このところ、どういうわけか、能の世界にほんのちょっと近づいています。
最初は、市の伝統文化の催しで、たまたま見ただけでした。
その時のブログ▼
その後、着物友だちに誘ってもらって、初めて本物の能舞台で能を鑑賞した時は、物珍しさとともに、睡魔に襲われて、気持ちよく帰ってきたものでした。
その時のブログ▼
その後、何回か、解説付きの能を見るようになりました。
最近では、地元の市民カレッジで観世流能楽師の山中迓晶さんからレクチャーを受けることがありました。
新年の儀式というものも体験させていただきました。
その時のブログ▼
現在は、市の公民館でやはり観世流能楽師の小早川修さんから謡を、普通に読む(平読みというそうです)講義を受けました。
先日は「羽衣」を読む機会がありました。
次回は「高砂」を読むそうです。
知らない世界を覗いて見るというのは、とても新鮮な感覚があります。
そんな時、たまたま安田登さんという宝生流能楽師の、「能 650年続いた仕掛けとは」という本に出会いました。
まだほんの途中までしか読んでいないので、ちゃんとした感想は書けませんが、一つだけ心にズシンと響くことが書かれていたので、ご紹介させていただきます。
それは「初心忘れるべからず」というよく知られている言葉です。
誰でもが、「初めての時の初々しい決心を忘れないように頑張る」というようにとらえていると思いますが、実はそうではなかった、というのが私にとってはとても衝撃的でした。
この「初心忘れるべからず」は、世阿弥が広めた言葉ですが、「初心」にはもっと深い意味があったのです。
それは「初心」の「初」という漢字に現れているそうです。
この漢字は、「衣」偏と、「刀」から作られていますね。
それで元の意味は、「布地である衣を鋏で断つ」ということだそうです。
つまり、「まっさらな生地に刀を入れるということは、折あるごとに、古い自己を断ち切り、新たな自己として生まれ変わらなければならないという意味である」、と書かれていました。
この「初心」の意味を知って、私は少なからず動揺しました。
そうなんだ、昔の決心を忘れないようにするだけではなく、今の自分の新たなステージに行くことなのか、と思いました。
この年齢になると、長年親しんできた「自分を変える」というのは、大変なことです。
昔ながらのやり方や、昔、身につけてきたことをやっていれば、それほど間違いは生まれず、楽に過ごせるはずでしょう。
人間にはショック療法も必要かもしれないのですね。
そんなこんなで、世阿弥さんが残してくれた「初心」という言葉の本来の意味に、少しでも近づくことができたら、おもしろいのではないか、と思う今日この頃です。
私にいろいろな機会を与えて下さった多くの友人や、書物や出来事に、感謝したいと思っています。
(とはいえ、本来はちゃらんぽらんな人間なので、初心の意味もすぐに忘れてしまうかもしれませんが)
2 件のコメント:
おもしろそうな本の紹介ですね。
探して読んでみたくなります。
私も最近能にはまってきています。
入門とか解説付きではなかったのですが、
好きな空気感でした。
初心の言葉に身の引き締まる思いです。
「能」の本は、まだほんの少ししか読んでいないのですが、
かなり衝撃的な内容がありました。
また公民館での受けた能楽師さんのお話では、
「江戸時代に能が発展したのは、全国各地から集まって来る大名たちの方言(鹿児島弁とか津軽弁など)では話が通じないので、能という標準語で語られているものを、一種の教養として学んだので、それで能が広まった」という視点が、面白かったですね。
読書は、その時のこちらの受け止め方によって、面白くもつまらなくも感じるものでしょうけれど、今の私にはちょうどぴったりのことが書かれていましたよ。
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