陣内秀信さんという研究者の「もし中央線がなかったら」という本がなかなか面白い。
現代人は、ある場所を考えるとき、つい●●線の●●駅から徒歩何分、などと考えてしまうが、昔、電車など無かった時代には●●川の●●橋の近く、などと表現しただろうという、ことは私も同感です。
そんなことが書かれているのですが、この方は私とほぼ同年齢で、おまけに子供の頃は阿佐ヶ谷(当時は成宗)に住んでいたというので、個人的な体験談も非常に身近に感じました。
その本の中で、「成宗須賀神社の隣には成宗五色井財天」というのがあり、「そこには天保の新堀用水の碑がある」というので、出かけてみました。
場所を分かりやすく説明すると、都立杉並高校の近くです。
簡単な地図があったので、そこに色を塗ってみました。
須賀神社の説明
「この神社は旧成宗本村の鎮守で、祭神は素戔嗚命(すさのおのみこと)。寛永期(1624~1643)に社殿を造営したとも、あるいは天慶4年(941)に創建されて、慶長4年(1599)に再建されたとも。安政年間(1854~1859)に記録が焼失したので、不明。」
「江戸時代の当社は牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と呼ばれていたが、明治維新後、成宗村の村社として人々の信仰を集め、昭和33(1958)には社殿を新築 した」とありました。
なかなか立派な神社でした。
その隣にあるのが、今回の目的の「成宗弁財天」です。
説明によると、「成宗弁財天は、成宗村がつくられたのと同じ頃、水神様のご加護を祈って湧水地(弁天池、現在は神社裏手のマンション)のほとりに建立されたのが始まり。現在は成宗須賀神社の役員により維持管理されている」とのことです。
杉並区教育委員会の掲示板によると、ご神体は鎌倉時代に江ノ島弁財天で焚いた護摩の灰を練り固めて作ったという素焼きの曼荼羅像。
この弁財天は、「天保11年(1840)、馬橋村などが開削した《新堀用水の中継地》として利用されてきたが、その際、池を盛り上げた土で富士講のための築山を作った。その富士塚は大正時代に取り壊された」とのこと。
こちらは新堀用水の祈念碑です。かなり背が高く、立派なものでした。明治13年(1880年)に建てられたそうですが、かなり近代的なデザインですね。
さて、ここからどこへいこうかとブラブラ歩いていたら、今度は田端神社に到着。
ここはかなり広くて立派な神社でした。
この後も、どこへ行こうかと歩いていましたが、住宅街に入ってしまいました。そこから善福寺川が流れている所まで歩き、そして西田小学校、松渓中学という知っている場所を通り、バス停までなんとか戻りました。
うーむ、中学校はあまりにきれいな校舎になっていて、ここには3年間通ったはずなのですが、昔の面影はまるでありませんでした。

