このところ、ちょいと時間に余裕がでてきたので、少し前に書きとめていた「読書から思い出すこと」のラベルに保存しておいたものの中から、少しずつ見なおしてピックアップしているところです。
ちょっと前に書いていた内容なのですが、自分で読んで、自分で書いておきながら、「えっ、こんなこと書いたっけ!」という反応ばかりで、我ながら情けないと思っているところ。
まるで専門知識のない私ですので、なにかの拍子に私のブログをチラ見した方で、日本文学に詳しい方は、どうぞ読み飛ばしてくださいね。
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「蜻蛉日記」というのは、藤原道綱母という人が平安時代に書いた日記ということくらいしか知らなかったのですけれど、田辺聖子さんがこの本について詳しく講演したものが本になっていたので、読んでみました。
「田辺聖子と読む蜻蛉日記」
1988年 創元社
私は、この「蜻蛉日記」は「源氏物語」と同じころに書かれたものだろうと思っていたのですが、この本の著者と紫式部とは35年くらいの差があり、紫式部のほうが後時代の人だそうです。
ふーむ、およそ一世代違うお二人なのですね。
それで面白いことに、この蜻蛉日記の中に書かれていること(ノンフィクション)を、紫式部が素材として利用して源氏物語の中で小説として使った部分があるそうで、へーと思いました。
たとえば昔、頭中将が身分の低い女性に産ませた子供(九州に住んでいた)を、光源氏が自分の娘として引き取った話(「玉蔓」)などは、実際に蜻蛉日記の中に書かれていたことなのだそうです。
この蜻蛉日記の著者は「道綱母」ということで、固有名詞はないのですけれど、旦那さんは藤原兼家という人で、なんとあの藤原道長のお父さん(母親は別)だというのですから、びっくりでした。
この夫はかなり上流世界まで出世をしたそうですけれど、息子(道綱)というのはどうも駄目息子だったようで、個性の強いお母さんに育てられたマザコンだったみたいですね。
この日記には、「夫が他の女性のところにいってばかりで私のところには全然訪れてくれない」ということが切々と書かれているようで、この歌は百人一首にもあって有名ですよね。
なげきつつひとりぬる夜のあくるまは
いかに久しきものとかは知る
当時は夫婦は結婚しても同じ家に住むことはなく、夫が妻のところにやってくるという形式だったので、ひとり寝のさびしさが伝わってくるわよね。
特に蜻蛉さんは妹と同居していて、その妹の旦那はしょっちゅう家にやってきたんですって。それを横目に見ながら淋しい想いをしながら、そんな歌でも歌ったのでしょうね。
いつの世も、ただ相手を待っているだけでは、辛いですよね。
ちょっと他にすることはなかったのだろうか、何か気を紛らわせることはなかったのだろうかとも思いますが、それは現代に生きる私たちが勝手に思うだけで、当時としては仕方なかったのかしら。
それにしても田辺聖子さんの古典に対する知識や好奇心はものすごく旺盛です。
この「蜻蛉日記」は原書で読むとものすごく難しいらしい(源氏物語よりもずっと)なので、田辺さんの力を借りて、読んだ気になれたのはラッキーでした。
4 件のコメント:
蜻蛉日記、高校生の頃に習いましたがもうすっかり忘れていました・・
藤原道長とも、少し縁がある作者だったのですね。さすがに古典で読むのはつらいですが現代語訳で面白いものがあると手に取ってみたくなります。
私がこの時代にいたら、自由に出かけられるわけでもないし、夫が来なかったら恨んでしまうような・・。
ずんこさん、お仕事、うまくスタートしていますか。
高校の古典の授業の教材は、あまり面白くない部分をとりあげていますよね。
内容よりも文法的な解釈が多いので、すぐに忘れてしまいそう。
ほんと、夫が訪ねてくる間隔がだんだん空いてきて、そして誰か別の女の人のところへ通っているなんていう噂が入ってきたら、ちょっとやりきれないですよね~。
瀬戸内寂聴さんが書いていましたが、「蜻蛉日記」は、強烈な女性の本音を綴った私小説の元祖、と。
作者は、当時の三大美女の一人と言われるほど美しい人だったみたいですね。
家柄もよく教養も高いのに、その内容たるや。
「あんな、女、死んでしまえ」とか、夫の愛人に子供が生まれると、「ざまあみろ」とか(笑)
女性の嫉妬や苛立ちや不満は、いつの世もですかね。
いや、この時代だからこそ、もっと強烈だったのかも。
お、マサさん節が復活したようね!
この分ならきっと体調も大丈夫でしょう。
そうそうこの道綱の母はすごく美人だったらしいですね。美人だからこそ、夫の心変りが
憎かったのかも。
誰かが、この主人公のことを
「くれない病」だと言っていましたね。
「・・・してくれない」ばかりだったとか。
でも女性はみんな焼きもちなんじゃないかしら。
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