2024年12月31日火曜日

六郷橋で年納め

2024年も今日でおしまい。

年納めは六郷橋となりました。

その前触れは、南武線の武蔵中原駅からでした。

「電車のどの駅から富士山が見えるか」というブログを見つけて、南武線の駅を探しました。すると武蔵中原のプラットフォームから、わずかですが富士山が見える場所があるというのです。

まずは川﨑方面行きのプラットフォームに降りて富士山の姿を探しましたが見つからない。それで反対側の立川行きのプラットフォームに場所を変えてみて、ウロウロ。駅員さんには、怪しいオバサンと思われたことでしょう。

もうだめかな、と諦めたところ、スーパーマルエツがある太い通りの向こうに、真っ白な富士山が正面に見えるではありませんか!

やった!

スマホのGoogleマップで確かめると、太い道路は中原街道でした。江戸時代前は東海道がなかったので、こちらがメインだったことを思い出しました。

この位置は、小杉御殿や小杉陣屋からもすぐに行ける場所です。家康さんも絶対にこの富士山を見たはず、と確信が持てました。

これだけ見たら、お隣の武蔵小杉駅まで行くこともないと思い、そのまま川﨑まで出て、六郷土手に行ってみることにしました。

そして南武線と京急に乗って、六郷土手へ。初めて降りる駅でした。

駅にはゴルフ道具を持った人に出会いました。なぜかしらと思いましたが、答えは土手に行ったら分かりました。そこはゴルフ練習場になっていたのです。なるほどね。お天気も良く、みんな気持ちよさそうに打っていました。


土手の手前には昔の六郷橋の親柱が置いてありました。橋門は黄緑色に塗られて、ちょっとオシャレな橋でした。大正14年(1925)に作られたようです。
隙間から写したので、あまりちゃんとしていませんが、かなり大きな橋でした。


この場所は宮本台緑地というのだそうです。ただしあまり美しい場所ではありませんでした。

近くには「六郷の渡し跡」という案内板が立っていました。


「六郷の渡し」は、八幡塚村と川崎宿を結ぶ多摩川の渡しで、旧東海道における江戸の玄関口として、交通上極めて重要であった。
 中世末から近世初頭にかけて何度も架橋されたが、貞享5年(1688)の洪水で流出してから明治になるまでは、橋をかけず渡し船が利用された。渡し場の様子は、歌川広重の浮世絵や「江戸名所図会」などの地誌叢書類によって知ることができる。
 明治7年(1874)地元八幡塚村の篤志家鈴木左内によって、木橋がかけられ有料で通行させていたが、その後も数次の流失にあった。
 近代的なコンクリート造りの六郷橋ができたのは、大正14年(1925)であり、昭和59年(1984)、現在の橋に架け替えられた。」

大田区文化財です。

そのお隣は北野神社。「止め天神」とも言われているようです。
あまりお参りに来ないようなところでした。


土手には鉄橋がかかっていました。


京急電車。


遠くに見えるのはJRの電車。

さて富士山を探しましたが、なかなか見つからない。諦めて、そのあたりを一周してみました。

散歩の途中のお年寄りがいたので、「ここから富士山は見えますか」と尋ねようと思った途端、なんと多摩川の向こう側のマンションの向こう側に真っ白な山が見えました。ひょっこりと頭を出している、という感じですね。


これです!


わーい、富士山だ。頭だけですが、立派でした。マンションの住人はよく見えるでしょうね。

頂上だけしか見えませんでしたが、まさしく富士山でした。

六郷橋からは見えるはずだと思っていましたが、実際に見えるとすごく嬉しいものです。

うきうきして、その後は雑色まで歩いてしまいました。


暖かい日だったので、歩くのも楽ちん。
雑色は前に一度来たことがある町です。スーパーもあるし、小さな商店街もあるし、生活には便利そうですが、鈍行しか止まらないのですね。

そして京急に乗ったとたん、なんと車内からも富士山がくっきりと見えるではありませんか。わざわざ土手まで行かなくてもよかったわけですが、でも土手も気持ち良かったので、後悔はしていません。

東京のあちこちから富士山が見えるのは嬉しいことです。

今日のルートです。



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