
先日、京都の錦市場を関西在住のTさんと歩いた。
錦市場は、いろいろ雑多な種類のお店があって楽しい。
何か良い獲物はないかと、キョロキョロしながら歩いたのだが、このシーンは、たしか、どこかで見かけたシーンだと頭の中で思っていた。
そう、この市場は私が幼い頃に住んでいた東京・荻窪の闇市場と通じるものがあったのだ。
狭い通路にひしめくお店。
魚屋、八百屋、漬物屋、さつま揚げ屋、小間物屋、花屋・・・・・。
それはまさに、私がホンの子どもの頃、まだ若かった母に手を繋がれて通った荻窪の商店街を思い出させる市場だったのだ。
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私が子供の頃、母は普段の買い物は近くの商店で済ませていたが、新鮮な魚やちょっと値の張るものを買うときは、通称、「北口」と呼んでいた商店街まで親子で買出しに出かけていたのだった。
私たちの住んでいた住宅街の近くにも商店はあったのだが、魚を買いに行く時は、わざわざその市場まで歩いて出かけた。
母や祖母はそこを「闇市」と呼んでいたが、正式な名前は何と言ったのだろう?
荻窪の闇市で一番有名だったのが、魚屋だろう。
その店には、天井から大きなかごが吊るしてあり、店員は売上金をそのかごに無造作に放り込み、またお釣りがあれば、そのかごに手を入れて、がばっとつり銭を取り出す。
その店の店員さんの動作がとても面白くて、たまらなかった。
また、幼い私がいつも不思議に思っていたのが、たるの中から味噌をへらですくって売ってくれる味噌屋。
その味噌の表面のカーブは、常に美しいピラミッド型の三角形を描いていた。
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闇市はいつでも混雑していた。
狭い通路、足元はぐじゃぐちゃな道。
それでも、その活気あふれる闇市が私は大好きだった。
今では荻窪も開発が進み、ルミネというビルの中で、カッコいいテナントになっているようだが、当時の汚かったこと。衛生観念があったのかどうかも怪しいものだ。
買い物の途中に母と妹と、3人でアイスクリームを食べたことを思いだす。
それも、キレイなガラスの器に盛られた手で盛られた小倉アイスだった。
それは子供である私が欲しがったというよりも、買い物の途中で座ってアイスが食べられるというのは、家事に追われていた、母のホンのささやかな楽しみだったのかもしれない。
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中央線の荻窪の隣は阿佐ヶ谷である。
年に一度の七夕の時には、一家総出で、阿佐ヶ谷のパール街に出かけるだったが、そこは天井にアーケードが付いていて、当時としてはものすごくかっこよかった。
大きな商店街といえば、闇市しか知らない私にとって、阿佐ヶ谷の商店街はとてもモダンで、最先端のように感じたものだった。
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私に物心がつき始めたのは、昭和30年代の頃。
まさに「三丁目の夕陽」の時代だ。
中央線沿線の荻窪に住んでいた。
私はそこしか知らないので、それほど田舎とは思ってはいなかったが、上野生まれの父や、銀座生まれの母から見れば、ものすごい田舎に思えただろうし、都落ちしたような気持ちだったのかもしれない。
私達が住んでいたところは住宅街だったが、ちょっとその先に公団住宅が初めてできて、そこから通ってくる子どもは「ダンチ」の子どもと呼ばれていた。
団地とはいえば、当時は流行の最先端だったかもしれないが、しかし、そこにはまだ田んぼもあり、かえるの声がケロケロしていたようだ。
小学校には商店街と、住宅街と、そして新興団地の3種類の子どもがいて、それぞれに
勢力を競っていたような記憶がある。
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ここ何年も荻窪には出かけていない。
だが、数年前に小学校のクラス会があったが、当時のお店の息子や娘が、今では立派に後を継いでいるではないか。
彼らも後数年すれば、今度は自分たちが隠居して、その子供たちが後を継ぐのだろう。
懐かしい荻窪の闇市とそして南口の商店街である。