2008年8月29日金曜日
あと3巻~
瀬戸内寂聴さんの「源氏物語」全10巻を読み始めて、ようやく7巻まで読破した。
8巻からは光源氏の時代は彼の死去とともに終わり、今や彼の孫の代の物語になっている。
世に言われる「宇治十帖」と言われる部分に突入したのだけど、これが全然進まないのよ。
というのも、光源氏の頃の登場人物は、みなそれぞれ名前がついていて、それは仮に呼んでいる名前ではあるんだけど、藤壺だとか、紫の上とか空蝉とかそれぞれになんとなくイメージしやすかったの。
ところが、後半のところになると、「大君」(長女のこと)とか、「中の君」(次女のこと)といった呼び方しか書かれていないので、本当に誰が誰だか分からないの。
女性もそうなんだけれど、男性も「弁の君」とか「蔵人の中将」というようにその人の位で呼んでいるから、これまた誰のことをさしているのか、判断が難しいのよね。
それで巻末にある関係図(誰と誰が夫婦であり、誰の子供であるかが分かる図)をいちいち見ながら、「そうか、この人とこの人はこういう関係なのね」と確認しながら読んでいるから、ストーリーに没頭することができないの。
こういうふうに、ある方をその人の名前ではなく、位で呼ぶということはよくあることで、たとえば現代でも今の天皇は名前で呼ばないでしょ。
天皇という尊い立場の方は、お亡くなりになった後で、「昭和天皇」とか「大正天皇」とか初めて名前でお呼びすることが許されているのよね。
天皇が生きている間は、「今上天皇」とか「陛下」とかでしか呼ばれないのよ。
死後につけれれる名前を「送り名」というのだけど、それが源氏物語でも使われているので、本当に読みづらいわ。
1巻から7巻までは本当に面白くて光源氏の世界に浸っていたのだけど、今は文字を読んでいるというのが半分かしら。ストーリーにまで浸れないの。
それに最後の浮舟のところは、あまりにも寂しいお話なので読むのに躊躇してしまうのよね。
宇治ミュージアムで見たあの映画が思い出されるわ。
それでもようやく薫とお姫様が巡り合う場面にきました。
さて、これからが楽しみよ。
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4 件のコメント:
確かに、そうですね。今の天皇陛下を、平成天皇とは、誰も言いませんものね。納得。
源氏物語は、何人かの方が口語訳していますが、かなり違うものでしょうか。作家の個性や感性が反映されるものなんでしょうかね。
そうそう、昔は高貴な人のことを名前で呼んではいけなかったのよ。中国などでもそうだったと思う。位でしか呼べない。
だから原書では、源氏と藤壺の不倫の子供である天皇も、冷泉帝とか書かれていないはずなので、読む人は適当に想像して読んでいたのでしょうね。もし書いてあったらものすごいスキャンダルになっていたと思いますよ。不義の子だって分かっちゃうんですから。
源氏物語の口語訳はやはり違いますね。田辺聖子のなど、女房が大阪弁でしゃべったりするし、雰囲気がそれぞれ違いますね。
としちゃんは何でも凄いね。
知識が豊富なのも頷けます。
私は長いカタカナ名前にも弱いんだけどすぐに誰のことでどういう関係で??とわからなくなります。
ましてや位だとよけいにわかりにくいですね。
また秋に源氏物語の旅の続きを待っています。今朝久し振りにお日様が出ています。
そうね、ロシア人の名前などまるで覚えられないわよね。見ているだけで頭がくらくらしてきますもの。彼らには、あだ名(?)もあるでしょ。ウィリアムがビルとか、それも誰だか分からなくなるもとですよね。
日本の古典で、誰が誰だか分からなくなる私は、想像力が欠如しているのかもしれないわ。
来週は地元で源氏物語の講演会があるんです。それまでには何とか読み終えたいのだけど、ちょっと時間が足りないわ。
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