2025年6月27日金曜日

「源氏物語を楽しむ会」83回 2025年6月

だいぶ間が空いてしまいましたが、昨日、「源氏物語を楽しむ会」を開催しました。

今回の内容は、主人公の光源氏が、幼なじみであり、恋のライバルでもある内大臣と対話する場面でした。二人とも偉くなってしまい、ゆっくりと話す時間もなくなってしまいましたが、娘の玉鬘の裳着について、今回は久しぶりに対面したのでした。

土佐光吉「源氏物語図屏風」

さて私たちの会では、源氏物語のストーリーを学ぶということだけではなく、源氏物語に関連した文学や映画、舞台など、なんでも自由に語っています。

今回はUさんが、三宅香帆さんという書評家の文を教えてくれました。それは本居宣長についての解説文でした。

本居宣長については名前だけはなんとなく知っていても、何をした人か、明確にご存知ないと思います。彼は江戸時代の国文学者であり思想家でありました。三宅さんによると彼は「批評家」という肩書きがぴったりなのだそうです。そして彼は「源氏物語」や「古事記」という日本の古典の解釈をした人、ということでした。

そして特に注目したことは、光源氏と六条御息所がどのようにして出会い、どのようにして恋愛が始まったかが書かれていない、ということにも注目したのだそうです。たしかに言われてみたら、知らない間に六条御息所が彼の愛人として登場していたのですよね。そしてそれに関連して、本居宣長の文学論が描かれているのでした。

実は私は6年前に、本居宣長の塾というようなところに行ったことがありました。松阪市の鈴屋というお宅です。

その時のブログ▼

お部屋が再現されていました。

もうちょっとちゃんと見ておけばよかったかな。

この日は雨の予報もあったので、私はジーンズでしたが、Uさんはかっこいい黒の浴衣姿でした。白っぽい帯とよくマッチしていて涼しそうでしたよ。




2025年6月25日水曜日

本多新田@国分寺

国分寺市内にある新田巡りの2回目です。

今回は市の北東部にある本多新田に向かいました。

出発はJR中央線の国分寺駅。

国分寺駅の南側にある殿ヶ谷戸庭園には何回か行きましたが、駅の北側に降りたのは初めて。

駅前は広場になっていました。

そこから商店街を北へ少し歩くと、本多地域に着きました。周囲をキョロキョロしていたら、すぐに祥應寺が見つかりました。とても広くて、立派なお寺でした。


祥應寺は黄檗宗という禅寺でした。

このお寺は、享保2年(1717)に、国分寺村の名主である本多三左衛門の子、多儀右衛門と仲右衛門いう兄弟が、廃寺となっていたお寺を再興させたものだそうです。そして享保11年に、ここに引っ越して、寺社奉行に許可を得た、と書かれていました。

その後、享保12年(1726)、野中新田の一部を譲り受けて、「本多新田」ができました。その際に、村人の菩提所としてお寺は現在の場所に移されたそうです。

参考:祥應寺 https://www.syououji.jp/

道路の脇には庚申塔がありました。


この塔は国分寺市内で最古の庚申塔で、元文5年(1740)に祥應寺の住職文鳳によって建立されました。正面の上部には太陽、月、三猿(見ざる、聞かさる、言わざる)が彫刻されています。庚申の夜には長寿を願い、寝ないで過ごす風習がありました。2024年に修復されました。

中に入ってみると、オシャレな建物があり、そこは「KAIPAN」▼という寺カフェでした。

美味しそうなメニューがあり、朝7時から営業しているようでしたが、まだ空腹ではなかったので、中に入るのはまたにしました。

そしてそのすぐ隣には八幡神社がありました。こちらもとても立派な社殿でした。新田にはお寺と神社がセットになっていることが分かりました。現代の私たちの感覚からすると、ちょっと違和感があるのですが、江戸時代にはそれが普通だったのでしょうね。

この神社は本多新田が開発されたことで、1734年、村の鎮守として創建されました。村の人たちはここでお祭りなどをしたのでしょうね。

境内をあちこち撮影しました。

とても小さな祠がありました。これは稲荷神社の神様のようでした。中には白い狐さんがいました。


こちらは力自慢の人が持ち上げたという石。
富士野栄治郎という人が持ち上げたと書かれていました。
「三拾貫」と書かれていましたので、およそ100キロということでしょうか。


こちらは本多地区の案内図です。
このあたりの地割りを見ると、きちんと長方形に区切られていて、これは新田の名残なのだろうと思いました。

その後、近くにある民俗資料室というところまで歩いてみました。普通の住宅街の中にありました。

ここは事前予約制の場所だったので、残念ながら入館できませんでした。入口の窓からは地図なども見えて面白そうだったのですが。


ドアの外側から写したお知らせ。


このまま帰るのはもったいないので、今度は本多図書館に行ってみました。ちょうど都議会選挙の投票日だったので、かなりの人がいました。

そこで地域資料を見つけて、コピーしてきました。

国分寺駅の北側は初めての訪問場所でしたが、とても発展していて、国分寺の古代イメージがちょっと変わった感じになりました。




2025年6月22日日曜日

戸倉新田@国分寺

かつて国分寺市にあった戸倉新田を探しに出かけました。

出発は中央線国立駅。このあたり、国分寺市と国立市が入り組んでいる地形で、ややこしいのです。

坂道や住宅街を北東の方向にかなり歩いて、戸倉という地域に到着。

このあたりはきちんと区切られた細い道に、こぎれいな新しい住宅が並んでいました。

この道路の区切り方は、かつては新田の畑だったところの名残りかもしれません。

すると道路の突き当たりに、何の樹木か分かりませんが、フェンスのように植えられているのが見えました。

果樹園のようでした。

そしてその隣に、目指していた満福寺というお寺の墓地が見えました。

お寺の周囲をぐるりと廻ると、今度は赤い塀が続き、そこが戸倉神社でした。

かなり立派な神社でした。

木に隠れて見えづらいのですが、「この神社は享保年間にあきる野市戸倉にある三島神社の分霊であり、山王大権現と称して、戸倉新田の鎮守とした」という由来が書かれていました。あきる野からやってきたのですね。その後、明治2年になって、戸倉神社と名前を変えたそうです。

鳥居をくぐりました。

境内にある社殿の様子。


「鎮座250年記念」と書かれた碑にも、神社のいわれが刻まれていました。
私が映り込んでいます。

この神社は1722年、享保の時代に、「新田を作るように」という高札が日本橋に建てられて、それを見て、あきる野檜原村からから新田開発にやってきた鄕左衛門という人たちの遺産なのでした。ちなみに檜原村は、現在、東京都でたった一つの村なんだそうです。

その後、1760年(宝暦10年)までには42軒の移住者があり、そのうちの半数が檜原村出身者だったそうです。(国分寺市史)

そして鄕左衛門の出身地であった戸倉村の神社を、分社しました。

またその後、檜原村から満福寺を神社の東に設置しました。

「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」より

国立駅から熱い日差しを浴びながら、25分も歩いて来て良かったと思いました。

そして神社やお寺の周囲を歩いて見ると、素晴らしい証拠を見つけました。

こちらの石碑です。

脇には「武州多摩郡 戸倉新田村」という文字が刻まれていました。

これまで新田に関する書物や論文はいくつも目を通していましたが、平右衛門さんの慰労塔や感謝塔などはあっても、実際に新田の文字が刻まれたものは初めてでした。やはり自分で歩いて見ると、こんな発見もあるのだと思いました。

その周囲の場所は、とても立派な豪農のような方のお宅でした。そして正面には満福寺が立っていました。

昔は神社とお寺がセットのように並んでいたのですね。


あたりはこぎれいな現代風の住宅が並んでいましたが、この一画だけは農家の雰囲気があり、果樹園のようなところでした。先代が開発した農地を大事に守っているように見えました。

ブルーベリーのもぎ取りもできるそうです。

農園は、国分寺市の支援を受けているという看板がありました。
国分寺市の支援はこちらのホームページにも書かれていました。
https://www.city.kokubunji.tokyo.jp/faq/kurashi/1005241/1005306/1006353.html

道路の反対側には、お菓子のお店・シャトレーゼがあったので、そこで休憩しようと思いましたが、そこはケーキやお菓子の販売だけで、座席はなくて残念。

仕方なく国立駅までシルバーパスで戻りました。

そして駅前のコメダで、こちらのかき氷を注文。今年初でしょうか。

かなりボリュームがあり、お昼ご飯代わりになりました。

この日の国分寺歩きは、いろいろと収穫がありました。

こちらは戸倉新田があったと思われる場所の地図です。細かい道路は、新田(畑)の跡のように見えました。


通りの名前も「戸倉通り」だったので、よほど戸倉の影響が大きかったのでしょうね。


2025年6月16日月曜日

「平右衛門フェスタ 2025」参加

6月6日は、258年前に亡くなった川崎平右衛門という人の命日でした。

この人は江戸時代の人物ですが、今年の私の論文テーマの方です。

平右衛門さんは今の府中市押立の豊かな農家で生まれたのですが、その後、新田開発で活躍して苗字帯刀を得て、また治水工事や石見銀山に赴き、最後は代官にまでなったという人です。

平右衛門さんは岐阜県の瑞穂市には11年間滞在したのですが、そこでは彼の死後、彼を慕っていた人たちが、ずっと命日に供養していました。

その行事は8年前からは都内でも続き、「平右衛門顕彰会」というグループの方の活躍により、ここ最近は府中市、小金井市市等で持ち回りで行われていました。

今年は岐阜県瑞穂市で開催されることを知り、私も日帰りでしたが参加してきました。

瑞穂市は今年の4月に続いて2回目の訪問でしたが、市内には宿泊地がないので、日帰りにしました。名古屋からは東海道線に乗り換えて30分なので便利なところです。川を渡り、水田を眺めているうちに穂積駅に到着。

会場はこちらの市の施設で行われました。とても立派なホールでした。

会場の様子。大きなスクリーンがドーンとありました。


まずは瑞穂市長の挨拶。
その後、府中市大國魂神社の宮司さんのお話がありました。

そして講演が続きました。
まず元中部大学教授の方の講演。スライドをたくさん使って分かりやすかったです。


その次の講演は、川崎平右衛門研究会長でもある大石学先生。江戸愛がほとばしってくる講演でした。


休憩の後はパネルディスカッションとなりました。


壇上にパネリストが並びました。
JAぎふ、朝日大学の先生、協同組合(?)、若い母親グループの方などがそれぞれの立場で発言していました。
現在の「令和の米問題」とも関係が深い話になると思っていたのですが、どうもかみ合わないようで、ちょっともったいない感じでした。若い母親グループの方が、一番積極的で、行動力があると感じました。

たまたまお隣に座っていたおばあさまは、今から25年ほど前、「戦え!へーえもん」という市民ミュージカルに参加したと楽しそうに話されていました。平右衛門さんはこの土地の方にとても親しまれているのだと感じました。

その後、急いで会場を後にしました。
中部新聞のネット記事によると、70人ほどの参加者があったそうです。

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この日の装い。
命日ということであまり華やかにならないように、青のセオアルファ。


帯は着物お譲り会でいただいたアイボリーの無地。


こういうときには無地の帯が便利ですね。


2025年6月14日土曜日

神代植物公園のフィールドワーク

 先週、大学の授業の一環で、東京都立神代植物公園のフィールドワークに行ってきました。

ここは子供の頃から何回となく出かけているところですが、今回は専門家のガイド付でしたので、いろいろと新しい発見もありました。

まずは植物多様性センターに行きました。


セミナールームで座学をしました。
「多様性」とは何かを教えていただきました。

その後、庭に出て、島の植物について学びました。

まずは伊豆諸島の海岸を模した場所を歩きました。

伊豆七島は調布から約100キロ離れているそうです。火山の山で、気候も植物も異なります。



岩の隙間に咲いている植物たち。


岩の隙間で頑張っていました。百合のような花も咲いていました。


この場所に生えている葉っぱは、裏側が真っ白でした。


これは?
名前が可愛いので、写してみました。


南の島の植物の特徴を学びました。

○葉っぱにトゲがなくなる

○形が大きくなる

○花の色が変化する

などがあるという説明でした。

こちらはアザミですが、都内のアザミに比べてとても大きくて、トゲもなくなっていました。天敵がいないので、トゲがなくなるようです。


手に持っているのは本土のアザミ、手前が島のアザミですが、柔らかな葉っぱになっていました。

こちらのススキ(?)も、本土のは手が切れるほど硬いのですが、島で生えているのは柔らかくて、ふっくらとしていました。


紫陽花の葉はかなり大きかったですね。

手のひらと比べると、大きさが分かります。


植物多様性センターの庭では、雨が降っていたのですが、スタッフの方は、傘も差さずに丁寧に解説して下さいました。

その後は神代植物公園へ。

私はシニアの団体料金なので、200円で入園できました。

入口に展示されていた花菖蒲?

こちらは有名なショクダイオオコンニャク。

世界一大きくて臭い植物だそうです。


マスコミやネットでも紹介されていますね。

小笠原ゾーンへ。

ここでは主に小笠原諸島の植物について学びました。というのも担当教授の専門が、小笠原の植物なので、丁寧に教えていただきました。



こちらは小笠原のハイビスカスです。とても背が高かったです。

咲き始めは黄色で、ピンクになると枯れておしまいになるのだとか。


こちらは小笠原の絶滅種だそうです。


普通の植物のようにも見えましたが。

温室の前で集合写真です。

お勉強はここまで。

そして最後はゼミの仲間と一緒におそば屋さんへ。

「嶋田屋」さんで、池の景色を眺めながらいただきました。

他の人は豪華な天ぷらつきのおそばを召し上がっていましたが、私はシンプルなとろろ蕎麦にしました。

食後はみんなでバスで調布まで戻りましたが、そこでお別れして私は図書館へ。