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2022年5月26日木曜日

築地川を歩く 3 ついに見つけた!新尾張橋

前回、築地川を歩いたときは、千代橋(せんだいはし)から先は川(現在は高速道路)が見えなくなってしまいました。それでなんとなく銀座中学の方へ歩いてしまい、結局、電通の方まで行くことになりました。その後は浜離宮の入り口方面を通過して、最後は月島まで行ってしまったという結果になりました。

その時のブログです。

https://toshiko72.blogspot.com/2022/05/blog-post_47.html?m=0

それはそれで面白いコースでした。

ただ、私はどうしても千代橋の次にある新尾張橋を見つけたくて、新橋演舞場で「東をどり」を見た後で、また築地川歩きを試みたのでした。

私は意外と執念深いのです。

この日はかなり暑くて、私はポリの着物に日傘という姿。その格好で炎天下のビル街をウロウロしていたので、周りの通行人たちからは、かなり妙な人だと思われたかもしれません。

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まずは新橋演舞場を出て、もう一度、采女橋まで戻りました。この日は平日でしたので、築地川采女橋公園には、近くのサラリーマンのランチ休憩する姿が多く見られました。

築地川采女橋公園は、ゆっくりするには絶好の無料の休憩所です。

前回はこの采女橋から金田中の方に向かいましたが、今回は采女橋を通過して、東へ向かいました。

采女橋の上から写した新橋演舞場の姿です。橋の透かし模様がきれいですね。

信号を渡って、高速道路沿いの道を歩きました。

どんどん歩いていくと、こんな石碑がありました。

「海軍兵學校寮阯」と掘られていました。

そういえば、私の伯母の夫という人は、海軍の人でした。戦争中に南方の島で戦死したのですが、私はその人のことは白い軍服姿の写真でしか知りません。とてもかっこよい人でした。この場所で住んでいたのかもしれませんね。

右側のフェンスから下を覗くと、首都高速道路が見えました。トラックがたくさん走っていました。ここがかつては川だったと知っている運転手さんは、少ないかもしれませんね。

気がつくと、ここは国立がんセンターの敷地内のようでした。一般の人は立入禁止のところかもしれませんが、なんとか抜け出ることができました。

やはりがんセンターなのでした。知らずに歩いていてすいません。

がんセンターのすぐお隣は、都営大江戸線の築地市場駅でした。

周囲を見渡すと、目の前には国税庁、お隣は朝日新聞社の東京本社ビルが建っていました。

なんだか場違いのところに来てしまった気分になりましたが、とにかく橋を探しました。

千代(せんだい)橋が見つかりました。

前回は、この橋から右方向へ行ったわけです。

それで今回は、左方向へ行くことにしました。

左へ進むと、更地になった築地市場が見えました。中はがらんどうでした

右手には浜離宮朝日ホールがありました。よくコンサートなどが開かれるところですね。ここの土地の様子も面白そうでした。

その先は道路工事の最中で、着物でウロウロしていたら怒られそうな雰囲気のところでした。それで写真を写すこともなく、さっさと歩いて通過しました。

それでもなんとか新尾張橋を探して歩き回りました。

ようやく見つけました。位置的には、朝日新聞社の裏側にあったのです。

ここには由来の説明がありました。

以下のように書かれていました。

「この場所は、江戸時代尾張徳川家の築地下屋敷のあった場所です。

敷地内に、水運のために入堀を設け、江戸における尾張藩の物流の拠点となっていました。

明治時代になると、海軍の施設となり、関東大震災後は東京都中央卸売市場などの用地となりました。

尾張藩は、この地点から下流約100メートルの場所には江戸時代初期(寛文1661〜72)のころから築地川に架橋された築地と銀座を結んでいましたが、その後、道路計画により新大橋通りの道路敷となり、昭和40年はじめ撤去消滅しました。

この橋は築地市場の再整備にあたり、汐留から市場への鉄道引込線を一般区道に改修することになり、新たに鉄道橋を道路橋に架け変えたものです。

架替えにあたり尾張藩の名を残すために橋の名を新尾張橋と命名するものであります。

平成4年」

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橋の隙間から、下を通る高速道路を写しましたが、トラックが走っているのが、分かるでしょうか。

築地川が見える部分はここで終了して、その先は浜離宮となります。

この地域は、今後、どのように変化するか分かりません。それでもかつて江戸時代や明治、大正時代には築地川という川があり、堀として利用されていて、そして高度成長期には高速道路になった、ということが少しでも記録に残っているといいなと思います。

この後は銀座郵便局を通過して、昭和通りへ出ました。


ここまでのルートはこんな感じでした。
(案内板を利用しましたが、南北が反対になっています。)
黄色で丸をつけたところは、下から采女橋、千代橋、新尾張橋です。
川筋(というか高速道路沿い)には道がないので、こんなにぐるっと大回りしてしまったわけです。
国税庁の脇にちょっとした空き地のようなところがありましたが、さすがにそこを通り抜ける勇気はありませんでした。

その後は、昭和通りをずーっと通過して、結局、数寄屋橋まで歩いてしまいました。

お腹が空くのも忘れ、執念深く歩きました。


通過した橋は3箇所だけでしたが、探していた橋に出会えて、とても満足できた築地川歩きでした。

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「一日一句」

単着て 水無き川の 橋歩く


2022年5月7日土曜日

築地川を歩く 2.最後は月島まで

前回の中央区の川歩きは、今はなき楓川でした。

その時は、日本橋の新場橋から中央区役所のある三吉橋まで歩きました。三吉橋からは築地川となります。

今回は、川歩きの前に、鐵砲洲稲荷神社のお祭を見たため、三吉橋から一つ戻った新富橋からスタートしました。

バラの花がきれいに咲いていた楓川新富橋公園。

今回は、着物友達のUさんもご一緒です。

この日はとてもお天気が良く、日なたを歩くとちょっと汗ばみましたが、日蔭はひんやりとして気持ちの良い日でした。

次の三吉橋は、中央区役所のすぐ目の前にあり広場のような橋ですが、この日は祝日でしたので、空いていました。平日は、やはり区役所へ行く人が多いのでしょうね。

三吉橋は、築地川が曲ったところと楓川が交差して三叉になった美しい緑の橋です。


この橋には、このような説明板がありました。


三吉橋は、内容を要約すると
「築地川の屈曲した地点に、楓川と結ぶ水路が作られ、ここは三叉になった。関東大震災後の復興計画の一環として、昭和4年に架けられた」という橋です。
またこの橋については、三島由紀夫が「橋づくし」という小説の中で、描いています。

三吉橋のフェンスから下を覗いてみると、高速道路に車が流れているのが見えました。ここも川だったのですね。

お隣りにある築地警察署を通り、お次は亀井橋。

こちらは橋の上にある亀井橋公園です。


ここの公園にはちょっと不思議なオブジェがありました。鉄塔というか、何のためにあるのか分からないものでした。ネットのようになっているので、雨宿りもできないし、喫煙所でもないようです。子供の遊具でもないし、なんでしょうね?


この築地川は、江戸時代の明暦の大火事の後、西本願寺移転のために埋め立てられましたが、当時は川というよりも掘割という感じだったそうです。それで埋め立てもできたのかもしれませんね。

橋は次々に現れます。祝橋。


ここには明治時代の風景が描かれたエッチングのようなものがありました。歌舞伎座の前から祝橋方面を見たものです。


現在は、このあたりからは歌舞伎座の高いビルがよく見えました。

川の途中の橋には、それぞれ公園というか休憩所ができています。公園を作ったのは、築地川を埋め立ててしまったための謝礼というか、お詫びのしるしのようなものだったそうです。


万年橋。
向こう側には共同通信のビルが見えます。
東劇の前を通りました。
このあたりに来ると、さすがに東銀座なので人がたくさん歩いていました。


お次は采女橋(うねめはし)。

途中、コンビニで軽い食べ物を買って、采女橋のふもとにある公園のベンチでいただきました。

ここには松平采女正(うねめのかみ)の屋敷があったそうです。

明治になると、このあたりは銀座煉瓦街と、外国人居留地の間になり、和洋混合の新興市街地になったという説明がありました。

この橋の下は昭和37年に高速道路になったということです。東京オリンピックの2年前ですね。


采女橋のフェンスには、こんな素敵な模様がありました。外国人居留地に建てられた西洋建築かもしれませんね。


采女橋公園の中には、ハーブガーデンもありました。
平日はここにはタバコを吸うサラリーマンの姿が多いのですが、祝日なのでひっそりとしていました。


お隣の新橋演舞場。この日は、滝沢歌舞伎の稽古日だったようで閉館されていました。それでもジャニーズファンの女の子たちが、来ていました。

お隣の高級料亭の金田中を通り過ぎて、千代橋(せんだいはし)。


新橋演舞場で催される「東をどり」のポスターが貼られていました。私の三味線の先生も、地方としてこの舞台に出演される予定です。

銀座中学の校舎がありましたが、結構広い敷地でした。

ただしここで川が見えなくなりました。

どうも違う道を歩いてしまったようです。

それでもなんとか歩いていると、細長くい背高のっぽのビルが見えました。これは電通本社ビルだそうです。

停留所で確認しました。「浜離宮前」でした。


このあたりは道路工事をしていて、どこが川だったのか、よく分かりませんでした。

高速道路の下には、「汐入橋」と書いてありましたが、そういう名前の橋もあったのでしょうか。

浜離宮と普通の道路が入り組んでいて、おまけに工事中でしたので、どうも位置関係がよく分からなくなりました。それでも浜離宮の門をたよりに歩きました。


こちらは浜離宮に入るための橋です。大手門橋かな。
この堀は、築地川のようです。ここで埋め立てられてしまった川が復活したのですね。


祝日でお天気もよかったので、浜離宮に来る人も多くいました。


日差しも強くなったので、日傘がちょうどよかったですね。


築地川歩きはこちらの浜離宮で終了予定でしたが、その時、新しい通路が目の前に見えてきました。

なんとなくこの道を行けばなにか良いことがありそう、という予感がありました。

ということで浜離宮を右手に眺めながら、新しい道をのんびりと歩いてみることにしました。


ということで歩き始めましたが、行き先表示がまるでなくて、ちょっと心もとなくなりました。

向う側から歩いて来た人に尋ねてみると、なんとこの道は月島まで続いているそうです。
ということで、もうひと踏ん張りして新しい道を歩いていきました。

周囲の景色は、これぞ新しい東京、といった感じでビルがニョキニョキと建っていました。まるでお上りさん気分でした。

一人では歩かなかったかもしれませんが、二人連れということで気持ちも大きくなり、その工事中の道をどんどんと進むことにしました。

それでようやく気がついたのですが、新しい道は、築地市場を取り壊して、そこに作られた道だったのです。

道路の下には、築地市場の場外売り場のようなものが見えてきました。

跡地をフェンスから中を覗いたところです。市場跡ですね。かなり広大な敷地でした。ここは何になるのでしょうか。

ようやく築地大橋まで辿りつきました。

橋には、こんな文字が見えましたよ。昔の都知事の舛添さんの文字でした。


かなり大きな立派な橋でした。


炎天下を歩いたので、月島に到着したときは、さすがに疲れました。

そこを走る都バスに飛び乗り、東京駅まで座っていきました。

神社の例大祭を教えていただき、新富橋から月島までご一緒してくれたUさん、どうもありがとうございました。下駄で1万歩も歩いて、さぞお疲れになったことでしょう。

歩いたコースはこちら。

水色は前回の楓川コース。

紫色は今回の築地川コースです。

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この日の装い。

気楽に綿麻の横段着物。

帯はこの時期限定のすずらん模様。

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「一日一句」

初夏の風 浴びて歩けば 築地跡