天井の裏側になります。


非常にややこしい構造になっていました。
JR南武線、二ヶ領用水、東名高速、道路が入り組んでいました。


ここをくぐり抜けると、また「宿河原橋」という橋がありました。「久地橋」のほうがわかりやすいと思いましたが、徒然草に合わせてそういう名前にしたのでしょうか。

こちらは「出会いの橋」です。


ちょっと可愛い吊り橋でした。

これは宿河原堰からの二ヶ領用水が、もう一つの二ヶ領用水(調布の堰からの用水)と出会う場所です。

手前と右から用水が集まり、左側の用水にまとまり、ひとつになります。



こういう場所は大好きなので、別の角度から写してみました。


久地の駅近くにある「新明橋」。南武線の陸橋ですね。


南武線の電車を間近で写すことができました。

久地の駅が見えてきました。

南武線の駅まで来たので、ここで引き返そうかと思いましたが、Toshikoさんが「まだ平気」というので、次の目的地まで行くことにして、久地駅構内にあるトイレを貸してもらいました。

久地駅の近くにある「鷹匠橋」


橋の上には市民の手による花がきれいに植えられていました。


この先は府中街道に沿って用水の際を歩きました。


今までよりも川幅が広くなりました。

「堰前橋」。


「久地の横土手」
ここの隣には小さな祠がありました。

かつて、この場所から多摩川まで、横土手と呼ばれる堤防があったそうです。これは二ヶ領用水の樋を守るために作られたそうですが、たびたびの洪水のため、完成することはなかったとか。上流と下流の住民の争いが起こり、死者が出てしまい、その供養のため、お地蔵さんがいるそうです。


「久地橋」
このあたりでベンチ休憩しました。よくずっと歩いてきたものです。

私たちは用水の左岸を歩いていましたが、そちらには新しいマンションが建っていました。用水の反対側(右岸)には三菱自動車、◯◯工業とか、〇〇産業などの工場が並んでいました


「久地の里公園」

ここに立ち、ふと前方に目をやると、妙な形の建築物がありました。ひょっとしてここが円筒分水かと思うと、足取りも軽くなりました。

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「一日一句」

用水は 花咲く春に 訪れたし