復興応援ツアーの特徴は、震災を体験された「語り部ガイド」さんが、バスに同乗することでした。
今回の語り部さんは、こちらの方でした。
私と同年代の女性で、お母様を震災で亡くされて、まだ見つかっていらっしゃらないのだそうです。
またその年の2月には還暦祝いのクラス会を開催したばかりで、その時に集まった人のうち、半数くらいの方が、お亡くなりになったという話もされました。
バスから見た、復興後の様子です。
まるで工事現場のようで、人が住むところとは思えませんでした。
いろいろな重機がまだ置かれたままでした。
「さんさん商店街」には人の姿が見えましたが、ここでは人の姿は見えませんでした。
南三陸では、亡くなった方が約600名、行方不明が200名以上いらっしゃるそうです。
また各地区の防災施設、保育所、小学校、公民館、ディサービスセンターなど、多くの公共施設が被害を受けました。
小学校、中学校などにも行きましたが、廃校となったところもありました。
こちらは以前は中学校でしたが、時計がまだ止まったままでした。
現在は公民館として使われています。
慰霊の折り鶴。
後ろに見えるのは防災庁舎ですが、無残な形になってしまっていました。
津波が来た時、この庁舎に逃げた人がたくさんいましたが、津波は屋上まで押し寄せて、多くの方の命が失われました。
また震災後の避難場所にも行きました。
ここは毎日、たくさんの遺体と対面するところだったようです。
台湾からは多くの援助があったそうです。
津波で被害が出た病院は、台湾からの義援金によって再建されたそうです。
その感謝の記念碑です。
現地では、写真を写すのはちょっと躊躇しましたが、現状はこのようになっているということも伝えた方が良いと思い、少しだけ写してきました。
語り部さんは、何回も涙をぬぐいながら、当時の詳しい状況をお話していただきました。
どうもありがとうございました。
(この項、続きます)
2 件のコメント:
嫁の実家が南三陸です。
当時実家との連絡が取れず、心配しました。
家は山の上なので、被害を免れました。
祖父の家は庭まで津波が来ながらいえは奇跡的に無事でした。
嫁の親戚でも、おじ一家、友達となくなった方たちもいて、
何も知らないところなのに、いまだに被災者気分になってしまいます。
いまだに色々な思いがあり涙が出てきます。
台湾からの義捐金で新しくできた病院葉、今までよりはるかに大きな病院だそうです。
病院がなくて、出産三週間後、我が家にいて地震を経験した孫も、7歳になりました。
トントンのお嫁さんは、南三陸の方なのですね。
そういえば、お孫さんが生まれたばかりの頃、預かっていて、地震にあったのでしたね。
うちの孫は、震災の時は、まだ娘のお腹の中にいて、たぶん4か月くらいだったと思いますが、
娘が都心の会社から埼玉の家まで歩いて帰りました。その子が小学生ですから、早いものです。
南三陸の方は、チリ津波の経験があるので、高いところに避難しないとならないというのは、分かっていたようですね。
小学校の校長は、児童たちと一緒に山の上にある神社のふもとまで逃げて、これで良いと思ったそうですが、その校長はほかの地区から来た人でした。
地元の人は「もっと上まで逃げなくてだめだ」と言って、神社の上まで逃げて、子供たちは助かったそうです。
やはりこういう経験は語り繋いでいかないと、なりませんね。
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