先月、日本橋川の最終コースを巡りました。(2月28日のブログ)
その時、一つだけ行き忘れてしまった橋がありました。
それは霊岸橋。この橋は、あまりに茅場町の駅に近いので、行きそびれたのです。
今回は、その橋だけを目指して、再び茅場町まで出かけてきました。(なんと物好きなのでしょうね)
ところが、結論から言うと、その目的の橋以外に、別のステキなものも発見してしまったのです。
まずは地下鉄東西線の茅場町駅で下車して、地上に出ました。サラリーマンがたくさん闊歩していました。
目指したのはもちろん、霊岸橋です。
この橋の名前は「霊厳橋」と書かれることもありますが、普通に「れいがん」と入力すると、必ず「レーガン」と出てくるので、やはりアメリカ大統領は偉大なのですね。
こちらからは隣に広告の大きな旗があって、「れいがんばし」の「れ」の字しか見えませんでした。
それで仕方なく車が通る道路を戻り、横断歩道のところまで行き、反対側まで渡って、橋の名前を見に行きました。永代通りと新大橋通りの交差点です。
この日は平日でしたが、大通りを着物姿でウロウロしているおばさんはかなり異様だったかも。
ちなみにこの永代通りの下には東西線が走っているそうです。
はい、こちら側から見ると、橋の名前の文字がちゃんと見えています。
そして霊岸橋のすぐ横にある日本橋水門では、工事が行われていました。この水門の裏側は、日本橋川になります。
これで前回、行きそびれた霊岸橋を見たので、いちおう満足しました。
その後は霊岸橋を通り過ぎて、新亀島橋まで戻りました。この親柱の模様、かっこいいですよね。
川には水が満々としていました。
少し離れた場所から、霊岸橋を眺めたところです。
橋の名前が見えました。
ところで霊岸橋の名前の由来ですが、「霊岸島」という交差点がありました。
なぜ「島」かというと、このあたりは日本橋川、隅田川、亀島川に囲まれて、島のようになっているからだろうと思います。
少し歩いていくと、壁面に草花がいっぱいのビルがありました。
こちらのビルは明正小学校です。子どもたちが校庭で体育の授業をしていましたが、まさに都会の小学校ですね。
下の地図では、真ん中あたりに「文」と書かれているところです。周囲が白くなっているので、気になりましたが、この中には小学校意外、児童館とか色々な文教施設が入っているようでした。
その向かいには小さな公園がありました。「越前堀児童公園」です。
この「越前堀公園」こそ、江戸時代の名残りなのです。
一見すると、ごく普通の町の公園です。
ところがこの公園の周囲は、江戸時代の石垣が使用されているのでした。
かつてこのあたりには越前福井藩主・松平越前守のお屋敷があったのです。周囲は入堀に囲まれていて、これが「越前堀」と呼ばれていたそうです。堀の幅は20〜30メートルもあり、そこは運河としても利用されていたとか。
その後、時代は下り、明治になると堀は埋め立てられました。そして関東大震災の後は、ほとんどが埋め立てられてしまいました。住所表記も「新川」となりました。
そのため、越前堀の名前が残るのは、この越前堀公園だけだそうです。
この公園で使用された石は、日本橋川の雉子橋付近の石垣の一部だそうです。以前、歩きましたが、共立女子大学の近くにある橋です。
その石は伊豆半島から切り出され、お城のお堀に使われたそうです。
いろいろな案内板がありました。中央区の教育委員会も、きちんと仕事をしていますね。
さて霊岸島の由来です。ここでは「霊厳島」と書かれていました。
江戸が開拓されたころは、この辺りは一面の沼地でした。
寛永元年(1624年)に、霊厳上人という人が、霊厳寺を創建して、その後、そのあたりの土地は越前藩主の下屋敷となりました。
明暦3年(1657年)の江戸の大火で霊厳寺は全焼して、寺は深川に移転しました。
その後、このあたりは明治・大正年間には13の町に分かれ、多額納税者も多数居住して、倉庫地帯として下町商業の中心地となりました。
霊厳島の記念碑。
帰りは地下鉄はやめて、都バスに乗り、東京駅まで。
バスに乗ってみると、茅場町から日本橋を経由して、東京駅までは直線上にあり、とても近いものだとわかりました。
昔の人は徒歩で行ける範囲だったのでしょうね。
東京駅の八重洲南口に到着。
ミニミニトリップはこれで終了しました。
江戸の名残りを確認できた霊岸橋あたりでした。
*******
この日の装い。
大島紬もどきの青系着物。
0 件のコメント:
コメントを投稿