2025年2月28日金曜日

神田小川町へ

江戸時代に生きた川崎平右衛門さんという人物の足取りを追って、あちこち出かけています。

今回は、彼がある時期、住まいにしていたという神田の小川町に行ってみました。

小川町は、都営新宿線、千代田線、丸ノ内線が交わる場所です。

府中の田舎で暮らしていた平右衛門さんですが、その後、出世して牛込御徒町にも屋敷を拝領したそうです。そこは現在の市ヶ谷か飯田橋あたりのようです。

「府中郷土の森博物館」発行の冊子によると、その後の宝暦8年(1758)に神田上佐柄木町(かみさえきちょう)の屋敷に住んだということです。この「佐枝木町」というのは、佐柄木弥太郎という研師の拝領屋敷だったところだそうです。

その場所は現在は千代田区神田小川町の交差点だというので、都営新宿線の小川町まで行ってみました。

ちょうどお昼休み時間だったため、路上にはランチを求めるサラリーマンがわんさか歩いていました。

その屋敷は「小川町1-2」ということでした。車が行き交っていました。

かつてはこの場所を武士や町人たちが歩いていたのでしょうか。ちょっと想像できませんね。

ちなみに「神田佐柄木町」という町名は昭和10年に廃止されたそうですが、それまではこのあたりの神田司町、須田町、淡路町など一帯が神田佐枝木町に含まれていたそうです。

私もおなかが空いてきたので、どこかで軽くランチを取ろうと思いましたが、どこも満員。

少し奥まった場所にあるカフェでサンドイッチと珈琲で休憩しました。

そして神田神保町まで歩きましたが、このあたりはスポーツ用品やスキー用品のお店ばかりが並んでいるところでした。

およそ260年ほど前にこのあたりに住んでいた平右衛門さんも、現代の風景を見たら、あの世できっとびっくりされていることでしょう。


2025年2月26日水曜日

日比谷界隈

先日、日比谷界隈を歩いて来ました。

最初に訪れたのは、日比谷図書館。正式名は「千代田区立日比谷図書文化館」というそうですが。

こちらの展示を見てきました。


「実録 桜田門外の変」

ご存知、井伊大老が桜田門外で暗殺された事件ですね。

その歴史的背景や、その場に居合わせた人たちの記録などが展示されていました。

幕末の様子は何かと分かりにくいのですが、鎖国を続けたいグループと、開国派の争いが中心だったのでした。当時の世界の状況に合わせると、日本だけが孤立するわけにもいかず、おまけに幕府側や天皇の思惑もあり、なかなかややこしい時代だったことが読み取れました。

それになんと言っても3月3日の雪の朝、というシチュエーションが映画や舞台にはぴったりの情景でしたね。

当時の絵画や記録がたくさん残されていました。

私は諸田玲子さんの「奸婦にあらず」という時代小説が大好きなのですが、これは井伊直弼の愛人だったと言われる村山たかの一生を描いたものです。当然、その事件のことも描かれていますが、愛する人が殺されてしまうなんて、どんな気持ちだったのでしょうか。

図書館のロビーには、可愛いおひな様が飾られていました。「ゲームで遊ぶひな人形」ということでした。


トランプやオセロゲームをしていましたよ。

その後は、有楽町と新橋駅の線路下にある「OKUROJI」という場所を探しました。いろいろな食べ物やさんやオシャレなお店が並んでいるスペースですが、その一角にある「岐阜アンテナショップ」に行ってみました。

    
    (店内の様子は、岐阜トーキョーより拝借しました)

というのも岐阜県の瑞穂市というところに行ってみたいので、その下調べでした。地図などをいただいてきました。そこは「富有柿」が有名なところだそうです。そのうち、お出かけしてくる予定です。

この日の装い。

おまかせ福袋に入っていた茶色の紬。


帯は沖縄の花織。これは私には珍しくお仕立て品。
締めやすいですが、もう少し短く仕立てて貰えばよかったと反省しています。


2025年2月24日月曜日

「源氏物語を楽しむ会」79回 2025年2月

今回の「源氏物語を楽しむ会」は前半はほとんどおしゃべりタイムでした。

後半になり、ようやく原文と訳本を読み合わせました。

今回は与謝野晶子の訳本を使ってみました。

お話は、野分(台風)の後に、光源氏が六条院に住む女性たちを訪れる場面です。

前回は大宮や秋好中宮を見舞いましたが、今回はまずは明石の君のお部屋へ。

ただし明石の方のお部屋へはちょっとだけ。

その後、このところのお気に入りである玉鬘を訪問しました。二人の親密な場面を覗いてしまった息子の夕霧は、二人があまりになれなれしいので、焦ってしまうほどでした。それでも夕霧は「やはり紫の上の方が美しい」と思うのでした。

夕霧はその後は花散里のところへ。彼女は衣装を草花で染めたり、片付けたりしていました。

そんなこんなで野分の巻はもうちょっとでおしまいになります。

この日はKさんがすてきなお着物で登場。


シックな深緑というか茶色の松葉模様のお着物に、淡いベージュピンクの帯という組み合わせでした。

帯には金糸の刺繍もあり、春を呼ぶような素敵な色合いでした。

私は黒っぽい紬の着物でした。


ざっくりとした帯はバイセルの70パーセントoffで購入した物。
破格の安さだったのですが、未使用品で、かえって締めづらかったです。




2025年2月22日土曜日

進級試験の結果

私が通っている大学は、1年生(本科)は55名、2年生(専攻科)は30名です。そして1年から2年に上がるときは修了論文提出、プレゼン発表、面接を受けて、合格しないと進級できない仕組みになっています。

こちらは2月11日に開催されたプレゼン発表会の時です。
着物友達のUさんが聞きに来てくださり、写真も頂戴しました。

発表終了後に、ゼミの先生(真ん中)と共に。

2月中旬にそれらの行事が終了して、昨日、結果発表がありました。

受かっていました。

万歳!

ということで、また4月から1年かけて新しい論文を仕上げなくてはなりません。

ちょっとだけ論文のを紹介すると、1年の時は、小泉次大夫という江戸時代初期の人を対象にした研究でした。彼の生まれ故郷である富士宮に行ったり、川崎にある彼のお墓を訪ねたり、彼が開削した用水55キロを歩いた結果などを元にして、論文を仕上げました。

小泉次大夫は、それほど有名な人物ではなかったので、論文も少なく、その代わりに自由な発想で論文を組み立てることができました。

次は川崎平右衛門という江戸時代中期の人を対象にする予定です。この人は府中の生まれですが、その後、美濃国や石見銀山でも活躍する人物です。今年も現地に行き、そこでの体験や感想も織り交ぜて論文にしたいと考えているところです。

ということで本日は合格祝いに、うなぎをいただきました。

そして地元の神社にお礼のお参りをしてきました。

境内にはいろいろな梅の花が咲いていて、きれいでしたよ。



2025年2月20日木曜日

「小平市ふれあい下水道館」から「鷹の台駅」へ。

川崎平右衛門の謝恩塔はすぐに見つかりました。あっけないほどでした。

急に空腹を感じてしまいました。Googleマップを見ると、五日市街道沿いにコメダがありました。それで5分ほど歩いていきましたが、駐車場は超満員。お店の中も待ち人がひしめき合っていました。

それで仕方なく、また歩き、今度は府中街道で左折しました。

目的地は「小平市ふれあい下水道館」です。

ここは、以前、玉川上水を歩いた時に近くを通った場所ですが、その時は入館しなかったので、今回は入ってみました。


地上2階から地下5階まである建物です。どうしてそのように地下が深いかというと、一番下には下水道が流れているのです。


そこに辿り着くまではさまざまな展示がありました。

下水処理場でどのように水をきれいにするか、どんな生き物がいるか、どのような循環をしているかを楽しく学べる施設です。

面白かったのは江戸時代の生活でした。いわゆる○○を肥料として使っていたのは、究極のエコ生活でしたね。

また世界中の昔の下水道もありました。これは子供向けのアニメでしたが、モヘンジョダロの遺跡にはすでに下水施設があったというので驚きました。

以前、大学の見学で多摩川上流水再生センターに行きました▼が、こちらの施設もそこと同様、面白くてためになる施設でした。

こちらは地下に流れる下水道。向こう側が汚水です。

とても太い管でした。埼玉の事故を思い出してしまいました。


人の大きさと比べるといかに太い管かが分かりますね。

ここは無料で見学できるので、お近くの方は一度、見学されることをおすすめしますね。

その後は玉川上水沿いを歩きました。


懐かしい久右衛門橋に再会しました。


横には新堀用水も流れています。


こちらは小平中央公園。ここには着物のイベントのときにも訪れました。


鷹の台駅の近くにある「鷹の橋」


鷹の台駅まで歩きました。懐かしかったですね。

玉川上水のおかげで何回も訪れることになりました。

そしてまた国分寺駅に戻って、アンデルセンのお店に入ってサンドイッチと珈琲でのんびりしたのでした。

この日のルートです。










2025年2月18日火曜日

国分寺の妙法寺謝恩塔

いまだに中央線の国分寺と国立、立川の位置関係がよく分かりません。

落ち着いて考えてみれば、国分寺と立川の間にあるのが「国立」だと分かるのですが、慌てていると間違えやすいのです。

先日も国分寺市北町というところに用事があり、そこは立川から東にある駅からバスに乗って行く場所でした。それで、あまり考えずに「国分寺駅」で下車してしまいました。

駅前のロータリーをうろうろしましたが、どうも様子がおかしい。もう一度地図を見るとそれは「国分寺駅」ではなく、「国立駅」から乗らなくてはいけないのでした。

というわけで仕方なく中央線をまた西に戻り、国立駅のバス乗り場を探しました。

目的地が「国分寺市」だったので、つい国分寺駅からバスに乗ると思い込んでしまったのです。

バスの停留所はすぐに見つかりましたが、時刻表を見るとバスは1時間に1回か2回くらいしか来ないのです。それで仕方なくタクシーを利用することにしました。

タクシーの運転手さんによると、そのルートは平日の朝夕は通学客が多いので、1時間に数回、バスが来るようですが、その日は日曜だったため、殆どバスは来ない時間帯だというのでした。

私はタクシーなどめったに使わないのですが、シルバーパスなら無料の所、1500円払ってしまいました。

というドタバタはありましたが、国分寺市北町3丁目というところにある「妙法寺」というお寺さんに着きました。


ここは曹洞宗のお寺です。

目的は「川崎・伊奈両代官謝恩塔」を見ることでした。国分寺市の指定文化財になっています。

その塔は1799年に建てられましたが、大正12年の関東大震災で倒れ、その後、昭和26年になって再建されたそうです。

お寺の入口近くに建てられていたので、すぐに見つかりました。


とても立派な塔でしたよ。


「江戸時代の享保7年(1722)に始まった武蔵野の新田開発は、凶作などにより開発が進まず農民は窮乏し、餓死者が続出していました。元文4年(1739)武蔵野新田世話役となった押立村(府中市)の名主川崎平右衛門は救助の食料、養料金(凶作に備えて各家から穀類三升、のちに5升を集め売却し、その代金を商人に貸付け、利息を農民に配当するという制度)、肥料、種の支給や用水、井戸の工事などを行い、新田の安定をはかりました。
川崎平右衛門は寛保3年(1743)に支配勘定格となり寛延2年(1749)に美濃国(岐阜県)へ支配替えになった後、宝暦4年(1754)代官となりました。
平右衛門の後にこの地の代官となった伊奈半左衛門も、平右衛門の政策を継ぎ、さらに養料金制度を推し進めました。
このため武蔵野の開発は大いに進展し、その功績を記念するため、寛政11年(1799)榎戸新田名主源蔵らの主唱によって武蔵野新田八十数ヶ村の感謝の結晶として建立されたものです」


このお寺は五日市街道沿いに建っていますが、道を歩いていると、昔の田んぼや畑のあとのような土地がまだあちこちに残っているところでした。

これからまだまだ平右衛門さんの足跡を辿ります。


2025年2月15日土曜日

四谷の笹寺~新宿御苑散歩

だいぶ前のことになりますが、四谷4丁目にある「長善寺」というお寺に行ってきました。

そこには府中出身の代官である川崎平右衛門のお墓があるというのです。彼の本当のお墓は府中の押立の龍光寺なのですが、四谷も縁がある場所なので(この近くに住まいがあったとか)分骨されているのかもしれません。

地下鉄の四谷三丁目駅で下車して、新宿通りを新宿方面に行くと、意外と簡単に見つかりました。


曹洞宗のお寺です。
かつて境内には笹が茂っていたので、「笹寺」と呼ばれていたようです。

入口の手前には鳥居もありました。神社も同じ敷地内にありました。


ここには徳川二代将軍秀忠の奥様崇源院(お江の方)の赤いめのうで作られた「めのう観音」があるそうです。


お墓の区域には「関係者以外立ち入り禁止」という札があったので、お寺の建物のベルを鳴らして、関係者の方にご挨拶しました。

すると「川崎平右衛門の墓というのは聞いたことがない」と言うのですが、私があれこれ説明をして、その資料も見せると、奥に入って調べてくれました。

お墓のある場所は分かったのですが、写真撮影はダメとのこと。仕方ないですね。

ご挨拶だけしてきました。

平右衛門以外にも、川崎家代々のお墓が並んでいました。

とりあえず府中市「郷土の森博物館だより あるむぜお」の2009年3月20日号に掲載された写真だけ載せておきます。


そして大学の名刺を渡して、とりあえず引き下がりました。

その後は新宿通りをまっすぐに歩き、新宿御苑まで。

このあたりは日本橋から7キロ地点とのことでした。


新宿御苑の園内には入らず、敷地外を流れる玉川上水・内藤新宿分水散歩道を歩きました。ここは無料で開放されています。

高層ビルがきれいに見えました。


春になったらもっときれいでしょうね。
まだ寒いので、人出は少なく、静かでした。


新宿門まで行き、昔の「きょうばし」の柱に再会しました。


いつまでここに放置されるのかしらね。

この日は、なんだか成果があったような、なかったような散歩でした。