恥ずかしながら、「この子 だあれ?」の第二弾です。
右が私、左が3歳年下の妹です。
(妹に無断公開して怒られるかも)
妹は、1歳か2歳くらい。
私は、4歳か5歳くらいかしら。
場所は多分、うちの実家の庭でしょう。
まぶしそうな顔をしていますね。
二人とも、どちらも母の手作りの服です。
フリルのある水色のワンピースは大好きでした。
後ろでリボンを結ぶスタイル。
今でもよく覚えています。
私は手首に何か巻いていますが、時計なのかしら。
まさかね。
ウン十年経って、いまや私も妹も、どちらも孫のいるおばあさんになりました。
2014年5月31日土曜日
2014年5月30日金曜日
富士山信仰 4 中里富士@清瀬市
ちょっと前のお話です。
都内にある富士山に登ってきました。
その名は「中里富士」。
富士山といっても、高さは11メートル。土を盛り上げたような小山でした。
でも面白いことに、本物の富士山にあるものは全部そろっている、というミニチュア富士山です。
場所は清瀬市という西武線沿線の住宅街の中です。
分かりやすくいうと、東京の西のほうで、埼玉県との境に当たるところにミニ富士山がありました。
「中里富士」は清瀬市公式ホームページでも掲載されていますよ。
こちら▼。
この中里富士は住宅街の中にここだけ異世界のようなのですが、こんもりとした森のようになっていて、周囲には神社もあったし、鳥居もあったし、本物そっくりに作られていました。
この富士山は、江戸時代(文政8年、1825年)に、この辺りに住んでいる富士講の人たちが自分たちで築きあげたものなのだそうです。
その後、明治時代、昭和時代にも改修されたそうです。
いろいろな石碑などを説明している講師と、富士登山の仲間たちです。
馬頭観音、狛犬、お地蔵様、千手観音、記念碑などが建っていました。
三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)もありました。
富士山とお猿さんの縁は深いのだそうです。
説明を聞いてから、みんなで登山しました。
面白かったのは、富士山大噴火によってできた宝永山まであったこと。
山の斜面に立っていました。
ちゃんと何合目という目印もあるのです。
こちらは五合目。
さて山頂に着きました。
ちょっとお山の大将になった気分でした。
ここにも信仰の対象となるようなもの、たとえば祠とか小さな鳥居もありました。
ここでは年に1度、9月1日には「「火の花祭り」というお祭りをしているそうです。
このお祭りはこの地域ではかなり有名なんだそうです。
けっこう大勢の方が参加していますね。
火祭り▼
(写真は清瀬市のHPより拝借しました。)
こちらの写真は、火祭りの時に使う麦わらから実が落ちて、地面に新しい麦が出てきたところです。
富士信仰が良く分からないのは、中里富士は神道でもあり、なおかつ仏教の僧侶である妙覚道了という人が祀られて、庶民のための講を結成するための信仰もあったということです。
神仏習合ということなのでしょうね。
みんなでわいわい言いながら、小山に上ってはしゃぎましたが、この辺りは静かな住宅地なので、良い年をした大人が子供のようにして山で遊んでいる姿は、どんなふうに映ったでしょうね。
このミニ登山は、市民カレッジの一環として行ったものです。
前回、府中市の富士山には着物で登りましたが、その時に草履をひどくしてしまったことに懲りて、今回はジーパン姿でした。
(この後に別のところに移動しました。)
都内にある富士山に登ってきました。
その名は「中里富士」。
富士山といっても、高さは11メートル。土を盛り上げたような小山でした。
でも面白いことに、本物の富士山にあるものは全部そろっている、というミニチュア富士山です。
場所は清瀬市という西武線沿線の住宅街の中です。
分かりやすくいうと、東京の西のほうで、埼玉県との境に当たるところにミニ富士山がありました。
「中里富士」は清瀬市公式ホームページでも掲載されていますよ。
こちら▼。
この中里富士は住宅街の中にここだけ異世界のようなのですが、こんもりとした森のようになっていて、周囲には神社もあったし、鳥居もあったし、本物そっくりに作られていました。
この富士山は、江戸時代(文政8年、1825年)に、この辺りに住んでいる富士講の人たちが自分たちで築きあげたものなのだそうです。
その後、明治時代、昭和時代にも改修されたそうです。
いろいろな石碑などを説明している講師と、富士登山の仲間たちです。
馬頭観音、狛犬、お地蔵様、千手観音、記念碑などが建っていました。
三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)もありました。
富士山とお猿さんの縁は深いのだそうです。
説明を聞いてから、みんなで登山しました。
面白かったのは、富士山大噴火によってできた宝永山まであったこと。
山の斜面に立っていました。
ちゃんと何合目という目印もあるのです。
こちらは五合目。
さて山頂に着きました。
ちょっとお山の大将になった気分でした。
ここにも信仰の対象となるようなもの、たとえば祠とか小さな鳥居もありました。
ここでは年に1度、9月1日には「「火の花祭り」というお祭りをしているそうです。
それも富士吉田の火祭りを真似してはじめたのだとか。
無病息災、豊年満作を祈願するためのもので、麦わらで富士山の形を作り、夜になってからそこに火をつけるのだそうです。このお祭りはこの地域ではかなり有名なんだそうです。
けっこう大勢の方が参加していますね。
火祭り▼
(写真は清瀬市のHPより拝借しました。)
こちらの写真は、火祭りの時に使う麦わらから実が落ちて、地面に新しい麦が出てきたところです。
富士信仰が良く分からないのは、中里富士は神道でもあり、なおかつ仏教の僧侶である妙覚道了という人が祀られて、庶民のための講を結成するための信仰もあったということです。
神仏習合ということなのでしょうね。
みんなでわいわい言いながら、小山に上ってはしゃぎましたが、この辺りは静かな住宅地なので、良い年をした大人が子供のようにして山で遊んでいる姿は、どんなふうに映ったでしょうね。
このミニ登山は、市民カレッジの一環として行ったものです。
前回、府中市の富士山には着物で登りましたが、その時に草履をひどくしてしまったことに懲りて、今回はジーパン姿でした。
(この後に別のところに移動しました。)
2014年5月29日木曜日
納豆・青汁・クロレラ
納豆・青汁・クロレラというと、どれも健康食品ですよね。
ところが、夫の入院先の病院の薬剤師さんから、食事指導があり、この3種類の食品は、夫には絶対に食べさせてはいけないと強く指導されました。
とくに納豆は夫の病気の大敵ということでした。
心ノ臓が悪い人には、納豆はダメなんですって!
朝食の時に時間がなかったり、おかずが足りなかったときには、つい「栄養もあるから」というので納豆に手が出てしまいますね。
しかしそれは健康体の人の話であって、ある種の薬を飲んでいる人にとっては、毒薬のようなものなんだそうです。
「納豆菌」というのがいけないのだそうです。
ちなみに私は毎朝、青汁とりんご、きなこ、牛乳などをミックスさせたジュースを飲んでいますが、まさか青汁もダメだとはね・・・。
これからは、食事の管理もなんだか難しそうだわ。
ところが、夫の入院先の病院の薬剤師さんから、食事指導があり、この3種類の食品は、夫には絶対に食べさせてはいけないと強く指導されました。
とくに納豆は夫の病気の大敵ということでした。
心ノ臓が悪い人には、納豆はダメなんですって!
朝食の時に時間がなかったり、おかずが足りなかったときには、つい「栄養もあるから」というので納豆に手が出てしまいますね。
しかしそれは健康体の人の話であって、ある種の薬を飲んでいる人にとっては、毒薬のようなものなんだそうです。
「納豆菌」というのがいけないのだそうです。
ちなみに私は毎朝、青汁とりんご、きなこ、牛乳などをミックスさせたジュースを飲んでいますが、まさか青汁もダメだとはね・・・。
これからは、食事の管理もなんだか難しそうだわ。
2014年5月28日水曜日
退 院
長年のハードワークのためか、あるいは体質なのか分かりませんが、夫が大掛かりな手術を受けて、ようやく本日、3週間ぶりに退院しました。
懸念された合併症や後遺症も起こらず、とりあえずは安心しました。
毎日、病院に通っていると、世間とは違ういろいろな社会が見えてくるものですね。
院長はじめ多くのお医者さん、看護婦さん、技師さん、さまざまな世話をしてくれる方、ボランティアの方、食事係の方、お掃除の方、薬剤師さん、リハビリ担当者、事務の人・・・・。
病院には本当に多くの方が働いているものだと分かりました。
我儘な患者もいるでしょうに、みなさん、嫌な顔もせずに献身的に優しく接していただき、ありがたいことです。
それにしても、世の中に病気の人がこんなにたくさんいるとは・・・。
そして手術前後の検査の多いこと!
よほど体力がないと、検査だけでも疲労してしまうと思うほどでした。
さまざまな検査の必要性は分かりますが、それが病院の収入源にもなっているのでしょうね。
夫はいったん退院はしましたが、これからは自宅治療とリハビリがあるので、私にとってはそのほうが大変かもしれません。
入院中は、「鬼の居ぬ間に」ではありませんが、あちこち出かけていました。
さまざまな展覧会・美術展、着物のイベント、お芝居、食事会・・・。
(さすがに予定していた京都旅行だけはキャンセルしましたが)
「としちゃんはいつも遊び歩いている」という印象があったかもしれませんが、どこかへお出かけして、誰かと会って、そこでおしゃべりして、そのときだけでも明るい気分になっていたいという気持ちでした。
夫には仕事の復帰と、冬にはスノボやスキーができるよう、今まで通りに元気になってもらいたいと思います。
懸念された合併症や後遺症も起こらず、とりあえずは安心しました。
毎日、病院に通っていると、世間とは違ういろいろな社会が見えてくるものですね。
院長はじめ多くのお医者さん、看護婦さん、技師さん、さまざまな世話をしてくれる方、ボランティアの方、食事係の方、お掃除の方、薬剤師さん、リハビリ担当者、事務の人・・・・。
病院には本当に多くの方が働いているものだと分かりました。
我儘な患者もいるでしょうに、みなさん、嫌な顔もせずに献身的に優しく接していただき、ありがたいことです。
それにしても、世の中に病気の人がこんなにたくさんいるとは・・・。
そして手術前後の検査の多いこと!
よほど体力がないと、検査だけでも疲労してしまうと思うほどでした。
さまざまな検査の必要性は分かりますが、それが病院の収入源にもなっているのでしょうね。
夫はいったん退院はしましたが、これからは自宅治療とリハビリがあるので、私にとってはそのほうが大変かもしれません。
入院中は、「鬼の居ぬ間に」ではありませんが、あちこち出かけていました。
さまざまな展覧会・美術展、着物のイベント、お芝居、食事会・・・。
(さすがに予定していた京都旅行だけはキャンセルしましたが)
「としちゃんはいつも遊び歩いている」という印象があったかもしれませんが、どこかへお出かけして、誰かと会って、そこでおしゃべりして、そのときだけでも明るい気分になっていたいという気持ちでした。
夫には仕事の復帰と、冬にはスノボやスキーができるよう、今まで通りに元気になってもらいたいと思います。
2014年5月27日火曜日
この子、だあれ?
先日のいとこ会で、貴重なものをもらってきました。
というのも、家の整理をしていた年上のいとこが、「ねぇ、うちにとしちゃんの昔の写真があったのよ」と言って、モノクロ写真を渡してくれました。
実は、うちには昔のアルバムが1冊もありません。
というのも亡くなった父が、誤ってアルバムを全部、燃えるゴミに出してしまったのです。
それで私が小さいころの写真は記憶の中にしか残っていなかったので、とても嬉しくなりました。
この子、だあれ?
ふふ、幼稚園のころの私の姿です。
むちむちしていますね。
おかっぱ頭が風になびいていますが、リボンが可愛いでしょ。
このころはリボンをつけるのが流行っていたような記憶があります。
紺色のチェックのワンピースは、スカラップの付いた白い襟が大好きでした。
赤いつつじの花が咲いていた実家の庭で写したものです。
昭和の風景ですね。
というのも、家の整理をしていた年上のいとこが、「ねぇ、うちにとしちゃんの昔の写真があったのよ」と言って、モノクロ写真を渡してくれました。
実は、うちには昔のアルバムが1冊もありません。
というのも亡くなった父が、誤ってアルバムを全部、燃えるゴミに出してしまったのです。
それで私が小さいころの写真は記憶の中にしか残っていなかったので、とても嬉しくなりました。
この子、だあれ?
ふふ、幼稚園のころの私の姿です。
むちむちしていますね。
おかっぱ頭が風になびいていますが、リボンが可愛いでしょ。
このころはリボンをつけるのが流行っていたような記憶があります。
紺色のチェックのワンピースは、スカラップの付いた白い襟が大好きでした。
赤いつつじの花が咲いていた実家の庭で写したものです。
昭和の風景ですね。
2014年5月26日月曜日
いとこ会
昨日は、年に一度、いとこたちが集まる日でした。
今回の会場は、山手線・大崎駅近くの「謝朋殿」▼という中華料理屋さんでした。
集まったのは、70代のいとこたち3名、60代のいとこたち5名、40代のいとこのこどもたち3名、30代のいとこのこどもたち4名、だったかしら。
その中で、一番の注目の的は、いとこのこどものこども(つまりいとこの孫)である3歳の男女の双子ちゃんたちでした。
女の子はパパ似、男の子はママ似でした。
同じ年なのに、女の子のほうがかなり大きくて、おしゃまです。
男の子は恥ずかしがり屋さん。
すぐにママの陰に隠れてしまいます。
双子の子育ては本当に大変そう。
一人が風邪をひくと必ずうつってしまうし、お昼寝も一度に寝てくれないそうです。
パパとママが交代で面倒を見ていましたが、協力しないと双子の子育てはできないでしょうね。
何十年前には、私たちが子供世代だったのに、今や、おじいさん、おばあさん世代となりました。
******
おいしいお料理をいただいてきました。
前菜。
お皿があまり中華っぽくありませんね。
ふかひれスープ。
これはとても柔らかくておいしかったです。
エビと野菜の炒めもの。
さっぱりしたお味でした。
牛ヒレ肉ときのこ類のソース煮。
これもあまり中華風ではありませんね。西洋料理のような感じでした。
カニ足の揚げ物。
これはおいしかったですね。子供たちもむしゃむしゃ食べていました。
北京ダックと、蒸ししゅうまい。
このくらいの量で充分です。
金目鯛と豆腐の蒸しもの。
見た目よりもあっさりタイプ。でも金目鯛は煮つけのほうがいいな。
揚げご飯に野菜のあんかけ。
これはピリ辛味がかなり効いていました。
デザート三種。
ココナッツ、杏仁豆腐、ゴマ団子。
全体的に上品な味付けで、普通の中華料理とはちょっと異なる感じだったかしら。
おなかいっぱいいただきました。
******
この日の装い。
遠州木綿の縦じま着物。
なんだか眠たそうな顔をしていますね。
木綿着物は、食事中はかなり暑く感じましたが、電車の中はクーラーが効いていたので、ちょうどよかったですね。
着るものに悩む頃です。
今回の会場は、山手線・大崎駅近くの「謝朋殿」▼という中華料理屋さんでした。
集まったのは、70代のいとこたち3名、60代のいとこたち5名、40代のいとこのこどもたち3名、30代のいとこのこどもたち4名、だったかしら。
その中で、一番の注目の的は、いとこのこどものこども(つまりいとこの孫)である3歳の男女の双子ちゃんたちでした。
女の子はパパ似、男の子はママ似でした。
同じ年なのに、女の子のほうがかなり大きくて、おしゃまです。
男の子は恥ずかしがり屋さん。
すぐにママの陰に隠れてしまいます。
双子の子育ては本当に大変そう。
一人が風邪をひくと必ずうつってしまうし、お昼寝も一度に寝てくれないそうです。
パパとママが交代で面倒を見ていましたが、協力しないと双子の子育てはできないでしょうね。
何十年前には、私たちが子供世代だったのに、今や、おじいさん、おばあさん世代となりました。
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おいしいお料理をいただいてきました。
前菜。
お皿があまり中華っぽくありませんね。
ふかひれスープ。
これはとても柔らかくておいしかったです。
エビと野菜の炒めもの。
さっぱりしたお味でした。
牛ヒレ肉ときのこ類のソース煮。
これもあまり中華風ではありませんね。西洋料理のような感じでした。
カニ足の揚げ物。
これはおいしかったですね。子供たちもむしゃむしゃ食べていました。
北京ダックと、蒸ししゅうまい。
このくらいの量で充分です。
金目鯛と豆腐の蒸しもの。
見た目よりもあっさりタイプ。でも金目鯛は煮つけのほうがいいな。
揚げご飯に野菜のあんかけ。
これはピリ辛味がかなり効いていました。
デザート三種。
ココナッツ、杏仁豆腐、ゴマ団子。
全体的に上品な味付けで、普通の中華料理とはちょっと異なる感じだったかしら。
おなかいっぱいいただきました。
******
この日の装い。
遠州木綿の縦じま着物。
なんだか眠たそうな顔をしていますね。
木綿着物は、食事中はかなり暑く感じましたが、電車の中はクーラーが効いていたので、ちょうどよかったですね。
着るものに悩む頃です。
2014年5月25日日曜日
冬仕舞・夏仕度
このことろ、暑くなるのが年々早くなっているようなので、連休の前後から、少しずつ衣替えをしていました。
でも、これだけは残ってしまった冬物。
それは去年からずーっと使い続けていたふわふわの自転車ハンドル・カバーです。
外側がビニール加工されているので、雨の日でもOK。
ということで愛用していましたが、さすがに手が蒸れてくるので、きれいに洗いました。
着物は、もう袷着物はほとんどしまいました。
そして初夏用にシフトさせています。
半襟も付け替えて中。
買うと結構な値段がするので、手芸用品屋さんでコットンレースの生地を少しだけ買ってきて、夏向きにバージョンアップ。
昨日は、銀座方面に出かけるついでがあったので、有楽町で開かれている着物の催事に行ってきました。
そこでは、着物モデル・和小物制作者として人気者のSさんが、夏用の着物肌着の売り子さんをしているというので、どんなものかと教えてもらいに行きました。
ネットや口コミでは評判の良い肌着ですが、実物を手にとってみました。
着装の方法を聞いたり、生地を触らせてもらったり。
あれこれ工夫されているんですね。
でも、買い物はせずに、すいませんでした。
そんなこんなで夏への準備をしているところです。
*****
この日の装い。
三河木綿の黄色の縦じま着物。
帯は最初は黄色っぽい帯を考えていたのですが、合わせてみると、どうもおかしい。
次に黒地の帯にしてみたのですが、それもおかしい。
涼しく見せたいので、ようやく3本目の青い麻の帯に落ち着きました。
実はこれは地元の骨董市で1000円で買ったもの。
初めて使ってみましたが、軽くて締めやすかったですね。
帯留はあまりしないほうですが、やはり骨董市で買った500円のとんぼ玉を付けてみました。
でも、これだけは残ってしまった冬物。
それは去年からずーっと使い続けていたふわふわの自転車ハンドル・カバーです。
外側がビニール加工されているので、雨の日でもOK。
ということで愛用していましたが、さすがに手が蒸れてくるので、きれいに洗いました。
着物は、もう袷着物はほとんどしまいました。
そして初夏用にシフトさせています。
半襟も付け替えて中。
買うと結構な値段がするので、手芸用品屋さんでコットンレースの生地を少しだけ買ってきて、夏向きにバージョンアップ。
昨日は、銀座方面に出かけるついでがあったので、有楽町で開かれている着物の催事に行ってきました。
そこでは、着物モデル・和小物制作者として人気者のSさんが、夏用の着物肌着の売り子さんをしているというので、どんなものかと教えてもらいに行きました。
ネットや口コミでは評判の良い肌着ですが、実物を手にとってみました。
着装の方法を聞いたり、生地を触らせてもらったり。
あれこれ工夫されているんですね。
でも、買い物はせずに、すいませんでした。
そんなこんなで夏への準備をしているところです。
*****
この日の装い。
三河木綿の黄色の縦じま着物。
帯は最初は黄色っぽい帯を考えていたのですが、合わせてみると、どうもおかしい。
次に黒地の帯にしてみたのですが、それもおかしい。
涼しく見せたいので、ようやく3本目の青い麻の帯に落ち着きました。
実はこれは地元の骨董市で1000円で買ったもの。
初めて使ってみましたが、軽くて締めやすかったですね。
帯留はあまりしないほうですが、やはり骨董市で買った500円のとんぼ玉を付けてみました。
2014年5月24日土曜日
中島京子 「小さいおうち」
山田洋次監督の「小さいおうち」▼は、出演した黒木華が第64回ベルリン国際映画祭最優秀女優賞(銀熊賞)を受賞して、かなり評判になりましたね。
私もこの映画を見ようかとも思ったのですが、松たか子が嫌いなので(夫が大ファンなのでそれに反発して)、どうしようかなと思っていたのです。
そうしたら、先日、ブックオフで、中島京子さんの原作が200円で売られていたので、さっそく買ってきて読みました。
映画評を読む限りでは、奥様の松たか子の不倫ばかりが強調されていたような感じがしましたが、小説は全然違いましたね。
私が思った一つの主題は、作者は、戦前の都会の中流家庭の実態を、田舎から出てきた若い女中さんの目から見て描きたかったのだろう、ということです。
この小説の時代は昭和初期から戦争に突入するまでがメインですが、ちょうど私の母が少女時代だったころの話です。
「2.26事件のあった日は大雪で、女学校から下校するのが大変だった」とか、物資が不足したころの話など、母からよく聞かされていました。
また母の実家では、「ねえや」と呼ばれる女中さんがいました。
戦後、私が母の実家に遊びに行くと、そのころはもう女中さんはいませんでしたが、女中部屋というのがまだ残っていて、私たち子供はよくそこでかくれんぼなどをして遊んだ記憶があります。
そういう、ちょっと昔のことを思い出させる小説になっていました。
もうひとつの主題は、映画はどのような構成になっていたか分かりませんが、小説では女中さんの甥の子供という現代に生きる若者が、もう年寄りになったかつての奥様の子供と出会い、戦前・戦中・戦後の一連の真実が分かるという、複雑な構成をとったことではないでしょうか。
この作家の試みは、途中まで読んでいた時は、なんでこんなに複雑な構成にするのだろう、と不思議に思っていましたが、最後の最後のところで、すーっと話が繋がって、腑に落ちました。
あっと驚くミステリーのような展開でした。
こういう入り組んだ構成の小説は、小説家にとっては、きっとなぞ解き作りの楽しみでもあり、読者への挑戦状でもあるのでしょうね。
そういうところも直木賞受賞作品としての価値があるのでは、と思いました。
ところで、女中のタキが、外出先から帰ってきた奥様の着物姿を見て、帯の柄の出方が出かける前と違うので、不倫に気づいたとありましたが、でもこれってちょっとあり得ないのではないかしら。
帯の巻き方は、関東巻き、関西巻きといって、つまり帯を時計回りに巻くか、その反対周りに巻くかという二つの方法があります。それによって、柄の出方が変わってくるのです。
しかし、普通の人は自分の巻き方はどちらかに決めてあるので、いくら慌てても、反対に巻くことはないだろうと思いますね。
お太鼓の柄の出方が微妙に違う、とか、帯揚げの結び方が微妙に違う、というのは現実的だと思うので、そのほうが良かったのではと思いますが、それだと着物を着ない人には分かりづらいかもしれませんね。
それと映画ではタキ役の女優さんはかなりすっきりとしたスタイルの方でしたが、小説ではずんぐりむっくりの健康体と書いてあったので、ちょっと違うかな。
青年役は吉岡秀隆だったそうですが、それも違いますね~。
私自身は戦前の生活は話に聞いているだけで、実際のことは良く分からないのですが、この小説では、戦前の東京を描くということにおいては、かなりうまく書けていると思います。
食糧難の時代であっても、タキの作る創作料理は本当においしそうで、目の前に浮かんでくるようでした。
また登場人物の東京弁の言葉づかいもきれいで、読んでいて気持ちよいものでした。
この時代とは比較できませんが、私の娘から、教科書に載っている「昭和の暮らし」というのを見て、「お母さんの子供のころはちゃぶ台でご飯を食べていたの?」と聞かれたことがありました。
しかし戦後でも、我が家にはダイニングテーブルがあり、そこで椅子に座ってパンを食べていました。
「教科書とは違うわよ」と話しても、娘世代には、戦後の生活というのは、きっとすごく貧しいものだと思っているのでしょうね。
戦後でも、近所の友達の家には今では考えられないほど立派な応接セットがあり、応接間には百科事典がズラリと並んでいました。今の「リビング」などというチャチなものではなく、そこは本当に「応接間」なのでした。
そういう昭和の生活風景があったということは、忘れられているのかもしれませんね。
歴史をステレオタイプで考えるのは、事実とは異なりますね。
赤い三角屋根の小さいおうち、映画は見ませんでしたが、小説としては十分に堪能できました。
私もこの映画を見ようかとも思ったのですが、松たか子が嫌いなので(夫が大ファンなのでそれに反発して)、どうしようかなと思っていたのです。
そうしたら、先日、ブックオフで、中島京子さんの原作が200円で売られていたので、さっそく買ってきて読みました。
映画評を読む限りでは、奥様の松たか子の不倫ばかりが強調されていたような感じがしましたが、小説は全然違いましたね。
私が思った一つの主題は、作者は、戦前の都会の中流家庭の実態を、田舎から出てきた若い女中さんの目から見て描きたかったのだろう、ということです。
この小説の時代は昭和初期から戦争に突入するまでがメインですが、ちょうど私の母が少女時代だったころの話です。
「2.26事件のあった日は大雪で、女学校から下校するのが大変だった」とか、物資が不足したころの話など、母からよく聞かされていました。
また母の実家では、「ねえや」と呼ばれる女中さんがいました。
戦後、私が母の実家に遊びに行くと、そのころはもう女中さんはいませんでしたが、女中部屋というのがまだ残っていて、私たち子供はよくそこでかくれんぼなどをして遊んだ記憶があります。
そういう、ちょっと昔のことを思い出させる小説になっていました。
もうひとつの主題は、映画はどのような構成になっていたか分かりませんが、小説では女中さんの甥の子供という現代に生きる若者が、もう年寄りになったかつての奥様の子供と出会い、戦前・戦中・戦後の一連の真実が分かるという、複雑な構成をとったことではないでしょうか。
この作家の試みは、途中まで読んでいた時は、なんでこんなに複雑な構成にするのだろう、と不思議に思っていましたが、最後の最後のところで、すーっと話が繋がって、腑に落ちました。
あっと驚くミステリーのような展開でした。
こういう入り組んだ構成の小説は、小説家にとっては、きっとなぞ解き作りの楽しみでもあり、読者への挑戦状でもあるのでしょうね。
そういうところも直木賞受賞作品としての価値があるのでは、と思いました。
ところで、女中のタキが、外出先から帰ってきた奥様の着物姿を見て、帯の柄の出方が出かける前と違うので、不倫に気づいたとありましたが、でもこれってちょっとあり得ないのではないかしら。
帯の巻き方は、関東巻き、関西巻きといって、つまり帯を時計回りに巻くか、その反対周りに巻くかという二つの方法があります。それによって、柄の出方が変わってくるのです。
しかし、普通の人は自分の巻き方はどちらかに決めてあるので、いくら慌てても、反対に巻くことはないだろうと思いますね。
お太鼓の柄の出方が微妙に違う、とか、帯揚げの結び方が微妙に違う、というのは現実的だと思うので、そのほうが良かったのではと思いますが、それだと着物を着ない人には分かりづらいかもしれませんね。
それと映画ではタキ役の女優さんはかなりすっきりとしたスタイルの方でしたが、小説ではずんぐりむっくりの健康体と書いてあったので、ちょっと違うかな。
青年役は吉岡秀隆だったそうですが、それも違いますね~。
私自身は戦前の生活は話に聞いているだけで、実際のことは良く分からないのですが、この小説では、戦前の東京を描くということにおいては、かなりうまく書けていると思います。
食糧難の時代であっても、タキの作る創作料理は本当においしそうで、目の前に浮かんでくるようでした。
また登場人物の東京弁の言葉づかいもきれいで、読んでいて気持ちよいものでした。
この時代とは比較できませんが、私の娘から、教科書に載っている「昭和の暮らし」というのを見て、「お母さんの子供のころはちゃぶ台でご飯を食べていたの?」と聞かれたことがありました。
しかし戦後でも、我が家にはダイニングテーブルがあり、そこで椅子に座ってパンを食べていました。
「教科書とは違うわよ」と話しても、娘世代には、戦後の生活というのは、きっとすごく貧しいものだと思っているのでしょうね。
戦後でも、近所の友達の家には今では考えられないほど立派な応接セットがあり、応接間には百科事典がズラリと並んでいました。今の「リビング」などというチャチなものではなく、そこは本当に「応接間」なのでした。
そういう昭和の生活風景があったということは、忘れられているのかもしれませんね。
歴史をステレオタイプで考えるのは、事実とは異なりますね。
赤い三角屋根の小さいおうち、映画は見ませんでしたが、小説としては十分に堪能できました。
2014年5月23日金曜日
「バルテュス展」文化講演会
東京都美術館で開催中の「バルテュス展」▼について、同館の学芸員さんから解説していただく文化講演会に行ってきました。
実はこの講演会に参加すると、入場券が無料でいただける、というのがこの会のミソなのです。
こちらが、講演会終了後に受け取った無料鑑賞券のチケット。
私は西洋洋画についてはほとんど知識がなく、バルテュスさんの絵もなんとなく知っているくらいで特にファンでもないのですが、奥様の節子さんの着物姿や豪勢なお住まいをよく雑誌などで拝見していたので、それで興味がありました。
学芸員さんから伺ったお話を少しまとめてみました。
バルテュスという人は、本名はバルタザール・クロソフスキーという長い名前で、1908年2月29日(つまりうるう年のうるう日)に、ポーランド人のお父さんとユダヤ系ドイツ人のお母さんから生まれました。両親とも画家で、お兄さんも画家という一家だったそうです。
彼は長い間、パリに住んでいました。
かなり早熟な少年だったようで、11歳の時に、「ミツ」という猫と過ごした日々の画集を制作しました。
この「ミツ」というのは、日本語の「光」の音読みでもあり、そのころからバルテュスは、日本や中国の文化に興味を持っていたそうです。
この画集の出版にあたっては、彼の母親がリルケと愛人関係にあったので、それで出版に至ったそうです。
バルテュスは絵画だけではなく、演劇の舞台デザインなども手掛けたそうで、多くの才能の持ち主だったのですね。
26歳の時に、初めて個展を開きました。
ピカソからも「20世紀最後の巨匠」と、言われたほどだそうです。
30歳の時、「夢見るテレーズ」を制作しました。
この絵のモデルは、隣に住んでいた少女だそうですが、図の構成(斜めの線、横の線など)や、絵の質感が非常に優れているということでした。
ここにも猫が描かれていますね。
その後、45歳の時に、フランスの片田舎のシャシーというところに移り、ここでは風景画をたくさん描いたそうです。
53歳の時に今度はイタリアのローマに移り、ここではアカデミー・ド・フランスの館長さんを務めました。
その後、パリでの日本古美術展を準備するために来日して、そこで節子さんと出会いました。
彼女と結婚後は、節子夫人をモデルにした「朱色の机と日本の女」を制作しました。
この絵は西洋の遠近法とはまるで逆の方法を使用しているそうで(畳や机の幅が前後で同じ)、そこがヨーロッパの人たちには新鮮に映ったとのことでした。
そして69歳の時、スイスのロシニエールというところで、お城のようなグラン・シャレに居をかまえました。
ここのアトリエは、大きな窓があり、自然の光をうまく使っていたそうです。
今回の美術展では、スイスのアトリエからいろいろなものを持ち込み、本物と同じように再現してあるそうです。
学芸員さんの解説を聴いた後に、客席からの質問がありました。
私もなんといっても、「夢見るテレーズ」の白いパンツが気になっていましたが、そこをずばりと直球で質問した人がいらっしゃいました。
つまりバルテュスは少女趣味(ロリコン)ではなかったのか、という指摘でした。
これに対して、学芸員さんはあくまでも「バルテュスは少女というのが一番完璧で美しいと感じていた」というようにお行儀のよい答えをしていましたが、本当はどうだったのかしらね。
私はこの画家の絵が美的かどうか判断できませんね。
というのも、「朱色の机と日本の女」の女性の頭に巻いた鉢巻のようなものがよく分からないし、腰ひもがリボンのようですね。
奥様の節子さんは、「日本の女性はこういう姿はしないわよ」とかおっしゃらなかったのかしら。
でも絵の質感の表わし方は、すごいと思いました。
「夢見るテレーズ」の少女の触ってみたくなるようなすべすべとした足、ふわふわとした猫の毛、「朱色の机と日本の女」の何回も絵具をぬり重ねた白い床などの描き方は、すごいなと思いました。
****
この日は、大雨で肌寒かったので、さすがに着物は止めました。
多分、今年になって2回目のスカート姿。
もう20年近くも着ている合皮のジャケットです。
ちょっとレトロな縁にしてみました。
実はこの講演会に参加すると、入場券が無料でいただける、というのがこの会のミソなのです。
こちらが、講演会終了後に受け取った無料鑑賞券のチケット。
私は西洋洋画についてはほとんど知識がなく、バルテュスさんの絵もなんとなく知っているくらいで特にファンでもないのですが、奥様の節子さんの着物姿や豪勢なお住まいをよく雑誌などで拝見していたので、それで興味がありました。
学芸員さんから伺ったお話を少しまとめてみました。
バルテュスという人は、本名はバルタザール・クロソフスキーという長い名前で、1908年2月29日(つまりうるう年のうるう日)に、ポーランド人のお父さんとユダヤ系ドイツ人のお母さんから生まれました。両親とも画家で、お兄さんも画家という一家だったそうです。
彼は長い間、パリに住んでいました。
かなり早熟な少年だったようで、11歳の時に、「ミツ」という猫と過ごした日々の画集を制作しました。
この「ミツ」というのは、日本語の「光」の音読みでもあり、そのころからバルテュスは、日本や中国の文化に興味を持っていたそうです。
この画集の出版にあたっては、彼の母親がリルケと愛人関係にあったので、それで出版に至ったそうです。
バルテュスは絵画だけではなく、演劇の舞台デザインなども手掛けたそうで、多くの才能の持ち主だったのですね。
26歳の時に、初めて個展を開きました。
ピカソからも「20世紀最後の巨匠」と、言われたほどだそうです。
30歳の時、「夢見るテレーズ」を制作しました。
この絵のモデルは、隣に住んでいた少女だそうですが、図の構成(斜めの線、横の線など)や、絵の質感が非常に優れているということでした。
ここにも猫が描かれていますね。
その後、45歳の時に、フランスの片田舎のシャシーというところに移り、ここでは風景画をたくさん描いたそうです。
53歳の時に今度はイタリアのローマに移り、ここではアカデミー・ド・フランスの館長さんを務めました。
その後、パリでの日本古美術展を準備するために来日して、そこで節子さんと出会いました。
彼女と結婚後は、節子夫人をモデルにした「朱色の机と日本の女」を制作しました。
この絵は西洋の遠近法とはまるで逆の方法を使用しているそうで(畳や机の幅が前後で同じ)、そこがヨーロッパの人たちには新鮮に映ったとのことでした。
そして69歳の時、スイスのロシニエールというところで、お城のようなグラン・シャレに居をかまえました。
ここのアトリエは、大きな窓があり、自然の光をうまく使っていたそうです。
今回の美術展では、スイスのアトリエからいろいろなものを持ち込み、本物と同じように再現してあるそうです。
学芸員さんの解説を聴いた後に、客席からの質問がありました。
私もなんといっても、「夢見るテレーズ」の白いパンツが気になっていましたが、そこをずばりと直球で質問した人がいらっしゃいました。
つまりバルテュスは少女趣味(ロリコン)ではなかったのか、という指摘でした。
これに対して、学芸員さんはあくまでも「バルテュスは少女というのが一番完璧で美しいと感じていた」というようにお行儀のよい答えをしていましたが、本当はどうだったのかしらね。
私はこの画家の絵が美的かどうか判断できませんね。
というのも、「朱色の机と日本の女」の女性の頭に巻いた鉢巻のようなものがよく分からないし、腰ひもがリボンのようですね。
奥様の節子さんは、「日本の女性はこういう姿はしないわよ」とかおっしゃらなかったのかしら。
「夢見るテレーズ」の少女の触ってみたくなるようなすべすべとした足、ふわふわとした猫の毛、「朱色の机と日本の女」の何回も絵具をぬり重ねた白い床などの描き方は、すごいなと思いました。
****
この日は、大雨で肌寒かったので、さすがに着物は止めました。
多分、今年になって2回目のスカート姿。
もう20年近くも着ている合皮のジャケットです。
ちょっとレトロな縁にしてみました。
2014年5月22日木曜日
安部龍太郎 「等伯」
昨年の市民カレッジ「日本絵画名品くらべ」▼で教えていただいた先生・出光美術館学芸部長さんが、大の長谷川等伯ファンでした。
その講義に感化されて、私も京都の智借院に壁画を見に行ったり▼、東京国立博物館で「松竹図屏風」を見たり▼しました。
その後、等伯からは少し離れていたのですが、最近、図書館で安部龍太郎の「等伯」を見つけたので、分厚い本の上・下2巻を借りてきました。
最初はストーリーだけ追って、さっと読みました。
そしてもう一回、じっくりと読んでみました。
物語は、安土桃山時代に能登で生まれた絵仏師の等伯(若いころは信春)が、中年になって家族もろとも都に出てきて、そしてたぐいまれなる才能を開花して、押しも押されぬ絵師となる、というものです。
最後は江戸に向かうところで終わるのですが、実際の等伯は、江戸に到着した2日後に亡くなってしまっています。
物語の中で、両親(子供のころに養子に出されたので義理の関係になる)を殺されてしまったり、愛する奥さんが病で亡くなってしまったり、息子・久蔵を若くして事故で亡くしてしまったり、実の兄も殺されてしまったりした等伯の苦悩と絶望感が、これでもかというくらいに描かれています。
そして絵画史では良く分からなかった権力者や、周りの人物との関係も、きっちりと描かれていました。
信長に追われ、秀吉からは重宝がられ、利休とも友人であり、多くの仏教者とのつながりがあったことが良く分かりました。
また仏教との関わりもかなり詳しく書かれていました。
市民カレッジでは、当時のエリートおかかえ絵師・狩野永徳とはタイプが違うのでライバルではなかったと習いましたが、この本では両者の対立を顕わにしていました。永徳は絵の実力があるが、かなりの悪者(権力好き)で、等伯をいじめ抜いた人のように設定してありました。
等伯という人は、本当に愚直なまでに生真面目で、そして粘り強い人だったのだろうと思いました。
それは能登という地域に生まれ育ったからなのでしょうか。
私はこの本を、日本地図を手元に置きながら読みました。
等伯が北陸から都に出てくるまでの道のりが気になったからです。
地図を見ながら、まだ学生の時に旅行した七尾の海や、等伯たちが船で琵琶湖を渡るシーンなどを懐かしく思いました。
安部龍太郎の本は初めて読みましたが、うまい書き手ですね。
読者をハラハラさせたり、「こうなってほしい」というように話を展開させています。
直木賞受賞作品ですが、十分に賞に値する内容だと思いました。
いつか、等伯が生活をしていた京都の本法寺や、大徳寺の三門を、実際に訪れてみたいと思っています。
その講義に感化されて、私も京都の智借院に壁画を見に行ったり▼、東京国立博物館で「松竹図屏風」を見たり▼しました。
その後、等伯からは少し離れていたのですが、最近、図書館で安部龍太郎の「等伯」を見つけたので、分厚い本の上・下2巻を借りてきました。
最初はストーリーだけ追って、さっと読みました。
そしてもう一回、じっくりと読んでみました。
物語は、安土桃山時代に能登で生まれた絵仏師の等伯(若いころは信春)が、中年になって家族もろとも都に出てきて、そしてたぐいまれなる才能を開花して、押しも押されぬ絵師となる、というものです。
最後は江戸に向かうところで終わるのですが、実際の等伯は、江戸に到着した2日後に亡くなってしまっています。
物語の中で、両親(子供のころに養子に出されたので義理の関係になる)を殺されてしまったり、愛する奥さんが病で亡くなってしまったり、息子・久蔵を若くして事故で亡くしてしまったり、実の兄も殺されてしまったりした等伯の苦悩と絶望感が、これでもかというくらいに描かれています。
そして絵画史では良く分からなかった権力者や、周りの人物との関係も、きっちりと描かれていました。
信長に追われ、秀吉からは重宝がられ、利休とも友人であり、多くの仏教者とのつながりがあったことが良く分かりました。
また仏教との関わりもかなり詳しく書かれていました。
市民カレッジでは、当時のエリートおかかえ絵師・狩野永徳とはタイプが違うのでライバルではなかったと習いましたが、この本では両者の対立を顕わにしていました。永徳は絵の実力があるが、かなりの悪者(権力好き)で、等伯をいじめ抜いた人のように設定してありました。
等伯という人は、本当に愚直なまでに生真面目で、そして粘り強い人だったのだろうと思いました。
それは能登という地域に生まれ育ったからなのでしょうか。
私はこの本を、日本地図を手元に置きながら読みました。
等伯が北陸から都に出てくるまでの道のりが気になったからです。
地図を見ながら、まだ学生の時に旅行した七尾の海や、等伯たちが船で琵琶湖を渡るシーンなどを懐かしく思いました。
安部龍太郎の本は初めて読みましたが、うまい書き手ですね。
読者をハラハラさせたり、「こうなってほしい」というように話を展開させています。
直木賞受賞作品ですが、十分に賞に値する内容だと思いました。
いつか、等伯が生活をしていた京都の本法寺や、大徳寺の三門を、実際に訪れてみたいと思っています。
2014年5月21日水曜日
飛鳥~キトラ2016講演会~
先日、上野に「キトラ古墳壁画展」▼を見に行きました。
入場者が10万人に達したという新聞記事がありましたが、私が行ったのは最終日でしたので、ほんとうに長蛇の列でした。
入館するまで2時間待ち、入場しても30分待ちという看板が出ていました。
暑い日だったので、日よけ用のテントが用意され、また暇つぶしのためのキトラクイズも配布されていました。
キトラ古墳壁画とは、奈良県明日香村にある阿部山にある古墳の壁画に描かれたもので、「亀虎古墳」とも書かれるそうですが、「北」の「浦」という意味もあるそうです。
今から30年ほど前に壁画が発見されました。
公開されたのは、「四神」のうち、白虎と玄武と朱雀(青龍は非公開)、「十二支」のうち、子(ね)と丑(うし)でした。
修復と保存作業が進められています。
実は私は壁画そのものにはそれほど執着心はなかったのですが、2011年には藤原京を舞台とした映画「朱花の月」を見たり▼、そのあとには実際に大和三山をサイクリングしていた▼ので、奈良県のこの地方に興味がありました。
また関連の講演会が当たっていたので、それには是非行ってみたかったのです。
里中さんは紅色の草木染の飛鳥時代の衣装で、舞台に登場しました。お袖が長くて、とても優雅な衣装でした。
それにご自分で作られたという青いガラスの管や、赤いメノウをつなげたロングネックレスをされていました。
(写真を写せなくて残念です)
とても穏やかな口調でお話されていましたが、万葉集時代の男女の婚姻関係のお話や、女性の地位、食生活や衣生活のことなど、具体的なお話が多くて、当時のことが思い浮かんでくるようでした。
持統天皇を主人公に描いた「天上の虹」は、すでに20年以上も執筆が続いているそうですが、今年中くらいにはなんとか最終章にしたいとおっしゃっていました。
また漫画だけでなく、万葉集への思いも強く感じました。
里中さんは本当に素敵な方で、増上寺で拝見した童子の柔らかな絵▼も思い出しました。
里中さんのお話の前には、あすか劇団「時空」▼の演劇がありました。
この劇団は、地元の人が中心となり、台本作り、衣装作り、大道具・小道具などすべて自分たちで作っているという劇団でした。
代表の方は本職はカメラマンだそうですが、みなさん、とてもお上手でした。
劇は「大化の改新」を演じていましたが、かっこいい中大兄皇子、彼と同じ思いの中臣鎌足、ずる賢い蘇我入鹿(いるか)、美しい額田王などが登場して、分かりやすいドラマに仕上げていました。
歴史に興味のない人でも、きっと引き込まれるようなストーリーでした。
コミカルな役人たちのお笑いもあり、蹴鞠ごっこをしたりして楽しい歴史創作劇でした。
劇や講演の後には、里中さんと劇団代表の方、それに元朝日新聞の記者の対談がありました。
みなさんがおっしゃっていたことは、歴史は人間が作るものだということでしょうか。
対談の中からは、権力者ではなく、ごく一般の人たちの営みが代々続いて、歴史となる、ということを強く感じました。
またみなさんの「キトラ壁画」に関しての感想は、この古墳は中国の古墳に比べて規模はまるで小さいが、絵の繊細さについてみれば、非常に緻密さに優れているということでした。
明日香村の村長さんのお話では、2016年には大規模な展示施設が完成するそうです。
また行ってみたいですね。
それで今回のタイトルが「キトラ2016」となっているので、2014の間違いではありません。
(古墳の外観です。東京国立博物館のサイトから拝借しました。)
私はこの講演会のあとにキトラ壁画を見たので、それほど待たなくてすみました。
キトラ壁画は、中国の影響が多かったとは思いますが、日本という国が始まったころから、古墳に美しい絵を描く画家(?)さんがいたというのも、面白いと思いました。いつの時代でも、絵の上手な人はいいですね。
また近くにある高松塚古墳の美しい衣装を着た女性たちの壁画もありました。
これは本当にカラフルで、当時の衣装や小道具もちゃんと分かります。細長いうちわのようなものを持った女官たちは、何歳くらいだったのでしょう。
1300年前のロマンを感じながら見ていましたが、でもちょっとでも立ち止まっていると、係のお姉さんが「立ち止まらないで下さい」とけしかけるので、おちおちと見ていられませんでした。
飛鳥を世界遺産に登録するという運動もあるようですが、あのようなのどかなところに観光客がどっと訪れるというのは、というのはちょっともったいないと思います。
講演会のお土産に、「飛鳥」の水をいただいてきました。
今、「アスカ」というと、ちょっとやばい響きがありますが・・・。
*****
この日の装い。
なんとなく古代っぽくしようと思って、茶色の大島紬を選びました。
着物も帯も知人のお母さまからの頂き物です。
ちょいと地味な感じがしたので、いつもの水色の帯揚げで明るい感じにしました。
Berry工房さんの飾りつき三分紐は可愛いのですが、飾りが籠バックにからみついてしまいました。
古代では貴族は絹、庶民は麻を着ていて、木綿はまだ登場していませんでした。
今のように、私のような庶民でも絹を着られるなんて、贅沢な暮しをしているわけですね。
里中さんも講演でおっしゃっていましたが、藤原道長だって太閤秀吉だって、アイスクリームなんていうものは口にしたことがなかったわけです。
いつでもおいしいものを食べることができ、どんな衣類でも着ることができる現代人は、昔の王侯貴族以上の生活をしているわけですね。
それもみな昔の人たちが苦労して工夫をして作り出したものを、使っているのです。
技術の向上や、文化の伝達を、ありがたいと感謝しないといけませんね。
入場者が10万人に達したという新聞記事がありましたが、私が行ったのは最終日でしたので、ほんとうに長蛇の列でした。
入館するまで2時間待ち、入場しても30分待ちという看板が出ていました。
暑い日だったので、日よけ用のテントが用意され、また暇つぶしのためのキトラクイズも配布されていました。
キトラ古墳壁画とは、奈良県明日香村にある阿部山にある古墳の壁画に描かれたもので、「亀虎古墳」とも書かれるそうですが、「北」の「浦」という意味もあるそうです。
今から30年ほど前に壁画が発見されました。
公開されたのは、「四神」のうち、白虎と玄武と朱雀(青龍は非公開)、「十二支」のうち、子(ね)と丑(うし)でした。
修復と保存作業が進められています。
実は私は壁画そのものにはそれほど執着心はなかったのですが、2011年には藤原京を舞台とした映画「朱花の月」を見たり▼、そのあとには実際に大和三山をサイクリングしていた▼ので、奈良県のこの地方に興味がありました。
また関連の講演会が当たっていたので、それには是非行ってみたかったのです。
講演のタイトルは「マンガから繋がる歴史、文化、飛鳥の絆」です。
古代をテーマにした漫画「天上の虹」を描いていらっしゃる里中満智子さんの講演を、どうしてもお聞きしたかったのです。
里中さんは紅色の草木染の飛鳥時代の衣装で、舞台に登場しました。お袖が長くて、とても優雅な衣装でした。
それにご自分で作られたという青いガラスの管や、赤いメノウをつなげたロングネックレスをされていました。
(写真を写せなくて残念です)
とても穏やかな口調でお話されていましたが、万葉集時代の男女の婚姻関係のお話や、女性の地位、食生活や衣生活のことなど、具体的なお話が多くて、当時のことが思い浮かんでくるようでした。
持統天皇を主人公に描いた「天上の虹」は、すでに20年以上も執筆が続いているそうですが、今年中くらいにはなんとか最終章にしたいとおっしゃっていました。
また漫画だけでなく、万葉集への思いも強く感じました。
里中さんは本当に素敵な方で、増上寺で拝見した童子の柔らかな絵▼も思い出しました。
里中さんのお話の前には、あすか劇団「時空」▼の演劇がありました。
この劇団は、地元の人が中心となり、台本作り、衣装作り、大道具・小道具などすべて自分たちで作っているという劇団でした。
代表の方は本職はカメラマンだそうですが、みなさん、とてもお上手でした。
劇は「大化の改新」を演じていましたが、かっこいい中大兄皇子、彼と同じ思いの中臣鎌足、ずる賢い蘇我入鹿(いるか)、美しい額田王などが登場して、分かりやすいドラマに仕上げていました。
歴史に興味のない人でも、きっと引き込まれるようなストーリーでした。
コミカルな役人たちのお笑いもあり、蹴鞠ごっこをしたりして楽しい歴史創作劇でした。
劇や講演の後には、里中さんと劇団代表の方、それに元朝日新聞の記者の対談がありました。
みなさんがおっしゃっていたことは、歴史は人間が作るものだということでしょうか。
対談の中からは、権力者ではなく、ごく一般の人たちの営みが代々続いて、歴史となる、ということを強く感じました。
またみなさんの「キトラ壁画」に関しての感想は、この古墳は中国の古墳に比べて規模はまるで小さいが、絵の繊細さについてみれば、非常に緻密さに優れているということでした。
明日香村の村長さんのお話では、2016年には大規模な展示施設が完成するそうです。
また行ってみたいですね。
それで今回のタイトルが「キトラ2016」となっているので、2014の間違いではありません。
(古墳の外観です。東京国立博物館のサイトから拝借しました。)
私はこの講演会のあとにキトラ壁画を見たので、それほど待たなくてすみました。
キトラ壁画は、中国の影響が多かったとは思いますが、日本という国が始まったころから、古墳に美しい絵を描く画家(?)さんがいたというのも、面白いと思いました。いつの時代でも、絵の上手な人はいいですね。
また近くにある高松塚古墳の美しい衣装を着た女性たちの壁画もありました。
これは本当にカラフルで、当時の衣装や小道具もちゃんと分かります。細長いうちわのようなものを持った女官たちは、何歳くらいだったのでしょう。
1300年前のロマンを感じながら見ていましたが、でもちょっとでも立ち止まっていると、係のお姉さんが「立ち止まらないで下さい」とけしかけるので、おちおちと見ていられませんでした。
飛鳥を世界遺産に登録するという運動もあるようですが、あのようなのどかなところに観光客がどっと訪れるというのは、というのはちょっともったいないと思います。
講演会のお土産に、「飛鳥」の水をいただいてきました。
今、「アスカ」というと、ちょっとやばい響きがありますが・・・。
*****
この日の装い。
なんとなく古代っぽくしようと思って、茶色の大島紬を選びました。
着物も帯も知人のお母さまからの頂き物です。
ちょいと地味な感じがしたので、いつもの水色の帯揚げで明るい感じにしました。
Berry工房さんの飾りつき三分紐は可愛いのですが、飾りが籠バックにからみついてしまいました。
古代では貴族は絹、庶民は麻を着ていて、木綿はまだ登場していませんでした。
今のように、私のような庶民でも絹を着られるなんて、贅沢な暮しをしているわけですね。
里中さんも講演でおっしゃっていましたが、藤原道長だって太閤秀吉だって、アイスクリームなんていうものは口にしたことがなかったわけです。
いつでもおいしいものを食べることができ、どんな衣類でも着ることができる現代人は、昔の王侯貴族以上の生活をしているわけですね。
それもみな昔の人たちが苦労して工夫をして作り出したものを、使っているのです。
技術の向上や、文化の伝達を、ありがたいと感謝しないといけませんね。
2014年5月20日火曜日
お洒落な街で
先日、着物仲間のUさんからお誘いがあって、表参道まで出かけてきました。
ここはお洒落な街ですね。
待ち合わせはスパイラル・ホール▼。
スパイラル(らせん)の名前の通り、建物の内部は渦巻状になっていました。
鈴木マサルさんという人の、傘の展示をしていました。
傘は展示だけでなく、実物を手に取ることもできたので、傘を開いたり閉じたりしている人もいました。値段も表示されていたので、お買い物の参考によいかもしれませんね。
そのあとは、Uさんとご一緒に「えり華」▼さんという呉服屋さんへ。
この日は、京都の長襦袢で有名な「紫織庵」▼のご主人がいらっしゃっていました。
この方は京都の大学で教えたりされていらっしゃるそうで、着物の歴史などにも詳しい方でした。
10人くらいのお客様を前にして着物談義が始まりました。
「NHKの大河ドラマの時代考証はさすがです」とか「友禅染の名前の由来」というおしゃべりの後には、着物クイズをすることになりました。
談話の様子はえり華さんのブログ▼でご覧いただけます。
そのクイズはきもの文化検定にも出されたものだそうで、
◆「新橋色」というのはどんな色?
◆ビロードは、ポルトガル人が何かを持ち込んできた時、あるものを包んでいたが、それは何か?
◆重要文化財でない上布はどれ?
とかいうものでした。
Uさんはさすがに全問正解されて、京都のお土産をいただいていました。すごいな。
私は源氏香の「藤袴」の印のところを1問、間違えてしまい、残念でした。
そしてそのあとは、紫織庵さんの製品を紹介していただきました。
そのときも社長さんからいろいろと解説があり、たとえば
◆戦前の女性の着物の打ち合わせはもっとゆったりしていたが、進駐軍が来たときに、文部省が「そのような着付けでは危ない。もっとしっかりと打ち合わせるように」というお達しを出したため、戦後は男の人と同じような着物の打ち合わせになった。
◆戦後、染料が不足したので、少ない染料を薄めて使ったので、長襦袢の色が淡い色になった。
◆戦前の襦袢はストレッチタイプの布だったので、当時の女性は長い時間、着物を着ていても苦ではなかった。
などのお話をしてくれました。
こちらは紫織庵さんの浴衣生地を選んでいるところ。
どれも発色がとてもきれいでした。
どうも大柄な模様に目が行ってしまいました。
ポピー柄。
色違いもありましたが、この水色がとても涼しそうできれいでした。
ユリ柄。
これは下に濃い色の生地が重なっていたので、実際はもっときれいな色でした。
女性はこうやって布と遊んでいる時間が、一番幸せなのかもしれませんね。
ウキウキしながら布を当てたり、お互いに感想を話したりしました。
着物の色や柄というのは、本当に人それぞれで、ぴったりと似合う人とそうでない人がいるものだなと思いました。形が同じなので、色や柄選びは大切ですね。
そして小腹も空いたので、近くのカフェに入りました。
私はビールと、生ハムの乗ったガレットを頼みました。
ビールのおいしかったこと。
ガレットはそば粉入りで、かりっとしていておいしかったですよ。
お洒落な街、表参道での半日でした。
ここはお洒落な街ですね。
待ち合わせはスパイラル・ホール▼。
スパイラル(らせん)の名前の通り、建物の内部は渦巻状になっていました。
鈴木マサルさんという人の、傘の展示をしていました。
傘は展示だけでなく、実物を手に取ることもできたので、傘を開いたり閉じたりしている人もいました。値段も表示されていたので、お買い物の参考によいかもしれませんね。
そのあとは、Uさんとご一緒に「えり華」▼さんという呉服屋さんへ。
この日は、京都の長襦袢で有名な「紫織庵」▼のご主人がいらっしゃっていました。
この方は京都の大学で教えたりされていらっしゃるそうで、着物の歴史などにも詳しい方でした。
10人くらいのお客様を前にして着物談義が始まりました。
「NHKの大河ドラマの時代考証はさすがです」とか「友禅染の名前の由来」というおしゃべりの後には、着物クイズをすることになりました。
談話の様子はえり華さんのブログ▼でご覧いただけます。
そのクイズはきもの文化検定にも出されたものだそうで、
◆「新橋色」というのはどんな色?
◆ビロードは、ポルトガル人が何かを持ち込んできた時、あるものを包んでいたが、それは何か?
◆重要文化財でない上布はどれ?
とかいうものでした。
Uさんはさすがに全問正解されて、京都のお土産をいただいていました。すごいな。
私は源氏香の「藤袴」の印のところを1問、間違えてしまい、残念でした。
そしてそのあとは、紫織庵さんの製品を紹介していただきました。
そのときも社長さんからいろいろと解説があり、たとえば
◆戦前の女性の着物の打ち合わせはもっとゆったりしていたが、進駐軍が来たときに、文部省が「そのような着付けでは危ない。もっとしっかりと打ち合わせるように」というお達しを出したため、戦後は男の人と同じような着物の打ち合わせになった。
◆戦後、染料が不足したので、少ない染料を薄めて使ったので、長襦袢の色が淡い色になった。
◆戦前の襦袢はストレッチタイプの布だったので、当時の女性は長い時間、着物を着ていても苦ではなかった。
などのお話をしてくれました。
こちらは紫織庵さんの浴衣生地を選んでいるところ。
どれも発色がとてもきれいでした。
どうも大柄な模様に目が行ってしまいました。
ポピー柄。
色違いもありましたが、この水色がとても涼しそうできれいでした。
ユリ柄。
これは下に濃い色の生地が重なっていたので、実際はもっときれいな色でした。
女性はこうやって布と遊んでいる時間が、一番幸せなのかもしれませんね。
ウキウキしながら布を当てたり、お互いに感想を話したりしました。
着物の色や柄というのは、本当に人それぞれで、ぴったりと似合う人とそうでない人がいるものだなと思いました。形が同じなので、色や柄選びは大切ですね。
そして小腹も空いたので、近くのカフェに入りました。
私はビールと、生ハムの乗ったガレットを頼みました。
ビールのおいしかったこと。
ガレットはそば粉入りで、かりっとしていておいしかったですよ。
お洒落な街、表参道での半日でした。
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