上野駅周辺や上野動物園周辺はすごい人ごみなので、その辺はパスして、「上野桜木町」の名前の由来になる、桜を見てきました。
これがその桜です。
「桜木町」という名前が付くほど、美しい桜でした。
後ろに見える古い家は、今では「台東区下町風俗資料館の付設展示場」▼となっていました。
ここはかつては「吉田屋」という酒店だったそうです。
町名の由来も説明されていました。
この町名ができたのは明治7年から明治41年あたり(かなりアバウトですが)の間だそうで、桜の木が多かったので、桜木町となったそうです。
この町名由来案内によれば、上野桜木町は上野台とその東側山麓に広がっていたと書かれていました。
山麓などというと、どこかの山奥のような響きもしますね。
そしてこのあたりは寛永寺の子院が多くあったそうです。
今でもお寺は多いですね。
ただし寛永寺本堂は慶応4年(1868年)の彰義隊の戦争によって、ほとんどが消失してしまいました。
実は、昔、私の父や祖母が「桜木町の家」という話をよく話していました。
詳しい話はあまり知りませんが、戦前は、父の家族は上野に住んでいました。
写真を見ると、とても広い家で、庭には池があり、多くの兄弟姉妹と住んでいたようでした。
今はもうその当時の話をしてくれる人も高齢の叔母ひとりになり、お会いする機会もあるかどうか分かりません。
私は父たちが暮らしていたその家が、実際にどこにあったか知りたいと思っていました。
たまたま「上野桜木あたり」▼というところが最近できたという情報をFacebookでいただきました。
私は「上野桜木町にあった家はこのあたりかもしれない」と単純に思い込み、、この周辺だろうと期待して出かけてみました。
そこは、昭和13年に建てられて、そのまま残っている3軒の庶民的なおうちを再利用したスペースでした。
周囲は、すべて最近建てられた新しい家ばかりでしたが、ここだけが昭和の雰囲気を伝えていました。
敷地内には数件の店舗があり、ビアホール、こだわりのパン屋さん、塩とオリーブオイルの店、などが入っていました。
まだこれから秋にかけて、お座敷や路地を使ってのイベントスペースが生まれ変わるそうです。
パン屋さんとして利用しているところの店先です。
(すごいブス顔していますが)
この「上野桜木あたり」は東京の古い暮らしの良さ伝わってくる場所でしたが、私が父や祖母から聞いていた昔話とはちょっと雰囲気が違いました。
父の家族が住んでいた家は、大正時代の家だっただろうと思います。
たぶん、昭和になってからの家と、大正時代の家とでは微妙な違いがあるのかもしれません。
ここはここで戦前の古い民家を再利用していて悪くはないのですが、もう少し時代が古かったようです。
そして、ここで働いている人にこのあたりの話を聞こうを思ったのですが、その時にいらっしゃったのは最近のことしか知らない若い人ばかりでした。
この「上野桜木あたり」には、「たいとう歴史都市研究会」▼というNPO法人の方が関わっていらっしゃるとのことでしたが、常駐はされていないそうです。
できれば、昔のことを話してくれる方がいらっしゃると、いいですね。
それで父の本籍は「谷中眞島町」だったことを思い出し、「旧町名」で検索したところ、こちら▼が見つかりました。
周辺の分かりやすい地図も載っていました。
「谷根千にある町の名前と位置」というタイトルです。
こちら▼
父は、「桜木町の家」と言っていたので、「上野桜木町」だと思っていたのですが、雰囲気的にはどうも現在の「谷中」の位置になるようです。
古い町名が変わってしまい、現在では、全部がぺったりとした同じような響きになってしまいますね。
でも「上野桜木あたり」に行ったおかげで、上野桜木町の町名の由来になる桜の花も見ることもできました。
この年になると、親がどのような人生を歩んできたのか、どこに住んでいたのかなど、自分なりに辿ってみたいという気持ちになります。
父が話していた家は、戦災で焼けてなくなってしまいました。
しかし、桜を見ながら、知らない町を尋ねて歩くこともできて、よい思い出が増えました。
そしてまた、うちの父は幸いにして南方の戦地から戻ってきて、普通に人生を終えましたが、パラオで戦争中で亡くなった人の遺族の方たちの気持ちを思うと、本当に胸が締めつけられますね。
(この項、続きます。)
4 件のコメント:
上野桜木町あたりは結構最近は
カメラをさげた外国人も見かけるように
なりましたが、盲点でしたね。
こんなすてきな桜が咲くのですね。
ときどき訪れますが、必ずイナムラ・ショウゾウのお店まで行ってケーキを
買って帰ります。桃林堂の和菓子も
楽しいけれど・・
江戸時代の空気を感じるところもありますが
イナムラ氏はパリのカルティエ・ラタンか
どこかに雰囲気が似てるとお店を
開きました。住宅街にいつもすごい列です。
そうそう、ここらあたりを通ると、カンカンの好きなケーキ屋さんがあったはず、と思い出しますよ。
でも、あまり人気が出て、行列ができるのも、良しあしね。
上野も外国人が多くいましたが、さすがに墓地の中にまでは、入ってこないいでしょう。
ところが墓地の中にもいるので
驚きました。
徳川慶喜の墓を見に来ていたのです。
しかも言語は中国語。
芸大の裏手から歩いて行っても
欧米人とかいました。
こちらは完全に観光客。
墓地の中は日本に住んでいる
留学生とかそんな感じかもしれません。
日本人もかつては、ノーキョーとかバブルの頃には、海外に行ってなんでも買いあさり、マナーが悪いと言われた時がありましたよね。
だから今の日本で、中国人のことだけを悪くいうのはちょっとどうかなと思うこともあります。
ただし分からない言語というのは、耳障りに思うこともあるし、団体で行動していると目立つのよね。
日本人よりも日本の歴史や伝統に興味を持つ、というのも悪いとは思えないわね。
ただし食べ物を持ちながら歩くのは、着物を着ている者としては、ちょっと止めてもらいたいわね。それは日本人でも同じだけど。
電車の中で食べ物を持っている人がいると、そばに寄ってほしくないと思うわ。
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