先日、JR御茶ノ水駅に降りました。
駅の構内は、バリアフリー化に向けて大規模工事中です。
この辺りは、半世紀前頃にはときどき通っていた道でした。
今でも楽器屋さんが多いのは、昔とあまり変わりませんね。
でも道路の反対側はまるで違った町のように変わっていました。
あの頃は、「学生街の喫茶店」という歌が流行りましたね。
私は勝手に、その学生街は御茶ノ水あたり、神保町あたりだと思っていますが、どうなのでしょう。
大学生の頃、坂の下にあるタイピスト学校(当時はそういう名前だったような気がします)で英文タイプと、和文タイプを習いました。
その頃は英文科とか貿易の仕事をする人以外では、タイプを習うのは、あまり一般的ではなかったように思います。(これは独断ですけど)
でも今思えば、そこでタイプを習ったおかげで、英文科出身でもないのに、ワープロの時代やパソコンの時代になっても、ブラインドタッチができたのは、良かったと思います。
和文タイプというのは、今は死語になっているかもしれませんが、大きな漢字の板の上から文字を選ぶのですが、これは本当に大変な作業で、初級コースあたりで挫折したような記憶があります。
当時は日大や明治、専修大学の学生と付き合っていたようなので、御茶ノ水といえばやはり学生の町というイメージがありますね。
こちらはあまりに変わってしまった杏雲堂病院です。
当時は鬱蒼としたお化け屋敷のようなところだった記憶があります。
大学を卒業した後は、御茶ノ水の駅からバスに乗って東京大学まで仕事に行っていました。
今は南北線があり便利ですけど、当時は丸の内線しかなくて、それならバスの方が私が行くところには良かったのです。
大学での仕事は週に3日でしたが、大学闘争がまだ納まっていないため、教授たちは構内に入れず、仕事はその意味では閑でした。
それで、週の他の2日は、やはり御茶ノ水の駅近くにある理系専門の本屋さんでバイトをしていました。
でもレジがうまくできないダメ店員で、あまり長続きしなかったような思い出があります。
さてさて、そんな半世紀前の思い出を胸に、明治大学に向かいましたが、あまりの変容にまるでおのぼりさんのようになってしまった私でした。
明治大学ではオープン講座を受講しましたが、そのことはまた別のブログでまとめてみます。
2 件のコメント:
私の母は、在職中は信用金庫で和文タイピストでした。結婚して子育てをしながらも、和文タイプは続けていて、家の内職でがんぱっていました。父が税務署の職員で公務員のお給料が安く、しかも弟が病気だったため、苦労した母でした。それでもタイプをしているときは生き生きしていました。何か特技があると人間を強くしてくれるのかもしれません。私も下手ですが英文タイプを習って、その後その技術が生かされて、助けられました。
あるばとろろすさん、そうでしたか、お母様は和文タイピストだったのですね。
当時は最先端の女性の職業だったと思います。
手に職があるというのは強いですね。
私は途中でめげましたが。
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