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2024年12月15日日曜日

またまた次大夫さんに会いに

先日、溝の口に用事があったので、その後でJR南武線の中野島まで行き、二ヶ領用水を歩いてきました。

とても風の強い日でした。着物だったので裾が乱れて、歩くのに苦労しました。

中野島駅から南に向かって歩きました。

目指す台和橋はここから近いはずなのに、なんだか方向音痴になり、同じようなところをぐるぐると歩いてしまいました。頼りにしていたGoogleマップには載ってない道があちこちにあり、混乱してしまいました。

駅から南に数分、橋本橋。右から読んでも左から読んでも橋本橋。

ようやく懐かしい二ヶ領用水に出会いました。

ここまで来ればもう安心。下流に向かって用水沿いに歩きました。

空は真っ青でしたが、風がとても強かったです。


暖かければ、水辺を歩きたいような場所でした。


真っ赤に紅葉した大きな木。
なんでしょうね? とてもきれいでした。


二ヶ領用水の案内板。
土木学会の土木遺産になったことが書かれていました。


「一本圦橋」


梨の模様の欄干です。


梨はこのあたりではたくさん採れるのです。


紺屋橋。今回は修理中でした。


台和橋にだいぶ近づいてきました。懐かしい風景です。
銀杏もかなり枯れていました。春には藤が美しいところです。


やっと台和橋が見えました。
左の隅に、小泉次大夫さんの顔が見えます。


橋もちょっと汚れていますね。


意外と小さかったですね。


ここからまた歩いて橋本橋まで戻りました。

こんなところを歩いて来たのでした。


この日は歩数計を使うのを忘れてしまいましたが、かなり歩いたはずです。

おまけに南武線で事故があったようで、ちょっと出かけるつもりが、かなり大事になった日でした。





2024年10月9日水曜日

川崎大師へ その2

かつての大師堀跡を見て、裏道を通って川崎大師に到着しました。

そのときのブログ▼です。

境内はとても広いところです。

大山門から入りました。

「しょうづかの婆さん」というのがありました。ここをお参りすると、肌や歯が美しくなるのだとか。


とりあえず、お参りしました。

その後は「つるの池」を目指しました。


かつて、この池には二ヶ領用水が流れていたと言うことです。これを見るのが目的でした。
花見橋のあたりから流れてきたのかもしれませんね。

池の中には3羽の鶴の像がありました。水を噴き上げていました。

この池には「やすらぎ橋」という太鼓橋が架かっていました。外国の人が、珍しそうに橋を渡っていました。


日曜日だったので、家族連れが多くきていました。

後ろには金ぴかの釈迦像がありました。なんだか日本ではないような雰囲気でした。

こちらは八角五重塔。高さは31メートルあるそうです。

ちょうど中を見物できました。

狭い階段をぐるぐると歩き、上の方まで行きましたが、外は見られません。中には豪華な仏像などが飾られていましたが、写真撮影は禁止でした。

境内をぶらぶらと歩いていると、弘法大師の像がありました。四国八十八ヵ所のミニ版のようなところでした。草履があったので、そこに水を注ぎました。ご利益があるのでしょうか。


遍路大師尊像というそうです。


川﨑大師は平間寺というのが正式名でした。昔、初詣に行ったときは、あまりに混雑していて、何が何だか分かりませんでしたが、今回はゆっくりできました。


境内には松尾芭蕉の句碑とか、横綱の北の湖像とか、色々なものが雑然とありましたが、庶民的な所でした。


葵の御紋もあり、徳川家とも関連が深いようです。


その後、参道で休憩しました。


くず餅とあんことアイスのミックスです。かなり満腹になりました。


その後は東門前駅まで歩きました。

川﨑大師は他にも見どころはあると思いますが、私としては二ヶ領用水が流れていたという池を見たので、それで満足して、帰宅したのでした。

*******

余談になりますが、このブログを書いた後、朝日新聞の「れきしあるき」という記事に、川崎大師の記事が載っていました。

記者は、東門前駅から多摩川まで歩いたそうです。私もそうすれば良かったと、後悔しました。また次の駅名は「大師新田」で、やはりこのあたりは大師堀ができたことによって新田開発がされたところなのだ、と思いました。

小泉次大夫さんの開削工事のその後を垣間見ることができて、嬉しくなりました。

そして川崎と羽田は多摩川を挟んで、こんなに近いのかと思いました。





2024年10月7日月曜日

川崎大師へ その1

二ヶ領用水の先の方はどうなっているのでしょう?

そんな疑問を解いてみようと、川崎大師まで出かけてきました。

JR川崎から京急川崎に乗り換えました。

そこからまずは鈴木駅へ。ここは「味の素」駅とでもいうほうがぴったり。周囲はどこもかしこも味の素だらけでした。


向こうの方にマスコットも見えますね。

ここから東に向かって歩きました。

道路の向かい側には、それらしい緑道が続いていました。

ここにも二ヶ領用水が流れていたのかもしれませんね。


しばらく歩くと、「花見橋」というバス停が見えました。


これがかつて二ヶ領用水が流れていたという証拠です。
今は川はありませんが、かつて「花見橋」がかかっていたのですね。

ここからまっすぐに川崎大師へ向かっても良いのですが、若宮神社というのがあったので、ちょっと寄ってみることにしました。

この神社は仁徳天皇が祀られています。仁徳天皇は淀川の治水工事を完成させたので、多摩川の洪水に悩まされたこのあたりの人の願いが込められているのだそうです。

参道を通らずに、裏の住宅街を通って川崎大師平間寺まで行きました。

続きはまた。





2024年7月21日日曜日

三度目の宿河原堰

川崎市多摩区にある二ヶ領用水宿河原の堰にまた行ってきました。

このところ、ものすごい暑さが続いているので、早朝から出かけました。

この堰には、1回目に行ったときはJR南武線宿河原駅南口から、二ヶ領用水に沿って歩いて行きました。そのときのブログはこちら▼。2023年1月でした。

2回目の時は宿河原駅北口から行きましたが、結果的に大回りになってしまいました。そのときのブログはこちら▼。2023年10月でした。

今回は、暑さをしのぐため、少しでも歩く距離を短くしようと思い、登戸駅から歩きましたが、なんということか、道を間違えて、結局また大回りしてしまいました。


それでも道を間違えたおかげで南武線の船島踏切を渡ることができました。


こちらは1回目も通った船島橋。かなりボロボロですね。それでも道を間違えたおかげで、また船島橋を通過することができました。懐かしかったですね。


橋の上から眺めた風景はちょっと涼しそうでした。


橋の反対側です。
次回、訪れるときには、きれいに整備されているでしょうか。


二ヶ領用水を眺めながら、こんな道を歩きました。木陰は涼しいですね。


この橋は何橋だったかしら? 新船島橋だったかもしれません。
レンガ造りでかっこいい橋です。

橋の近くに、このような案内板がありました。


≪二ヶ領用水≫
多摩川の水を取入れ、私たちの祖先が汗水たらす苦労と、10数年の歳月を費やし、稲毛領と川崎領に至る二ヶ領に渡る農業かんがい用の水路として、慶長16年(1611)につくられたものです。別名「次太夫堀」とも呼び、工事を指揮、監督した小泉次大夫の功績を今に残しています。その後、享保9(1724)年に田中休愚がおこなった大改修工事を経て、今日の用水路の基礎が完成した。
 この用水は、多摩川流域では灌漑面積の最も大きな用水で、最盛期で2,880町歩(約2,850㏊)にも及びました。そして農業用水及び飲料用水の他、工業用水としても利用され、日常生活などに欠くことのできない大切な水路として管理されてきました。
 私たちも、このように歴史的に由緒ある二ヶ領用水を子孫に末永く引き継いでいきたいものです。

こちらは川崎までの地図です。橋名が書かれていました。


また堰についてはこのような説明がありました。

【宿河原堰取水口】

 二ヶ領用水は、多摩川から二ヵ所で水を取り入れています。その一つがこの「宿河原取水口」とここから3.5㎞ほど上流の「上河原堰取水口」です。

 当初の二ヶ領用水宿河原堀は、多摩川が蛇行していたことにより、現在の取水口から約800メートル下流にある八幡下橋付近(多摩区宿河原6丁目)にありました。後に、現在の取水口付近に、竹製の蛇籠で築造された二ヶ領宿河原堰が設置されました。昭和24年(1949)には、神奈川県がコンクリート製の堰に改築しました。その後、昭和49年(1974)の台風16号の影響により、多摩川の激流が二ヶ領宿河原堰の固定堰に妨げられ、狛江市の堤防が決壊しました。現在の堰は、この狛江水害を機に、建設省と川崎市の共同により治水安全の向上と水辺環境などの配慮のため、平成11年(1999)に改築されました。

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ここを渡れば、もう宿河原堰はすぐそこです。

サイクリングのお兄さん達が、汗だくになって「せせらぎ館」で一休みしていました。お疲れ様です。

私は中の建物に入って見学しました。

江戸時代の村々に流れた毛細血管のような用水路。

スタッフの方ともおしゃべりができました。


この写真のように、堰の上には二つのボックスのようなものがあるのですが、中がどうなっているのか、気になっていたのです。
この装置の中には機械装置があり、多摩川の水面の高さを調整するのだそうです。せせらぎ館の隣には国交省の職員がいて、メーターのようなものを監視していて、水を取り入れたり、流したりしているそうです。もしできたら、中を見学してみたいものですね。今年の6月の大雨の時には、装置が動いて、活躍したそうです。

また農業用水の使い方(?)についても、千葉県の農地で体験されたことを話していただきました。私は農業用水についてはまるで実体験がなく、イメージが湧かなかったのですが、お話を聞いて、少しは想像ができるようになりました。やはり本物の田圃を見ないといけませんね。

それと今回は、土手でこれまで気づかなかったものに出会いました。土木学会の案内と、表彰です。二ヶ領用水の歴史、土木学会の表彰、50年前の台風で家が流されてしまった様子が紹介されていました。


「二ヶ領用水宿河原堰のあゆみ」はこのように書かれていました。
 二ヶ領用水開削に着手したのは、江戸時代以前の1597年のことで、徳川家康が地域の農業生産を高めるために小泉次大夫に命じ、1611年に完成しました。
 この二ヶ領用水に多摩川の水を取入れ易くするために、宿河原に堰が設けられましたが、当時は竹製の蛇籠で作られていました」


 1974年(昭和49年)9月、台風16号による出水により狛江市側の堤防が決壊し、民家19軒が流されるという大きな災害が発生しました。

1994年(平成6年)から川崎市と建設省(当時)の共同により治水安全の向上と水辺環境などにも配慮した改築工事に着手し、1999年(平成11年)3月に現在の宿河原堰が完成しました。

と書かれていました。

何回来ても、毎回、いろいろな発見があるものですね。

外に設置されていた「二ヶ領用水宿河原樋管」という装置。こういうもの、よく分からないのですが、見るのは好きですね。


これが多摩川からの取水口のようでした。

その後は、多摩川の土手を歩いて登戸まで向かいました。向こうに見えるのは小田急線の鉄橋です。


炎天下でしたので、疲れないようにソロリソロリと歩きました。

そしてよく頑張って歩いたご褒美は、狛江駅近くのお店で、黒蜜きなこのかき氷。

食べ終わったら、身体が冷え冷えになってしまいました。

暑い夏に頑張って出かけた甲斐がありました。

小泉次大夫に惹かれて、三回も堰に来てしまったのでした。