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2025年1月12日日曜日

お正月 世田谷の富士山

だいぶ前のことになってしまいましたが、1月2日には世田谷区まで出かけて、美しい富士山を眺めてきました。

それは私の論文に関係があるのですが、都内のどこから富士山が見えるかを検証するため、世田谷区まで足を延ばしたのです。

まずは自宅近くから二子玉川行きのバスに乗り、東名高速近くの永楽寺で下車しました。ここは2023年にも来た場所です。お寺もお正月らしい雰囲気でした。


近くには水神社もありました。
以前、来たことのある場所は懐かしいですね。

この地域には、少し歩くと野川や仙川が流れていて、水神橋という立派な橋が架かっているところです。

「このあたりに六郷用水(次大夫堀)が通っていました」とも書かれています。

前回、トイレ休憩に立ち寄ったファミリーマートもありました。

さてそこから周囲をぐるりと目をやると、一段と高い土地がありました。


そこから富士山が見えるのだろうと見当をつけて、坂道を登ることにしました。とても急な坂でした。上りはきついけど、下りも大変そう。自転車に乗った若い男性が、さーっと走り降りていきました。
「せたがや百景」にも選ばれている坂です。


やっと坂の上まで行ったところ、「関東の富士見100選」という案内板がありました。

この場所で一度振り向けば良かったのですが、私は何を勘違いしたのか、その先の道まで歩いてしまいました。どこまで行っても富士山は見えず、その周辺をぐるぐると歩き回りました。

正月2日の午前中、住宅街を歩いている人はほとんどいませんでした。

なんだか不安になって、横道をチラリと見たところ、おー、富士山がくっきりと見えました。


遠くにすっきりと立っていました。まるで静岡県あたりにいるように、大きい富士山でした。

そしてもう一度スマホで地図を確認したところ、先ほどの場所のほうがよく見えるようなので戻ってみることにしました。

こちらが岡本3丁目の坂の上から見た富士山です。

下の方は、普通の住宅街が並んでいます。

ひーこらと登ってきた坂も見えました。


嘘のようにすっきりと見えました。


富士山だけを写すと、少しぼけてしまいましたが、美しい姿でした。

都内からの景色とは思えないほど、美しくて品がありました。

誰にも邪魔をされずに、じっくりと拝むことができました。

このあたりに住んで居る人はラッキーですね。

ということで大満足して富士山を拝み、先ほどの急坂を下りました。

とても気分が良かったので、そのまま仙川に沿って野川の方まで歩きました。

砧南小学校とか、砧南中学とか、懐かしい場所でした。野川にかかる鎌田橋も大分修理が進んでいました。

そして天神森橋を過ぎて、バス停まで。

ここからバスで家まで戻りました。

お正月、美しい富士山を眺めることができて、とてもよい気分でした。



2024年12月31日火曜日

六郷橋で年納め

2024年も今日でおしまい。

年納めは六郷橋となりました。

その前触れは、南武線の武蔵中原駅からでした。

「電車のどの駅から富士山が見えるか」というブログを見つけて、南武線の駅を探しました。すると武蔵中原のプラットフォームから、わずかですが富士山が見える場所があるというのです。

まずは川﨑方面行きのプラットフォームに降りて富士山の姿を探しましたが見つからない。それで反対側の立川行きのプラットフォームに場所を変えてみて、ウロウロ。駅員さんには、怪しいオバサンと思われたことでしょう。

もうだめかな、と諦めたところ、スーパーマルエツがある太い通りの向こうに、真っ白な富士山が正面に見えるではありませんか!

やった!

スマホのGoogleマップで確かめると、太い道路は中原街道でした。江戸時代前は東海道がなかったので、こちらがメインだったことを思い出しました。

この位置は、小杉御殿や小杉陣屋からもすぐに行ける場所です。家康さんも絶対にこの富士山を見たはず、と確信が持てました。

これだけ見たら、お隣の武蔵小杉駅まで行くこともないと思い、そのまま川﨑まで出て、六郷土手に行ってみることにしました。

そして南武線と京急に乗って、六郷土手へ。初めて降りる駅でした。

駅にはゴルフ道具を持った人に出会いました。なぜかしらと思いましたが、答えは土手に行ったら分かりました。そこはゴルフ練習場になっていたのです。なるほどね。お天気も良く、みんな気持ちよさそうに打っていました。


土手の手前には昔の六郷橋の親柱が置いてありました。橋門は黄緑色に塗られて、ちょっとオシャレな橋でした。大正14年(1925)に作られたようです。
隙間から写したので、あまりちゃんとしていませんが、かなり大きな橋でした。


この場所は宮本台緑地というのだそうです。ただしあまり美しい場所ではありませんでした。

近くには「六郷の渡し跡」という案内板が立っていました。


「六郷の渡し」は、八幡塚村と川崎宿を結ぶ多摩川の渡しで、旧東海道における江戸の玄関口として、交通上極めて重要であった。
 中世末から近世初頭にかけて何度も架橋されたが、貞享5年(1688)の洪水で流出してから明治になるまでは、橋をかけず渡し船が利用された。渡し場の様子は、歌川広重の浮世絵や「江戸名所図会」などの地誌叢書類によって知ることができる。
 明治7年(1874)地元八幡塚村の篤志家鈴木左内によって、木橋がかけられ有料で通行させていたが、その後も数次の流失にあった。
 近代的なコンクリート造りの六郷橋ができたのは、大正14年(1925)であり、昭和59年(1984)、現在の橋に架け替えられた。」

大田区文化財です。

そのお隣は北野神社。「止め天神」とも言われているようです。
あまりお参りに来ないようなところでした。


土手には鉄橋がかかっていました。


京急電車。


遠くに見えるのはJRの電車。

さて富士山を探しましたが、なかなか見つからない。諦めて、そのあたりを一周してみました。

散歩の途中のお年寄りがいたので、「ここから富士山は見えますか」と尋ねようと思った途端、なんと多摩川の向こう側のマンションの向こう側に真っ白な山が見えました。ひょっこりと頭を出している、という感じですね。


これです!


わーい、富士山だ。頭だけですが、立派でした。マンションの住人はよく見えるでしょうね。

頂上だけしか見えませんでしたが、まさしく富士山でした。

六郷橋からは見えるはずだと思っていましたが、実際に見えるとすごく嬉しいものです。

うきうきして、その後は雑色まで歩いてしまいました。


暖かい日だったので、歩くのも楽ちん。
雑色は前に一度来たことがある町です。スーパーもあるし、小さな商店街もあるし、生活には便利そうですが、鈍行しか止まらないのですね。

そして京急に乗ったとたん、なんと車内からも富士山がくっきりと見えるではありませんか。わざわざ土手まで行かなくてもよかったわけですが、でも土手も気持ち良かったので、後悔はしていません。

東京のあちこちから富士山が見えるのは嬉しいことです。

今日のルートです。



2024年11月6日水曜日

大学祭に行ってみました & トホホの顛末

文化の日、私が学んでいる大学の文化祭(今はそういう単語は使わないのかな?)に行ってみました。イマドキの大学祭の様子をちょっと覗いてみたかったのと、私がどんなところへ通っているかを夫にも見せようと思って出かけたのでした。

大学のある駅に着いたらあまりの人混みにびっくり!信じられないくらいの人が集まっていました。

ところがそれは大学祭に来た人たちではなくて、「パン祭り」というイベントに来た人たちなのでした。たくさんのテントが出ていて、どこのお店も長蛇の列。

私は行列に並んでまでパンを買いたいとは思わないのですが、とにかくギューギューで歩けないほど。

それでもなんとか大学の正門に到着。写真を撮ろうとしても、人混みに流されてしまいました。

立て看もイマドキ風。

当たり前ですが、私の知っている全共闘の立て看とは大違い。

来場者は、来年の受験に向けての高校生やその家族が多かったように思いました。

模擬店が並ぶのは、どこの大学でも同じですね。

私は「スイーツクラブ」?というクラブが製作販売しているマカロンやマドレーヌを購入。丁寧に作られていましたよ。

他にも食べ物屋さんがたくさん並んでいましたが、どこも行列だし、夫はこのようなお店で食べるのは好きでない人なので、チラ見をしただけでした。

構内をどんどん歩いて行くと、一般市民のバザー会場になりました。

その中で、明治時代の和皿というのがあり、なかなか良い感じなので、2枚購入。何を乗せようかと夢が広がる淡いグリーンのお皿でした。

バザー会場を抜けて、人が少ないところまで歩きました。

こちらは体育館の入り口だったかな?

人混みを歩かされて不機嫌な夫をなだめながら、森の方へ。

一枚だけ写してもらいました。

この後、なんとか人混みを抜けて駅に戻り、ランチをする店を探したのですが、どこも大混雑でイマイチ。

仕方なく、安くてすぐ食べられそうな松屋を見つけて、お店のドアをあけたとたん、上がりかまちに足をぶつけて、ドタンと躓いてしまいました。痛くてしばし立ち上がれず。

脳裏にはどういうわけか、大谷翔平がスチール失敗して左肩を亜脱臼したシーンがよぎりました。

そして手に持っていた明治の和皿は粉々に・・・・

おまけに食事はなかなか出てこないし、おなかは空くばかり。夫は不機嫌なまま。

ぐったりして家路に戻ったのでした。

夕方、居間から見た富士山だけが救いの一日でした。




2024年6月20日木曜日

国立訪問記

ブログ更新が空いてしまいました。

大学のレポート提出やら、あれこれ締切りが多くて、パソコンにしがみついていましたが、ブログに向かう時間がありませんでした。

昨日はようやく時間が取れたので、中央線の国立駅周辺に出かけてきました。

第一の目的は多摩信用金庫の建物にある「たましん歴史・美術館」でした。

駅の真ん前の一等地にあります。

「多摩のあゆみ」という地域の季刊誌を発行している文化財団ですが、貴重な書籍や冊子が保管されています。

ここに私の研究テーマに関係ある資料がありそうなので、出かけてみました。

「たましん歴史・美術館」▼

デジタルアーカイブ▼も素晴らしいところです。

コピーをさせていただき、そこの学芸員さんとちょっとおしゃべり。「多摩のあゆみ」という冊子を無料でいただいてきました。

そのあとはあまりに暑かったので、かき氷屋さんを探しました。レトロなケーキ屋さんでした。


このときは宇治金時はなくて、「梅シロップ」というのに挑戦してみました。

「梅シロップ」は真っ白で写真映えはしませんね。氷の中には、氷の下に、梅が埋められていました。かなりすっぱい感じでした。

その後、今、話題になっている「富士山を隠してしまってその後、解体することにした積水ハウスのマンション」というのを確かめてきました。


この通りは「富士見通り」というのですが、そのビルがあるために富士山が隠れてしまうというので、完全に建った後に解体するというマンションでした。

午後の時間帯では、もともと富士山は見えないのかもしれません。

周囲は白い塀に囲まれていました。

これから解体するそうですが、それも大変です。周囲の人はたまらないだろうな。

こんな張り紙がしてありました。

実はうちのマンションも同じような状況になっています。

これから10階建ての複合施設が建設されるのですが、富士山が隠れてしまうようなのです。少しは見えるかもしれませんが、景観の価値は落ちますよね。先日、説明会があり、いまさら建設反対はできない状況です。

というので、どんな様子なのか、気になっていたのです。

そこに住んでいる人には、富士山の景観は重要ですが、とはいえ建ってしまってから解体する、というのはどうなんでしょうね。何やら裏の事情があるようです。

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「一日一句」

富士見えぬ 梅雨入り前の かき氷


2024年3月22日金曜日

富士宮市へ 4(小泉)

少し間が開いてしまいましたが、先週、小泉次太夫の生家があったと言われる富士宮市小泉を訪問してきました。

次太夫と富士宮市の関係は知ってはいましたが、富士宮市郷土資料館の学芸員さんから「歩く博物館ガイドブック」で詳しく教えていただき、歩くのにはちょうどよいコースだと思いました。

ガイドブックには富士宮市内の20以上のコースがありましたが、私が行こうと思ったのはこちらです。

「泉と古墳をたずねるコース」です。

次太夫は植松という家に生まれましたが、中年以降、江戸に出て、家康の江戸改革政策に関わるようになります。

二ヶ領用水、六郷用水を作り、農作物増産の基礎を作った人です。

その彼の前半の生涯についてはほとんど知られていないのですが、生まれは駿河国富士郡小泉郷(現在は富士宮市小泉)ではないかと言われています。

そこを訪問するために、二日目の朝、ホテルから富士宮駅に向かい、駅の広場から富士山を拝みました。

とても清々しい富士山でした。


駅前からバスに10分ほど乗って、バイパスで降りて歩き出しました。
この町は湧き水だらけ、川だらけでした。

あちこちに水が流れていました。
足下を見ると、こんな様子でした。道祖神でしょうか。


こちらは久遠寺川でした。


「向原橋」を渡りました。


そして、このコースのスタート地点である富士根南公民館を探しました。


ここには何か資料があるかと思いましたが、特別なものはなく、前日に市役所で教えていただいた「歩く博物館」の同じ資料があっただけでした。
その地図をもとに、次の目的地である「久遠寺」へ向かいました。

そこには次太夫の供養塔があるというのです。

このバイパスのトンネルをくぐり抜けると・・・


目の前にドーンと富士山が迫ってきました。


すごいな。

長い参道の両脇には普通の民家がありました。
上の写真の左側に見える赤い壁の家は、美容院でした。
次太夫さんはこういう場所で生活していたのか、と思いをはせました。

お寺の入り口です。


久遠寺の山門がとても立派でした。門の間から富士山が見えました。


山門をくぐったところです。


お寺に到着して、墓地に行ってみましたが、あまりに多くのお墓があり、供養塔の場所が分かりませんでした。それでお寺の若いお坊さんにお願いして、供養塔の場所を探してもらいました。ようやく探し当てたのはこちら。
「当処御代官小泉氏吉次」と刻まれているそうです。奥方様のものも並んでいました。


お坊さんに記念撮影してもらいました。


その後、「小泉」という大字の由来といわれると神社へ向かいました。
のんびりとした道でした。
こちらは中沢川。


くねくねとした道の間に川が流れていました。


辿り着いたのがこちら。


「上小泉八幡社」です。


「歩く博物館」にも紹介されています。
この神社の祭神は応神天皇です。境内の西側には湧き水がありました。
「上小泉」という名前は南北朝のころからあるそうです。

これが湧き水のようです。


農業用水に使用されている、と書かれていました。


ちょろちょろと水が流れていました。


湧き水を確認して、のどかな山道を下りました。


富士山もきれいでしたが、周囲の山々もとても美しかったです。

その後、帰りのバスに乗ろうと思い、バス停に向かいました。このバスも1時間に1本、あるいは2時間に1本しか来ないバスです。


ところが待てど暮らせどバスが来ないので、仕方なく歩き出したところ、後ろからそのバスがすーっと通り過ぎて行きました。うーん、悔しい!

仕方なく歩いて、また富士宮市役所へ。

途中には弓沢川というのがあり、「欠畑橋」がかかっていました。

なんと読むのだろうかと思いましたが、「かけはたはし」でした。


富士宮市は、市内のあちこちに川が流れているところだと思いました。


そんな水の豊かなところに生まれ育った次太夫が、江戸や川崎周辺にやってきて、どんなことを思ったのでしょうか。

富士宮市役所内の「宮カフェ」という場所で、簡単にランチをしました。


こちらは市役所の7階展望室から眺めた富士山。ここは無料で利用できます。
この写真では雲がかかっていますが、裾野まできれいに見えました。


こちらの「北山用水」は天正10年(1582年)、徳川家康が本門寺の願いを受けて作られた用水ですが、2023年に「世界かんがい施設遺産」に選ばれたそうです。

もう一度、町中から富士山を眺めて、この富士宮市訪問はおしまいにしました。

富士宮ではお土産を買うこともなく、おいしいものも食べることもありませんでしたが、小泉次太夫の生まれ故郷を訪れるという目的は達成できたので、満足できた旅でした。

今回、出かけたところはこちらです。


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「一日一句」

春の暮れ 富士の麓に 水が湧く