論文の実地調査のため、今回は田無まで出かけてきました。
田無という名前は「水が乏しく、田んぼが無い」という意味のようです。2001年に田無市と保谷市が合併して、今では西東京市となっています。
我が家からは新宿経由で西武線に乗って行くのが普通かもしれませんが、せっかくシルバーパスがあるのでバスで三鷹駅まで行き、その後もバスで田無駅まで行く予定を立てていました。
こちらは三鷹駅北口のバスロータリーにある彫刻。
誰の像でしょうね?
ところがバス乗り場がよく分からず、田無行きには乗れず、仕方なく柳沢駅行きというバスに乗ることにしました。西武線沿線はあまり利用しないので、土地勘がありません。
それでも西武柳沢駅まで15分ほどで到着。なんとなく昭和っぽい町で、親しみが湧くところでした。
そこから「富士街道」という道を少し歩くと、今度は青梅街道にぶつかりました。
田無は昔から交通の要所といわれているところでしたが、所沢街道という道もあり、現在も車の往来が激しいところでした。
この近くに「柳沢庚申塔」がありました。
江戸城の大改修のため、城の壁材である石灰を運ぶための道として、青梅街道が開かれ、その人馬継ぎ立てを行う宿として田無村柳沢宿が発展した、と書かれていました。この庚申塔は享保8年(1723年)に建てられたそうです。
そこから少し歩き、田無神社に到着。平日の午前中でしたが、かなりの人がお参りに来ていました。
鎌倉時代に創建された神社でした。以前は1キロほど離れた場所にありましたが、江戸時代に移りました。
それというのも田無は、江戸と青梅街道(江戸城の改築のために漆喰の原料である石灰を運搬するための道路)のほぼ中間にあり、宿場町として発展したところでした。その影響で、神社は移転したそうです。
ここは龍神が有名らしく、あちこちに飾られていました。青、赤、白、黒、金の「五龍神」が祀られているそうです。
境内には稲荷神社もありました。やはり農業と縁があったのです。
七五三用のパネルもあり、これからはお祝いに訪れる家族も多くなりそうです。
境内にはカフェもあり、また農園もあり、いろいろと趣向が凝らされている神社でした。
境内には大きなケヤキもありました。
どちらも現代風な様子で、一見しただけでは、江戸時代の名残は見られませんでした。
またこちらの寺社は、駅にも近いため、周囲には畑などはまるで無く、また土地の区割りも新田の名残はまるで分かりませんでした。
かつて田無村の名主、下田半兵衛という人が、村の人のために尽くしたところだそうですが、現在の田無駅の周辺は西武鉄道が発展させた町という様子でした。
駅ビルは西武線直結です。
そこにあるおにぎり屋さんで、玄米おにぎりをいただきました。卵焼きと豚汁も付けました。この豚汁、とても美味しかったです。
こういう少食向けのお店がもっと増えるといいのに、と思います。
帰りはバス利用は止めて、西武線と京王線で帰宅しました。