2018年2月15日木曜日

御用聞きの人たち ~昔の買い物事情~

昨日のブログ▼で「かつぎ屋のおばさん」を書いたところ、意外と皆様方の注目を浴びたようなので、今日もレトロシリーズで、昔話にお付き合いください。


(私5才、妹2才の頃?)

私が小さかった昭和30年代、40年代は、杉並区内にはスーパーマーケットはありませんでした。
たぶん、そのようなお店は、都心でも少なかったと思います。
初めてのスーパーは、荻窪駅の北口にできた「東光ストア」でした。今の「東急ストア」の前身です。
私が小学校高学年になった頃だと思います。
その後、かなり年月が経って、うちの近くに「オーケーストア」ができたときは、みんなこぞって買い物に出かけたものでした。
「野菜も肉も豆腐も、全部一つの店で買える」というので、主婦たちは喜んでいたと思います。

ではそれ以前はどこで買い物をしていたかというと、荻窪駅にあった「戦後闇市」のような小さなお店で買い物をしていました。
何でも揃うアーケードでしたが、とにかく狭くてごちゃごちゃしていて、足元は水たまりのようなところでした。
(ここは現在のルミネの隣にあるビルになっていますね。荻窪タウンセブンと言ったかしら?)
私は母に手を引かれて、この闇市のようなごちゃごちゃしたところに買い物に行くのが楽しみでした。


(私6才、妹3才の頃?)

ここではまとまった買い物をしていたようでしたが、日常的な食べものの入手はどうしていたかというと、御用聞きの人がお昼前にうちにやってきて、そして夕方ごろには食材を運んできてくれていたのです。
勝手口に小さな黒板が吊るしてあり、そこに「食パン 1斤」「さんま4本」とか母が書いておくと、御用聞きの人はそれを見て、運んできてくれたのです。自転車に乗ってきたのか、徒歩でやってきたのかは、分かりませんでしたが。

肉屋さん、魚屋さん、パン屋さんなどは、毎日のように我が家にやってきました。
野菜は、昨日のブログに登場したかつぎ屋さんから買っていたと思います。

その頃、家庭の主婦は、掃除洗濯などは電化製品が発達していなかったので、家事労働も大変だったと思います。
そんな時、買い物に行かずに家にいる時間が確保されるという御用聞きの制度は、時代に合ったシステムだったのかもしれません。

この御用聞きの人たちは、みな若い男性で威勢が良く、とくに魚屋の「ぶんちゃん」という人は面白い人だったという記憶があります。
お祭りが好きで、おみこしを担いだりしていました。
「ぶんちゃん」はどういうわけか、うちに犬を連れてきて、「ここで飼ってほしい」ということで、その茶色い犬を飼うことになりました。
いや、この犬は八百屋のお兄さんからもらったのかな、当時のことはよく覚えていませんが、犬をもらったことだけは確かです。

昭和30年までは、我が家にはまだ祖父が健在でした。
祖父は新しいもの好きだったので、我が家には早くからテレビがありました。
そして御用聞きの人たちは、みんなこのテレビを目当てに我が家にやってきたようでした。
庭に大勢の人たちが集まって、家の中に置いてあるテレビを眺めていましたね。
力道山のプロレスが盛んだった頃のことで、みんながテレビに熱中していた時代でした。

そんなふうに、住人と、御用聞きの人たち、あるいはかつぎ屋のおばさんたちが、かなり親密に交流していたのだな、と今になっては懐かしく思うばかりです。
祖父母は、そういう人たちと付き合うのが上手だったのでしょう。
今思うと、戦災で上野の家を焼かれてしまい、どういう事情か分かりませんが、当時は「キツネが出る」とも言われていた杉並の家に越してきて、近所の方と付き合いを広めたかったのかもしれません。

それにしても、画面でクリック一つすれば、どんな買い物も1日で手元に届いてしまうようなネット社会が来るなんて、その頃、誰が想像したでしょうね。

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